刻が重なる音と


side => Cao Pi

 ――まただ、と曹丕は書卓に向けていた顔を上げる。また、音が聞こえた。かちり、かちり、という細い音で、規則的に律動している。聞いたことのない類いの音が、常にというわけではないが昨日から曹丕には聞こえていた。聞こえるのはふと気を緩めた瞬間だったり、逆に気を張っている最中だったりする。細かい感覚の律動とは程遠く、不規則に。
 秋が訪れたばかりの、蒸し暑い真昼のことである。

「どうしたんですか、兄上?」

 そしてどうやらこの音は、曹丕にしか聞こえていない。向いに座る弟の曹植が、不思議そうに首を傾けた。

「……いや」
「そう……ですか? 機嫌、よくないように見えますけど。子丹殿も、心配してましたよ、兄上のこと」

 曹植は底意地の悪そうな吊り目を、心配げに揺らした。それに曹丕は緩やかに口元を上げて、問題ないと答える。

「……兄上ぇ」

 未だ納得のいかなそうな弟の頭を正面から撫でてやれば、曹植はわずかに頬を上気させて、上目遣いに口を尖らせた。

「……子丹殿が気にしてくれて嬉しいんだ、兄上は」
「気にされないよりは、されたほうが嬉しかろう。誰しもな。子丹は兄のようなものだから、尚更だ」
「子丹殿ばかり、ずるい。わたしだって兄上が心配なのに、兄上はわたしが心配しても喜んでくださらない」
「……子建」
「たからわたしは子丹殿が嫌いなんですよ。子丹殿ばかりずるい」

 曹植の茶色い眸に、ありありと悋気が灯った。このところ彼は、兄弟の分を越える執着を見せることがある。
 つまり曹丕は、曹植に兄として以上の感情を向けられている。昔から奔放で扱いにくい弟ではあったが、ちかごろはそれもあって、どう接すればいいのかがわからなくなっていた。
 どんな感情を向けられても、曹丕は曹植を弟としてしか見られないし、愛せない。かと言って突き放すことも、したくない。曹植は自分に好意を寄せてくれる数少ない人物だから。
 曹植から手を離して、曹丕はそっと《薄青の眸》を伏せた。

「……兄上。わたし、兄上の眸、だいすきですよ」
「……そうか」

 目を伏せた心情を察したか、曹植は兄を覗きこんで、つとめて明るく言った。

「兄上はきっと天に愛されているんです。だから兄上は、空をとじこめた眸を持ってるんですよ! 透き通った玉より何倍も美しい兄上の眸を、事もあろうに気味悪がるような美的感覚いかれた奴等なんて、ほっとけばいいです」
「あいもかわらず……いちいち言う事が大袈裟だ」
「えへへ……。性分ですから」
「お前の言葉は壮大で森羅万象と人との境界がないから、押し寄せる大きく偉大なものに飲み込まれてしまいそうで、恐ろしいな」

 本心だった。――曹丕は、曹植の大いなるものと人間を分けない言葉が、恐ろしい。自然と人間を同等に扱い表現する曹植の言葉は、自然と人間を同列に配せない曹丕を圧倒する。得も言われぬ恐ろしさを感じる。畏怖――それに近い感情を抱いてしまう。
 矮小な自己など瞬きのうちに呑まれてしまいそうで、だから曹丕は曹植を恐ろしく感じる。これも、曹植の扱いに困る一因だった。
 曹植のようになれたのなら――。詮無いことを思う曹丕の耳に、またか細い音が届いた。

「……兄上?」

 軽く息を吐いて席を立つと、不安げに曹植が見上げてきた。機嫌を損ねたのだろうか……とでも思っているのだろう。

「少し、歩いてくる。……共に来るか、子建よ?」

 自分が勝手に重い気分になったのだから、曹植が悪いことではない。それを伝えるように振り向けば、曹植は綻びる花のような笑顔を浮かべたが、

「誘ってくださって、子建は瑞夢を見た朝ほどにも嬉しいです。でも、いまは遠慮しておきますね。兄上との散歩はとても魅力的だけど、これ、読んでしまいたいので」
「そうか」
「はい」

 古人の詩歌を指した曹植だが、自分がいては気分転換ができないと察しての言であろう。少し申し訳なく思いながら、曹丕は私室を出るべく歩を進めた。
 ――部屋と走廊の丁度境目を跨いだ瞬間、脳裏に鈍い鐘のような音が一回だけ響いた。これもまた、初めて聞く音だった。

「――ッ兄上!?」

 その背中に、曹植の焦ったような悲鳴がかけられたので、何事かと振り返る。

「な――」

 けれど振り向いた先には、いるはずの弟の姿も、ましてや見慣れた私室の景色もなく――。
 驚く曹丕の視界を占領したのは、見たこともない、凡そ漢ではありえない調度の部屋と、曹丕と同じように瞠目している、同年代の人物だった。

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