果てなき蒼穹は広く、また湖は海のように懐を広げている。
――水天一碧(スイテンイッペキ)。空も湖も境界線を知らずに溶合い、一続きに輝いている光景は、まさにその言葉が相応しいだろう。
吹く風は優しく、草原や森の樹々を撫でて揺らしてゆく。穏やかな、心地良い空間。転生したという衝撃も混乱も慰め忘れさせてくれる、優しい場所。
「……しかし、ここはどこだろう……」
迷子な訳では、断じてない。
だって僕はまだこの世界では赤ん坊のはずで、ようやくぽろぽろ喋れるようになって来たくらいで、一人でこんな奥深い湖に来られるはずがないんだ。そもそも僕は今、少年ほどの姿でいる。
「どうなってるんだろ……」
「クフフ……。それはここが、精神世界だからですよ」
「っ?!」
突然背後からかけられた男の声に、僕は驚いて振り返る。
そこには、なんとも独創的な髪型の青年が微笑を浮かべて佇んでいた。赤い目と青い目の、オッドアイが、僕を貫く。
何だか少し、この人は――
「おやおや。そんなに怯えないでください、南雲日嗣君」
「な、んで、名前……」
「クフフフフ……。さあ、どうしてでしょう」
あ、あやしい……。
彼は僕を虐めていた人達とも違う、悪戯を思いついたみたいな笑顔をしている。
どうしてって言われても、わかんないし。さっきここは精神世界だって言ってたけど、それってどういうことなんだろう。
僕は、確か眠くなったから昼寝をしていたはずなのに……。これは、夢……?
「夢と現実の狭間――と、考えてください」
「えっ?!」
「どちらかといえば夢に近いですが、夢とは言えません。精神世界で、お話ししていますからね」
「な、なに……?」
「クフフ。わからなくとも良いのですよ、南雲日嗣。永劫の刻を廻る魂の持ち主――」
「永劫……廻る……?」
なに。彼は何を言ってる?
永劫の刻を廻るって、どう言う事なんだ。僕が僕のまま生まれ変わってしまったことに何か関係あるのか? この人は何か知ってるのか?
「おや、君は自分がどのような存在かを知っていないのですね」
「あなたは……知ってるの……、僕が生まれ変わったことについて」
「知っていますよ。というより、感じていると言った方が良いのでしょうか。南雲日嗣、君は僕と同じく輪廻するものだ」
「輪廻……」
「言葉の意味は、ご存知ですか?」
控えめに頷く。
輪廻――。人の魂は滅びることなく、六つの道に生まれ変わり、永遠に迷いと苦しみの世界を廻り続けるという仏教の考え……だったろうか。
口元に手を当ててちらと彼を見上げると、妖しく笑んでいた彼はその通りです、と僕の思考を読んで肯定した。
「で、も……あなたの言い方だと、六道を廻るのは総ての魂では、ないように聞こえる……」
「さあ、どうでしょう。少なくとも、僕と君がとりわけ特殊であるということは間違いありませんが」
「特殊?」
「ええ。僕には、六道総てを廻った記憶がある――君が、以前の世界のことを覚えているようにね」
「――なんで、知って……」
「クフフフ、質問ばかりですね。……おや」
何か人とは違う眸をする彼が、僕は恐ろしくなって一歩下がる。と同時に、今まで穏やかに流れていた風が、突然強風となって僕たちを襲う。
突風に乱される髪を抑えて軽い身体が飛ばされないよう踏ん張っている僕の耳に、彼のゆったりした声が届いた。
「残念ながら、もうお別れの時間のようですね。またお会いしましょう、永劫に人間道を廻らされる者よ」
「ま、待って……! あなたは……」
「クフフ……僕は、骸。六道骸です。いずれ現実でお会い出来ることを願いますよ、南雲日嗣。――Arrivederci」
風が――止んだ。
「――うぇ……」
「あら、起きちゃった?」
きつく瞑っていた目を開けると、そこは母親の腕の中だった。春の日差しみたいに温かい腕に抱かれて、また瞼が重くなってくる。
「ああ、でも丁度良かった。今から、日嗣に会わせたい人がいるの」
「あわ……?」
「その人はね、パパの上司のご子息でね。日嗣と同い年の子なのよ。ディーノ坊ちゃんっておっしゃるの」
「でぃー……」
ディーノ坊ちゃんよ、と母親が美顔を優しく緩ませたとき、近くで赤ん坊の泣き声が聞こえた。
それであたりを見回して気付く、どうやらここは優雅なティータイムを楽しめるテラスだったようだ。でも、見たことがないから僕の家じゃない。どこだろ。
「あら……あらまあ、きっと坊ちゃんだわ」
「ぼっや…………ぼっちゃ、う」
く、くそおおおお赤ん坊……! 坊ちゃんとすらまともに言えないなんて!
僕が思い通りにならない舌に内心もんどりうっているうちに、泣き声が近づいて来て、それはやがてテラスへのガラスの扉を開いてやってきた。
正確には、扉を開けたのは怜悧そうな美男――僕の今生の父親で、泣き喚く赤ん坊を抱いて出て来たのは人の良さそうな、けれど眸の奥には一般人足り得ない光を宿した男性だった。
テラスに出たことによって、男性の抱く赤ん坊の金色の髪が、きらきら、日差しを受けて、輝いて――。
「あらまあ、ボス、御機嫌よう。今日も坊ちゃんはお元気でいらっしゃるみたいですわね」
「やあ、雫。わざわざ邸にまで来てくれてありがとう。そっちがお前達の息子の……日嗣、だったか」
「ええ。ほら日嗣、ボスと坊ちゃんにご挨拶は?」
母親に促されたけれど、僕は正直それどころではなかった。"坊ちゃん"の太陽みたいな髪に見とれてて。
何だか良くわからない、感覚がした。かちりと音をたてて、何かが嵌ったような、そんな。よく、わからないけど――
「あら? あらあらあら、どうしたの、日嗣」
「うん……俺が怖かったかな?」
「日嗣は人を恐がって泣くことはありませんが……。もらい泣きでしょうか」
もらい泣き? 僕が泣いてるの? なんで。
自覚がないけど、僕は泣いてるらしい。声も出さないで、まったく赤ん坊らしくなく。キャバッローネのボスも両親もそれを気味悪がることなく、僕と"坊ちゃん"を泣き止ませようとあやしている。
彼が泣いてるから、つられたわけじゃない。じゃあ何で泣いてるんだって言われると非常に困る。
ただわかるのは、――喜び。欠けていたピースが埋まったような感覚に、僕は喜びを感じたということだけだった。
あなたは目的があってここにいます。この広い世界にあなたと同じ人間はいません。
過去にもいなかったし、未来にもいないのです。あなたは何かの必要を満たすためにここに連れてこられたのです。
このことについて、ゆっくりと考えてみて下さい。
――ルー・オースティン