「――っ!!」

 真っ赤に染まる情景を見て、俺は飛び起きた。どくどくと大袈裟な程に音を鳴らす左胸のシャツを握り締めて、荒い息を整えることもしない。
 あれは、夢だ。わかってる。たとえ今までに見たどの"あの日"より、一番現実に起きた過去に近くても。
 ――以前見た夢よりも、現実の惨状はもっと酷かった。

(駄目だ、思い出すな)

 自分に下命しても、溢れ出る赤は押しとどめることができない。次々にあの日が蘇ってきて、食道を這い上がる吐き気を堪えることさえできなかった。

「う、ぇっ……っ」
「白水……!」

 慌てた声とともに俺の背中に触れた手を振り払って、はっとする。
 少しだけ落ち着いた頭で、ベッド脇の気配を仰ぎ見る。

「動けるか?」
「……なんとか……」

 さっき俺を介抱しようとしたのは、養護教諭の片桐潮だったらしい。

「だったら、その辺のコップ使っていいから、口ゆすげ。んで、着替えて隣のベッドで寝なおすことだ」
「……すみません」

 ベッド汚したり振り払ったり。
 謝った俺に片桐校医は「気にするな」と笑って、俺を促した。
 ベッドから降りた俺は水道の側にいくつか置いてあるグラスに水を注いで、吐瀉物の何とも言えない味が残る口内をゆすいだ。制服は汚れなかったが、せっかく用意してあるので変えさせてもらった。
 片桐校医が片付けている、今まで俺が寝ていたベッドの隣のベッドに横になる。が、寝はしない。
 ――事件直後は、暫くこうだった。あの日を夢見ては飛び起きて、思い出しては吐いて。もっともその頃は嘉山と同じ部屋で寝てたから、意地でトイレまで行って吐いてたが。
 そう考えると、耐性が落ちているのかもしれない。まあ、二、三年過ぎてからは夢を見ても吐かなくなってたってのもあるだろうが。

「……」

 寝たくないのに、瞼が重い。手の甲に爪を立てて、何とか眠るのを堪える。

「――片桐校医」
「何だ」

 ベッドを直し終わったのか、丁度顔を出した片桐校医に嘉山の所在を訊ねる。教室で血を見た後の記憶がないから、多分嘉山がここまで運んできたんだろ。

「なんかすげえ形相で出てった。二十分くらい前か――?」
「よしはる……!」

 ばたばたと、保健室利用者には傍迷惑な足音が響いてきたと思ったら、次には乱暴に保健室のドアが開けられて、涙声に名を呼ばわれた。

「せんせ、よしはる、どこ!」
「お……おう、ここのベッド……」

 滅多に見ない千影の勢いに、片桐校医がしどろもどろになっている。涙声っていうか、完璧泣きべそかきながら走ってきたなこいつ。

「よしはる!」
「……首輪外せ」
「っ、う」

 ベッドを囲ってるカーテンを引きちぎる勢いで開けた千影は、案の定大泣き真っ最中だった。
 詰め寄ってきた千影の首輪は赤くて、今の俺には辛い。舌打ちして外すように言った俺に、千影は頷いてもたつきながらも何とか首輪を外した。

「……何でいる」
「吉良、生徒会室きて、芳春倒れたって、嘉山が運んだって……かいちょ、いいよっていうから、急いできた……」

 嗚咽だらけで聞き取りにくかったが、俺が嘉山に保健室に運ばれたことを、生徒会室に来た吉良に知らされたと。で、鴻巣が許可をくれたんで走ってきたと。

「……あのな。俺が休んだり倒れたくらいで泣くなよ、駄犬」
「えうー……」
「心配してくれたんだろうに、それはねえんじゃねえの?」
「ですが、…………?!」

 ひょいとカーテンの向こうから出された顔に、俺も千影も片桐校医も固まった。

「な、だ、代理……?!」
「だーから、気をつけろって言ったろうが」

 気軽に現れた代理は、突然のことに呆然とする俺達を見て笑った。

「俺を呼んだの潮さんだろ。何であんたまで驚いてんだ」
「……いえ……あんまり来るのが早いものだから」
「近くにいたからな。――千影だったか? こいつには俺がついてるから、安心して生徒会に戻れ」
「……でも」
「ちゃんと元気にしてやるから」
「……はい……。芳春、またね」
「あァ」

 名残惜しそうに心配そうに、何度もこちらを振り返りつつ、千影は保健室を出て行った。入ってきたときとは逆に扉が静かに閉められてから数秒、片桐校医は代理に一礼してからカーテンを閉めて離れて行った。
 ベッドに腰掛けて、横になっている俺の前髪を退けている代理に、どうして……と問いかける。起きあがろうとしたが、押しとどめられた。

「前途有望な部下を救うのも、ご主人様の務めだろう?」

 ……どこまで本気なのかわからないが、たぶん半分以上本気で言ってるんだろう。

「っていうのは少し冗談だが、まだ吉良のとこじゃ泣けなさそうだから、来た。潮さんも俺の方がいいだろって判断したから、呼んだのだろうしな」
「俺は……」

 誰のところでだって、俺は泣けない。泣きたくない。
 一度でも泣いてしまったら、俺はもう前を向けなくなってしまうのじゃないかという恐怖がある。そうなったら、鶫だって、あいつはきっと立ち止まった俺に付き合ってしまうだろう。
 何より俺は、人に弱いところを見せたくはない。弱さを見せることは、氷上のクソババアに負けることのような気がして。負けたら、あいつが父さんを貶めることに正当性を持たせてしまう気がして。
 結果や功績ではなく、精神的な面で俺は誰にも負けたくない。負けたくないのに、今更血を見た程度で気を失って、あの日を夢に見て吐いてしまった。
 不甲斐無さに苛立って握り締めた拳を、代理の手がやんわりと解いた。

「もう、強がるな。泣いたくらいで、弱音を吐いたくらいで、誰もお前を見捨てやしない」

 静かに注がれた代理の声は、まるで心臓を鷲掴みにされたように俺の心を締めつけて揺さぶった。
 けれどここで、彼の言葉に甘えてはいけない。戦慄きながら、声を振り絞った。

「け、れど……他の誰がそうでも、鶫は……!」
「あいつだって分かっているさ。だから、お前が前に進めなくなっても、嘉山まで進まなくなるということはない。それは余計お前を苦しめるのだと、嘉山もわかっているはずだ」

 俺の手を握って、頭を撫でながら、代理は言い聞かせるように言う。

「なあ、白水。ちょっと立ち止まったくらいで、一体誰がお前を責められる? 十二年もの間、必死で俯かないように突っ走ってきたお前のことを、誰が。色々な人間が、白水は十二分に凄い奴だと知っている。誰もお前の両親を、お前のことで悪く言ったりはしないさ」
「……けど、氷上の……」
「は! あんな先の長くねえ被害妄想の甚だしいババアには好きなこと言わせとけ。過去にばかりこだわり、明日どころか今日さえも見えていない奴にはな。立ち止まって久しい醜女(しこめ)の罵倒など不当なものだ、聞く耳を持つ奴などいない」

 噛み締めた唇を、代理の親指の腹はやさしくなぞった。

「泣いて良いぜ、芳春。泣くということは、弱さでも――まして敗北でもないのだから。大丈夫だ。お前なら、また明日から歩きだせる。だから……泣いてしまえよ」

 柔らかで、あたたかな黒と青の眸が、俺の眸を映す。
 ――ああ、感情のままに涙を流せないのは、苦しいことだ。――苦しいことだった。
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