彫りも何もない簡素な衝立を蹴り倒す勢いで入室して来た曹丕に、琉漣は筆を取り落とした。

「――そ、曹丕殿?」

 曹丕が怒りを露にすることはさほど珍しいことでもないが、こうして誰にもわかる貌で、というのは珍しい。筆を落としたままの体勢で目を瞬かせる琉漣の眼前に曹丕は無言で、険しい顔をして荒い跫音をたて歩み寄る。
 そうして――勢いのまま、琉漣を椅子から蹴落とした。

「……な……何を……」

 派手な音をたてて椅子ごと床に倒れ込んだ琉漣は、冷たい顔で見下ろしてくる曹丕を呆然と見上げた。一体何がどうなって、自分は教え子に蹴倒されたのだろうか。

「私を軽んずることなど、赦さぬ」
「は……?」

 何の話だ、と言いた気な琉漣の顔に、曹丕はあからさまに舌打ちをしてみせた。教え子の不良な態度に、琉漣はびくりと身体を震わす。――こんな乱暴な子だったろうか。

「この私が、お前を、切り捨てると思うのか」
「え? あの、曹丕殿……一体何の話をしておいでで――ッ!」

 今度は胸を踏みつけられ、後頭部を強かに床に打ち付けた。

「いっ……」
「私の、お前への執着を甘く見るな。その目を失おうとも、強さを失おうとも、聲を失おうとも、意思を失おうとも、その両手両足が千切れようとも、私は、一生、貴様を解放などしてやらぬ。死ぬまで、お前は私だけの師だ。それ以外になることは、断じて赦さんぞ、子然」
「そ、れは、勿論……」
「なれば二度と、私がお前を要らなくなるのだなどと、馬鹿げたことを口にするな、考えるな」

 そんな事を言った覚えも考えた覚えもなかったが、曹丕の底冷えするような低い聲と冷徹に光る眸に、ただ頷くことしか出来なかった。
 何があったのかは皆目見当もつかないが、とにかく曹丕はとんでもなく激怒していて、そしてそれはどうやら琉漣に向かっている。これ以上刺激しないよう自分からは動かず、曹丕の行動を待った。城内の官吏達の気配が、いやに遠い。
 やがて曹丕は、琉漣の胸から足を退ける。唇を噛んで一際強く踏みつけてから。

「……どこにも、帰さぬ。どこへも、やらぬ……」
「曹丕殿……?」
「お前は一生、私だけに仕えておれば良い……」
「ッ曹丕殿!」

 泣き出しそうに見える顔で言うだけ言って、曹丕は外套を翻した。
 琉漣は瞬時に、このまま帰してはならないと感じ取り、咄嗟にその純白の端を掴んで引き止める。

「――ッ?!」
「うわ、曹丕殿っ」

 引き止めた――までは良かったが。慌てるあまり随分力強く外套を引いてしまったらしく、曹丕が体勢を崩して背中から倒れ込んで来た。
 瞠目しつつ曹丕を受け止めた琉漣は、また無様に床に座りこむ羽目になった。腕の中で顔を強張らせている曹丕が、苦すぎる声で琉漣を呼ばわった。何をする、とでも言うように。

「……子然」
「はは……申し訳ありません」
「離せ」
「……ちょっと、嫌ですね」
「……」
「駄目です。少し、このままで」

 嫌というなら自力で離れる、と身を捩った曹丕の身体を、きつく抱きしめる。
 ――大きくなった。本当に。

「……あんなにお小さかったのに」
「……あれほど大きく見えたのだがな」
「もう、私と背丈もそう変わりませんね」
「いずれ追い越す」
「人として大きくおなりになるのは大いに結構ですが、背丈は今のままであって下さいね。背まで追い越されたら、寂し過ぎていけない……」
「……お前」
「……子離れしないといけませんね」
「しなくて良い。お前は一生私のものなのだから、ずっと私に依存なりしていろ」
「再三仰らないでも、子然は曹丕殿だけの師ですとも。死ぬまで、ずっと、曹丕殿の師で、曹丕殿の臣下であり続けます。――そうであって、構わないのですよね?」
「そう言った」
「はい。……そう、言いそびれておりましたが」
「何だ」
「ご結婚、誠におめでとうございます、曹丕殿。どうぞ末永くお幸せに過ごされますよう、お祈り申し上げます」
「……ああ」

 曹丕の側頭に自分のそこを軽く押しあてて、琉漣は名残惜しく感じつつも、曹丕から手を放した。



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