目を伏せ、卓子に頬杖をついて甄姫の笛の音を聞いていた曹丕は、時折瞼の裏に現れる琉漣に眉を顰め、甄姫が奏で終えるのと殆ど同時に溜息をついた。
 曹丕の苛立たし気な溜め息を耳にして、甄姫はその麗しい顔を少し暗くした。

「何か……良くないところでもありまして?」
「……いや」
「そう。ですが、今日も私の音色に心底から聞き入らせることはかなわなかった様子……口惜しいことですわ」
「そのようなことは」
「ありますわ。いつでも貴方はあの方を気にしていらっしゃいます。――そういえば、今日は琉漣殿はいらっしゃらないのですね。それで余計、気を散じておられるのかしら。琉漣殿はどうなさったのです?」
「……置いて来た」

 憮然としたような曹丕の答えが意外だったのか、それとも拗ねたような聲が意外だったか、甄姫は目を瞬かせた。

「まあ。軽率ですわね。もし私が貴方と刺し違えようなどと考えていたら、どうなさいますの?」
「やるのならば、子然がいようがいまいがしているであろう。お前は、無駄に死に急ぐほど愚かにも、誇りのないものにも見えん」

 頬杖をついたまま、つんとそっぽを向いた。甄姫が、苦笑ともつかない笑みを零したのが聞こえた。

「琉漣殿とは、長いおつきあいだと伺いました」
「……十年よりは長い。あれは私の師だ」

 自分だけの味方でもあった。同士だった。琉漣があのとき、今よりうんと小さかった手を取ってくれたからこそ、こうして他人に少しでも心を許せている。
 すべてが、彼のおかげのような心地もする。でなくば司馬懿はもとより、曹真や弟達さえ信用出来なかったろう。今も尚、世界は暗闇のままだったに違いない。
 琉漣は曹丕を皓月だと言うが、曹丕にとっても琉漣は月だった。いつでも、優しく夜闇を照らしてくれた。支えだった。
 ――その琉漣が。自分が妻に選んだ甄姫を認めようとしない。それが曹丕は、悔しくて寂しくてたまらなかった。
 他ならぬ琉漣に認めて欲しいというのに、何故彼は分かってくれない。

「……私は」

 眉を顰め唇を噛んだとき、穏やかな聲で、甄姫が口を開いた。

「私は、貴方に前の夫を殺されました」

 ゆっくりと、曹丕は背けていた顔を甄姫に向ける。琉漣が言うような深い恨みというものは、彼女の声からは伺えない。ただ事実を述べているだけの聲だった。

「琉漣殿は、曹操様によってお父上を討たれたのですわよね?」
「……そう、聞いている」
「では、あの方が私をお疑いになるのも、仕方ありませんわ」
「……何故だ」
「お父上を討たれておいでだからです。そして私は夫を討たれた者――。身内を殺されたからこそ、私があなたを恨んでいるのではないかと、勘ぐらずにはいられないのでしょう。ご自分がお恨みになったゆえに。あなたを大切に想えばこそ、尚更ですわ」
「…………恨んでいるか」

 聞くのは、甄姫を迎えてから初めてのことだった。聞く必要も、ないと思っていた。
 袁熙を討ったことを後悔などしていないし、するようなことでもない。敵であったから、討った。それだけのことであった。戦場では当たり前のことだ。
 それを理解出来ないほど甄姫を愚かだとは思っていない。だから聞かなかった。
 だが――琉漣はいつまでも懸念していた。戦場だった、乱世だった。それだけでは割り切れないのだと、何よりも琉漣が知っていた。
 ゆえに、疑い続けている。万が一があるかもしれないと。
 少しだけ顔を伏せた曹丕の問いに、甄姫は暫く考える素振りを見せて、静かに語り始めた。

「袁家の方は、私を大事にはしてくださいましたが、それだけですわ」
「それだけ、とは?」
「私がお家のためになればと思って袁熙様に進言しても、何一つ聞き入れられませんでした。官渡でも、ともに戦いたいといっても、女は邸に控えていろと……」
「邸に籠っていた方が安全であろう。だから控えているように言ったのではないのか」
「さあ、どうでしょう。けれど真意がなんであれ、私の何をも認められず、私はただ飾り立てられる人形でしかありませんでした」

 前線には無理矢理付いて行った、と甄姫は言う。そうして良かった、とも。

「あなたは、私を人形にはなさらないだろうと思っていますわ。――だからこそ、私はここにおりますのよ、我が君」

 甄姫は席を立って、曹丕の前で腰を屈める。そうしてその美しい両手で、曹丕の頬を包んで微笑んだ。
 琉漣とは違う、けれども同じく慈しむような微笑を向けられた曹丕は、知らず眩しいものを見たように目を眇めた。
 手を放した甄姫を抱き寄せて膝の上に座らせ、薄い肩口に鼻梁を埋める。

「……子然を置いて来るのではなかったな」
「何故です?」
「今の言葉を聞けば、さすがに彼奴とて甄を認めぬ訳にはゆくまい」
「あら……どうですかしら」

 くすくす、おかしそうに笑う甄姫に、曹丕は問うような薄青を向ける。

「琉漣殿はきっと、お寂しくてもいらっしゃるのでしょうから」 
「子然が?」
「稚くていらっしゃったころから、ともに過ごされたのでしょう?」
「……ああ」
「親心のようなものです、きっと」
「……よくわからぬ」
「ふふ。……私達に子供が出来て、その子が大人になれば我が君もきっと、感じるはずですわ。そうして、琉漣殿の気持ちを理解出来るはずです」
「出来るだろうか」
「もちろんですわ」

 そうか、と甄姫の首筋に呟いた。
 ――憤りは、殆ど消えていた。

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