皓月
その後のことを、琉漣はよく覚えていなかった。激しく泣いた気がするし、曹操に斬り掛かろうとしたような気もする。
気付いた時には拘束されて獄舎にいたので、尚も抵抗していたのだろう。気付いた時には、もう涙は出なかった。
ただ総てを喪った虚空が、虚無が、心を支配しているだけだった。養父の首が刎ねられた瞬間は、それでも確りと思い出すことが出来た。
飛び散る紅を思い出すたび、心底の火が激しく燃え盛りそうになる。青い、冷たい炎だ。
「子然……」
袖を引かれて、はっと我に返る。書卓の向かいを見ると、青みを帯びた眸のこどもが、幼子らしからぬ眸でこちらを見ていた。
この、子供の名前を、曹丕という。琉漣の仇敵である、曹操の息子だ。
半年前、登用を頑に拒否していると夏侯惇がやってきて、無理矢理曹丕の世話係にさせられた。手頃な人間がいないのだと強引に承諾させられたが、仇敵の頼みを何故素直に聞いているのか、当の琉漣にもよくわからなかった。
不承不承とは言え任せられた事を反故にすることは憚られたので、今現在も曹丕の勉学を見てやっているところだった。
「終わりましたか」
肯首。
別に人を雇えば良いだろうに、と琉漣は思う。特段勉学が不得意な訳ではない――むしろ得意なほうである――が、武芸のほうが好きな自分に何故家庭教師のようなことをさせるのか。
琉漣は、このこどもが、あまり好きではない。仇敵の息子だというのもある。それ以上に、寂しさを隠そうとしている眸が、嫌いだった。嫌いというよりも、悲しい。色は、好きだ。
親の恋しい年頃だというのに、曹操は多忙を理由に顔を出さない。琉漣が不在の折に来ている様子も無い。様子見には、時折夏侯惇が来るのみだ。
それが、憎悪云々とは関係無く、琉漣には腹立たしかった。
曹丕は頭も良く、幼子にしては腕も良い。詩才もあるように思える。それなのに、何故曹操はこの子供を愛さないのだろうか。
間違いなど一つもない答案をじっと見つめた。
「子桓、調子はどうだ」
日が傾きかけたころ、夏侯惇が現れた。このとき一瞬だけ、曹丕は嬉しそうな色を僅かに見せるので、夏侯惇が好きなのだろう。
それでもごく僅かで、喜色も寂しさもすぐに隠してしまう。曹操の来ない、落胆も。
「叔父上、父は……」
と言って、言葉を止める。こうして夏侯惇に訊ねるのは、珍しいことだ。この半年で、少なくとも琉漣は初めて見た。
「子桓……」
哀れむように、夏侯惇は曹丕の頭をゆるりと撫でた。
いっそ。いっそのこと、寂しいのだと素直に泣けば可愛らしさもあるのだ。だが曹丕は曹操の息子であることを十二分に理解しているからか、泪一粒こぼさない。汝南で見かけたこの年頃の子供は、もっと感情が豊かだったはずだ。
「琉漣、子桓を頼んだぞ」
「はい、……」
咄嗟に、という訳ではなく、素直に頷いてしまった。夏侯惇は目を丸くしているが、驚いたのは琉漣自身も同じだった。
この半年間一度たりとも、夏侯惇のこの言葉に声を返したことなどなかった。ここは仇敵の懐で、目の前にあるのはその息子で、頼んでいるのは仇敵の腹心。頷きようもなかった。
目の前のこどもを、哀れんだのかもしれない。
「驚かないで頂けますか」
「そうは言うがな。どういった風の吹き回しだ」
「別に……意固地になるのも、大人げないような気がしてきたので」
「は、何を言う。まだ二十を少し過ぎたばかりの癖をして」
「何ですかそれは! 貴殿から見れば子供かも知れませんが、子供のように仰らないでください」
「いや、若いと思っただけだ。ひたすらに孟徳を憎み続けられるのも、若さから来る激しさというのか」
「若かろうが老いていようが、人を憎む時は憎むものでしょう。それとも貴殿は、若くないからと言ってあれが謀殺でもされた時に、憎まずにいられるというのですか」
もしも琉元が討たれず、あのまま挙兵していたのなら、この怒りと同じものを誰かからぶつけられていたのだろう。
曹操が進軍してきていると聞いたあの日、父には責めるのは筋違いだと言った。だがそれは、挙兵するという事をほんとうに理解していなかったから言えたのではないだろうか。
挙兵するというのは、人の憎悪をも背負う覚悟が必要な事なのではないか。修羅の道行きだ。人の憎しみを真正面から受け止める覚悟を、自分たちは――少なくとも琉漣は、欠いていたのかもしれない。
「……ふむ、それもそうか。まあ何でもいい、子桓を頼む」
そう言って、夏侯惇は退室していった。
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