担当の時間が終わり、制服に着替え終えてからも暫くは教室に留まっていた。と言っても邪魔にならないようパネルで区切った簡易控え室から、問題が起きたときのために備えていただけだが。
 客は順調に回っているし、何よりトラブルメーカーの真山がいないこともあって、特に俺が必要なトラブルも起こらなそうだったので、やることもないんで美術室に足を向ける。他所を回る気は、親衛隊幹部のクラスを除いてない。幹部のところへ顔を出すのは交流の一環としてだ。
 幹部の担当時間は午後に集中していると聞いたから、午前中の残り時間は暇になる。本来なら平隊員のところへも顔を出した方が良いんだろうが、末端の担当時間まで把握していない。必要ない、と田名部先輩に押し切られたというか……。
 美術部のほうの当番は午後の終了時間前の三十分程度だが、それまで暇だ。嘉山は嘉山で幹部のところに顔を出しに行って不在だし。それが終わっても萌えの趣くまま行動するだろう。
 教室を出て、一緒に回らないかという誘いの数々を断りながら渡り廊下の前まで辿り着く、と。

「あ……」
「……どうも」

 こちらも一人で移動していた三條部長と出くわした。何故か重い沈黙が降りる。
 どうにも気まず気な三條部長はしきりに目を泳がせている。言いにくいことを持っています、とでも言うように。

「……例のこと、ご存知で?」

 衆目があるのでかなりぼかしたが、三條部長には伝わったらしい。はっと息を飲んだ後、苦い顔で頷いた。

「白水も、知ってはるんどすか……?」

 廊下のど真中で立ち止まっていると邪魔になるので――といってもそんな長話をするつもりもないが――渡り廊下の壁際に移動する。
 つーか、この物言いだと三條部長は俺があの女の仮釈放を知らされていなかったことを知っているように聞こえる。訊ねれば、風紀副委員長の夏煌胤飛将とこの件で話した時に知ったと答えがあった。

「けど、ここには来いひんさかい、安心しゃはっておくれやす」
「近寄らせない、と仰って下さった方がいますから、それについて心配はしていません」
「そうどすか……」
「白水?」

 唐突に背後から声をかけられる。呼んだのは、シャツの袖に風紀の腕章をつけた吉良だった。
 吉良は俺の傍に寄って初めて三條部長がいることに気付いたらしい。吉良も訳知りなので、加害者側に分類される三條部長をうろんげに見遣っていた。

「ほな、あてはこれで」

 三條部長は吉良が"知っている"と知らないはずだが、態度に何かを感じ取ったのか一礼してすぐに去って行った。

「何話してた」
「関係ねぇだろ」
「ねぇが、な。接点を考えると、穿ちたくもなるだろ」
「余計なお世話だ。――何か用かよ」
「あ? 姿見かけたから声をかけた」

 用もねえのに声かけんなよ。

「白水、どうせだし一緒に回ろうぜ」
「巡回は」
「俺は目立つとこ担当だから、テキトーに教室回ってろとよ」

 風紀委員長なんて目立つ奴が、人目のあるところを担当、ねえ……。大方何か企んでんだろ。油断した馬鹿を挙げるとか。
 胡散臭いものを見るような視線を送ると、俺の考えてることを察したのか、吉良はまあな、と笑った。

「一人で回るのも味気ねえし、行こうぜ」
「……まあ、午前中は暇だから構わねえけど――」
「あ、芳春っ!」

 じゃあ行くか、と教室の方に戻ろうとしたところに、特別棟の方からやってきた真山に呼び止められた。今日はやけに出ばなをくじかれる。
 真山は走って渡ってきたのを俺の前で立ち止まり、俺の腕を掴んで見上げてくる。この、馬鹿力……!

「芳春っ、何であんな絵を描くんだよ!」
「――あぁ?」
「美術室で芳春の絵、見たんだ! 何だよ、あの絵! どうしてあんな風に押し付けがましいんだよ!」
「あ゛ァ?」

 今不機嫌な低い声で唸ったのは俺ではなく、吉良だ。人一人軽く殺しそうな目で睨まれているにも関わらず、真山は俺に手前の正義を押し付けることに夢中のようで気付いていない。

「本当は寂しいんなら、絵じゃなくて口で言わないと分かってもらえないぞ!」

 ああ、副部長にも言われた深層のことか。
 別に俺は寂しさを知ってもらいたいとか、そういうことは思っていない。見当違いな真山の言に、苛立つよりも先に――決して苛ついていないわけではないが――呆れてしまう。
 そして同時に、じわじわと不快感がせり上がってくる。踏み込まれたくない奴に、踏み込まれたくない領域を侵されようとしているような、そういう気持ちの悪さが。
 さも分かったような顔で、自分の思い込みだけで俺にものを言う真山こそを押し付けがましいと言わずして何と言う。

「あ、でも、もう大丈夫だぞ! 俺が一緒にいて、芳春の寂しさを消してやるよ! そしたらもっと楽しい絵が描けるようになるだろっ? 親友だもんな、俺達!」
「……テメエふざけたこと抜かしてンじゃねぇぞ、屑が」

 不快感に目を眇めたと同時、隣から、地を這うような声が聞こえてきた。
 真山はそこで初めて吉良の存在に気付いたらしい。殺気とも呼べるような威圧感を一身に浴びせられて、流石の真山も怯えた風に一歩後ずさった。

「な……なんだよ……っ! なんでそんな酷いこと言うんだ!」
「酷いこと言ってんのはどっちだ、あァ゛?」
「お、俺は酷いことなんて言ってない!」
「言ってンだろうが。親友だとか名乗りながら、白水を理解しようともせずにこいつを否定しやがって。殺されてぇのか、屑」

 今にも真山に殴り掛かりそうな吉良に、関係ない周囲までもが怯えて足早に立ち去るか、動けず立ちすくむかしている。
 ……風紀委員長自ら騒ぎに加わって、どうすんだよ。
 ひとつ溜息をついてから、意識的に声を低くして真山を呼ばわった。

「てめえはほんとうに、友人と言い張る人間を否定するのが大好きだな」
「は……っ?! 俺、芳春を否定してなんかない! 何でそんな風に言うんだよ!」
「付き合ってられねえ。白水、行くぞ」

 吉良は舌打ちをしてから俺を掴む真山の手を強引に解き払って、俺の右腕を引いて大股で歩きだした。
 待てよ、と追いすがる真山に対して、"まだ"拒絶の言葉は投げかけられない。今のはギリギリ、扉の外側だ。うぜえ失せろと言ってしまいたい程度に不愉快ではあるが。
 騒ぎを目撃していた俺の親衛隊員に目配せして、追って来ようとする真山の邪魔をさせる。まったく優秀で助かる。田名部先輩の躾に感謝、だな。
 俺を引き摺る吉良の進行方向は戻ろうとしていた本校舎側ではなく特別棟だ。
 そのうち、使われていない地学準備室の鍵を風紀委員長のカードで開けて中に俺を連れ込む。……おい何だ。

「てめえ何を――っ?!」

 準備室に半ば放り込んでくれやがったことに対して文句を言おうと振り向いた瞬間、しっかりと鍛えられた身体に抱きしめられた。

「ちょ……っん、んうっ……ふっ……」

 更に噛み付かれたと誤認する勢いで唇を奪われ、気遣いも容赦も一切なく口腔を犯される。
 この機嫌の悪さの理由を分からない、というほど俺は愚鈍じゃない。推測にはなるが、こいつがさっき真山に怒ったのも俺のためだし、消化しきれなかった怒りをぶつけるみたいにキスしている不機嫌さも、俺を否定されたからなんだろう。
 吉良は俺のことを好きだから――それこそ、好き過ぎて隠されていたことを暴くなんて誉められたことじゃない馬鹿をしてしまうほどに――、好きな奴を否定されて腹が立ったんだろう。
 ――だからって、俺に八つ当たるか!
 一分近く口内を蹂躙され続けて、いい加減息が切羽詰まってきた。厚い胸板を強く叩く。意図が分かったか、最後に吉良は俺の舌を軽く吸ってから乱暴をやめた。

「っ……は……、はァっ……。ってめ、ふざ……、けんな……っ」
「悪ぃ、やりすぎた」

 悪いって思うならもうちょっと悪びれろてめえ。
 吉良に全体重を預けるように凭れて息を整えながら(ついでに飲み込みきれず零れた唾液をシャツで拭ってやった)、肩口から翡翠を睨み上げる。

「でもな、好きな奴を否定されて、上機嫌じゃいられねえだろ」
「……だからっ……て、俺に当たるな」
「当たったんじゃねえよ。発散だ、発散」
「なにが違う」
「当たり散らして発散っていうんじゃなくて、好きな奴補給して癒されるっていう」
「ああ、そうかよ……」

 息切れも収まったので、抱きしめられたままではあるが自立する。やや吉良が不満そうだが知ったことか。
 しかしいっかな俺を離す気配のない吉良にどうしたものかと考えていたら、吉良の胸ポケットに収まっている携帯が鳴った。

「……出ねえの」
「多分夏煌胤だ。もう話が伝わったんだろうな。どうせ小言だから出ねえ」

 ……出てやれよ。
 携帯はしつこく着信を報せていたが、暫くして夏煌胤が諦めたらしい。後で余計に小言が増えるんじゃねえのか。俺の知ったことではないが。

「……深層の滲み出るお前の絵に、深みに入り込む前に救われる奴だっている」

 ふと零された吉良の低い声は、耳によく馴染んだ。

「俺もその一人だったから、余計にムカついたンだ」
「……想像つかねえ。お前が、絵に救われるとか」

 何だか少し面映く感じて生意気を言ったが、吉良は「だろうな」と軽く笑うだけだった。

「初等部の五年に上がる前な。両親が離婚したんだよ。……俺のせいで。当時はすげえ気に病んだし、心はどんどん荒んでいった。……ま、それを態度に出すようなことは、親に気を遣わせるだろうからしなかったがな」

 その頃初めて、俺の絵に出会ったのだと吉良は語った。

「小五のガキにしちゃあ大人びた、穏やかで優しい絵だった。でも周りがその通りの印象を受けている中で、俺はそうは思わなかった。何で気付かねえんだって、叫びたくなったな……。あんなに泣いてるじゃねえかって。一人きり中州に取り残されて、助けを諦めちまって、泣いてるだろって。助けたくて手を延ばしても、見えない壁に阻まれてしまってどうしようもできないような、歯痒い思いをさせられた」

 同じようなことを、千影に言われたことがある。意地も何もかもが取り払われた、俺の本当の背中を見ているようだと。

「そんな絵に出会っちまって、そうしたら、お前を助け出したいっていうのが強くなって。俺が原因で両親が離婚するしかなくなったとか、俺のせいで一瀬が嫌味を言われるとか、気付いたらそういう卑屈な部分にとらわれる前に抜け出せてたな」
「……鴻巣?」
「ん? ああ、知らねえのか。ま、クラスも離れてたしな。一瀬は俺の兄貴で、俺は四年までは鴻巣五瀬だったんだ。両親が離婚したのは、ジジイが急に後継者争いになるのを嫌がって、一瀬より優秀な俺を捨てろって喚き出したもんだからな。親父とお袋が話し合って、お袋が俺を連れて実家の吉良に戻ったってわけだ」
「それで……」
「まあな。あいつは卑屈になったりしなかったが、今でも事の発端になったジジイから電話がかかってくると、こないだみてぇになるんだよ」

 仕方ねえ奴、と呟く吉良の声音は、呆れなんてものを一切含んでいなかった。

「まあ、それはさておいてだな。お前の絵に滲む静かすぎる慟哭は、深みに入り込む前の奴に、深みに入り込んだ奴に、気付かせてくれる。俺達は一人で耐えているわけじゃないんだと。自分だけがこの世界で一人きり辛い目にあっているのじゃないと、そうやって視界を広げてくれるんだ」
「……大袈裟、だろ」
「まさか。お前が気付かせてくれたから、今の俺がここにいるんだぜ? あのときお前の絵に出会わなきゃ、俺は多分もう少し違う人間になってて、白水を愛しいと思うこともなかっただろう。……だから、感謝してる」

 抱きしめていた状態から合わされた翠はひどく穏やかで、居心地が悪くなるほどに優しくて。
 ――こんな目で見つめられたら、絆されてしまう。
 まだこいつに落ちたくない、と思うのは単純に意地だった。耐えきれずに眼を逸らすと、微かな笑いが空気を揺らした。
 それから今度はゆっくりと慈しむように重ねられた唇を、俺は拒まなかった。――拒む必要が、なかった。

(……深みに入り込む前に助けられてんのは、俺も同じだ)

 真山に齎された不快感はもう、心のどこにも存在していない。

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