司馬懿はほとほと困り果てていた。司馬懿だけではなく、席を共にしている張遼と張コウも同様である。
 原因は、殆ど酔いつぶれて卓子に突っ伏しているにも関わらず、酒を手放そうとしない琉漣だった。

「琉漣殿。あまり飲み過ぎてはお体に障りますぞ……」
「そうですよ、琉漣殿。そろそろ切り上げては如何です?」
「放っといてください……どうせ俺なんか……俺なんか身体を壊して使い物にならなくなってしまえば良いんだ……」
「琉漣殿……」

 事の始まりは、夕刻司馬懿が琉漣の居室――琉漣は曹丕の希望により城で暮らしている――へ、彼に用のあるらしい張遼と張コウを伴い訪れたことだった。
 訪って早々に三者は、飲酒する琉漣という何とも珍しい光景を目の当たりにした。既に酔っていた様子の琉漣に誘われるがまま同席したのだが――。

「ええい、鬱陶しいぞ琉漣! その図体で啜り泣くな!!!」

 呑み始めた当初はまだ良かった。琉漣も酔っているとは言え理性を保っている様子だったので。
 だが一升、また一升と呑み勧めて行くうちに、とうとう琉漣が酒に負けた。というか、壊れた。
 終始丁寧で落ち着いていた挙措や口調は何処へ行ったか、一人称は「俺」になるは、物言いも粗野になるはで、誰が見ても悪酔いしていることは明らかである。
 終いには卓子に突っ伏して落ち込んでぐずぐずと愚痴をこぼし、それが涙声だからたまったものではない。

「司馬懿殿、琉漣殿はその図体で、というほど厳つくありません!」
「背が高いだけですからな」
「妙なところに反論していないでこの酔っぱらいを何とかしろ、この馬鹿どもめが!」
「背が高いだけで悪うございましたね! どうせ女顔だよ、どうせ抱かせろとか言われてたよ……っ!」
「黙れ酔っ――おい今何と言った?!」

 何か聞き捨てならないことを叫んだ琉漣に、司馬懿はついぞ耳を疑った。張遼に至っては、ぎしりと硬直したまま微動だにしない。

「確かに琉漣殿は美しい顔立ちをしてらっしゃいますから、不逞の輩に言いよられてもおかしくありませんねえ」

 しかし張コウだけは、觚(コ)に酒を注ぎながらのんびり言ってのけた。しかもとんでもないことに、「それで、実際手を出されたのですか?」などと聞いている。
 配慮のなさすぎる質問に、張遼が司馬懿に先んじて張コウを諌めたが、張コウも酔いが回っているのかどこ吹く風で酒を含む。
 訊ねられたほうの琉漣はのそりと顔を上げて、ぼんやりとした虚ろな目で張コウの顔を見上げた。見上げたが、視線は明らかに張コウを通り越している。

「……出そうとした奴、のほうが、ひどいめにあってた……と思う、気がする……」
「と、思う? 気がする?」
「裸に向かれて、木に逆さに吊るされて……百叩き……?」
「聞かれましても」
「そうしてそのまま放置……してた、かもしれない……」

 それは恐ろしい、とやはりのんびり張コウが相槌を打った。何にせよ無体を働かれてはいないらしい、と司馬懿と張遼は安堵の息を零す。
 とろりと瞼を落としかけている琉漣に、司馬懿は臥牀へ向かうことを進めたが、細身の武人は「んん」と承諾とも拒否ともつかない返事をしただけだった。また突っ伏してしまったから、多分拒否だったのだろう。

「おい、琉漣」
「司馬懿殿は……平気なんですか……」

 呂律の回っていない聲に聞かれた。何がだ、と酔っぱらいを相手取る疲れを滲ませて司馬懿は半ば投げやりに聞き返す。

「曹丕殿が大人んなっちゃって……寂しくないんですか……」
「……貴様、それで自棄酒か」
「……ほんとはわかってんですよ奥方が曹丕殿を認めてることくらい。だってあのとき私一緒にいましたもん。……私だって祝福してやりたいですとも。曹丕殿がお選びになった人ですよ、初めてじゃないですか、自分から傍に置く人間を選ぶだなんて……。だから喜ばしいことなんだってのは、そのぐらいわかりますとも。嬉しいはずなんですよ、曹丕殿が大きくなられるのは嬉しいことのはずなんですよ……」
「わからんでもないが」

 と言いつつ、司馬懿は琉漣の言っていることを理解出来る。何せそれらは総て、司馬懿の心情そのものであるのだ。親心の琉漣とは違って、自分は悋気であるのだが……。
 司馬懿は己すら知らぬ間に、曹丕に対して臣下の情を越えたものを抱いていた。あの高潔を平伏させたいような支配慾。無愛想な面を屈辱に歪ませてやりたいとも思う。――何もかも、卑猥な方向で、司馬懿はそう思考している。
 ……ということに気付いて、どうしてもあの薄青を手に入れたくなった矢先に、あの女が現れた。もっと早くに自覚しておれば……。曹丕婚姻の知らせを聞いてからというもの、司馬懿が臍を噛まない日などない。

「なのに素直に喜べないんです……祝えないんです……。俺……私、は、ちゃんと祝ってあげないといけないのに……。でなきゃあ何で、俺こんなところに、いるんだろ……」
「……琉漣殿」
「きっとそのうち……曹丕殿に私なんていらなくなる……」
「なにを」
「その前に……死んでしまいたい……俺――帰り、たい……」
「な――」

 あまりに気弱な発言と聲に、ひゅうと息を飲んだ。「帰りたい」という悲嘆を疑問に思ったがそれも一瞬のことで、次いでしばしば曹丕の琉漣への懐き様に苦汁をなめさせられた司馬懿は激昂する。あれほど曹丕に信をおかれながら「要らなくなる」などと、腹立たしいにも程がある。
 ばん、と机を叩いて、司馬懿は勢いのまま立ち上がって琉漣を怒鳴りつけた。二張が目を瞠っているが、知ったことではない。

「貴様ッ、何を馬鹿なことを言っているのだ! 曹丕殿がお前を不要だと思うことなど、腹立たしいが到底ありえんのだぞ! 傍目に見ている私が分かって、何故当人がそれを理解せんのだ!!」
「……」「琉漣!」

 これだけ弱気になっていれば、何か後ろ向きな反論くらいしてきそうなものだが、琉漣は反応しない。もしかして……と張コウが琉漣の様子をうかがった。結果はやはり、

「……寝て、おられますねえ」
「……ッこの…………馬鹿めが!」
「ふう……」



 ――翌朝。

「何も覚えていないだと!?」
「え、ええ……」

 いつも通り日の出から半刻後に起床した琉漣は、床に転がる一人の軍師と二人の武将を認めて、暫く目を瞬かせていた。卓子の上に無造作に置かれてある觚やら何やらを発見して、ああ飲んでいたのかとそれは思い出せたのだが、司馬懿達が訪ったことなど記憶にない。
 いつ来られたのだろう……。首を傾けつ琉漣は取り敢えず散らかった部屋を片付けてから――婢(げじょ)に仕事を奪わないでくれと呆れられた――司馬懿達を起こした。
 そうして子細を尋ねるなり、顔色のいつもより悪い司馬懿に怒鳴られた。怒鳴った司馬懿は、痛むのだろう頭を抑えて蹲った。

「あれだけ人を掻き回しておきながら、貴様……良い身分だな……」
「ええと、それは申し訳ない。記憶が飛ぶだなんて思いませんでした」
「今まではそのようなことがなかったのですか?」
「ええ、まあ、はい。滅多に飲酒などしないので……。あの、私、何をしたのでしょうか」

 何だか気持ちすっきりしている気がするのですが……と首を傾げた琉漣に、張コウも張遼も黙り込む。あれは、言っていいのか言わざるべきか。
 暫く顔を見合わせていたが、やがて張遼が切り出した。

「覚えておられないのなら、その方が宜しいのではないでしょうか」
「そうですとも。何も酔って暴れたわけではないのですからね。……ただ我々に少しばかり衝撃を齎したというだけで」

 たとえば、粗野な口ぶりだとか、一人称が俺になっていただとか、弱気に過ぎる発言だとか。
 ――どこに、帰りたがったのだろう、だとか。

「は……?」
「ああいえいえ、何でも」
「ともかく、一つ言うべきことはだ、琉漣……」
「はい」
「お前は、二度と、自棄酒を、するな。わかったか」
「え、あ、ええと……はい」

 青白い司馬懿に鬼気迫る勢いで睨まれて、人の気迫に慣れた琉漣でも、この時ばかりは何故か気圧されたのだった。



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