廃園に月光



 文化祭初日は目立つ問題もなく終えられ、二日目の今日は一般人の多さに気を遣う。外来日に発生する問題はたいてい、参加客が起こすものだった。外部の女子高生や女子大学生やらがとくに、美形の生徒の連絡先を聞き出そうとしつこくせまったりでたむろして、他者の迷惑になるケースが多い。
 俺と嘉山は見回りに駆り出されて、そういう場面に出くわした時の対処なんかも任されている。――本来は警備担当の風紀の領分だが。
 今年も、学園は山奥にあるにもかかわらず、人の入りが盛んだ。見回りの合間にクラスで使ってる調理室を覗きにきたが、結構繁盛している。
 正統派のメイド服は既製品だったが、提供するクレープは一からの手作りだ。クレープ屋に本決まりになってすぐに、生徒の家のシェフを招いての調理教室が始まったので、手際にも味にも問題はない。厨房に入るのは、シェフから太鼓判を貰った奴のみだから。
 接客で表に出ている奴に問題がないかどうか聞き終わった時に、背中から声をかけられた。

「お兄さん」
「――春歌」

 振り向くと、女子中等部の制服を着た春歌が、微笑みながら立っていた。今日は暑いからか、黒髪でストレートの長髪を耳の下で二つに分けて縛っている。
 二日目が始まって暫くした後に、到着したので見て回るという内容のメールが届いていた。どうやら丁度、うちのクラスの模擬店での軽食を済ませて出て行くところだったらしい。

「あ、春歌じゃん」
「鶫お兄さんも、こんにちは」

 今年中等部に入ったばかりの妹はまだ小さくて、百八十以上ある嘉山を見上げるのは、少し首が辛そうだった。

(――……今年?)
「お兄さん?」
「いーちゃん?」

 親しく会話する二人を――嘉山にも春歌は妹同然だった――見ていたら、何かが脳裡の端に引っ掛かった。
 二人の呼びかけに、違和感の正体を知ることなく俺は我に返る。ぼうとしていたらしい俺に、春歌はわずかに首を傾けて、おおきな黒い目を瞬かせている。

「……何でもない」
「そうですか? せっかく会えたので、案内してもらえたらなと思ったのですけど……お疲れですか? あ、でもそうでなくとも、お忙しいですよね」
「疲れてはないし、時間ならあるから、案内する。――嘉山は」
「んー? 俺、次の見回りまでこっち手伝っとくからさ、兄妹水入らずで回って来なよ」

 珍しいことだな、と思いつつ、へらと笑う嘉山に頷く。俺は連休や長い休みにしか帰省できないから、都市部にある初等部に通っていた春歌とは滅多に会えなかったし、春歌が中等部に入ってからはなおのことだ。
 別段嘉山がいたところで、俺達兄妹が暮らしているのは嘉山家だ。帰省時と何ら変わりないから構わないのだが、有り難い申し出であることは違いないので、春歌を連れて調理室を出る。
 とはいえ、春歌は既に教室棟の模擬店は粗方ひやかしてしまったそうなので、このまま特別棟を回ることにした。

「……春歌」
「はい?」
「俺達は何で、嘉山の家に暮らしているんだった?」

 なんで春歌が生きているのに、嘉山の家に世話になっているのだろう。
 ――"生きている"? どうしてそんな言い回しを、俺はした?
 どうして。――なにか、おかしい。

「……お兄さん、やっぱりお疲れなんですよ」

 春歌は苦笑して、俺をあおぐ。

「お父さんとお母さんは、――――てしまったから」
「悪い、なんて」

 おそらくは肝心な部分だけ、音が消えた。一瞬だけ耳鳴りがひどくなって、掻き消されてしまった。
 聞き返す俺に、春歌は数度まばたきをして、それまでの悲し気な表情を普段の穏和な笑顔に塗り替えた。まるで質問自体、なかったことのように。

「お兄さんの絵って、美術室に展示されているのですよね?」
「……あ、ああ」
「見に行きたいです。美術室ってどっちです?」
「……このまま、真直ぐに行けばいい」
「はい。じゃあ、はやくいきましょう、お兄さん」

 春歌は俺の手を取って、美術室に向かってひいていく。
 空調がききすぎているのか、春歌の手は、冷たい。
 いつのまにか人通りは減っていて、美術室の前にきたときには、俺達二人より他に、誰もいなくなっていた。扉を開けた先の美術室も同じことで、並べられた絵画や工作物がもの静かにあるだけだった。
 ――いよいよ、おかしい。生徒作品を見に来る美術界関係者や美術部OBは多い。でなくとも来訪者の質問などに答えるために必ず部員が控えているはずなのに、それさえ姿がないだなんて。
 繋がれた手に、じんわりと汗が滲む。春歌の手は、まだ冷たい。俺の体温の方が奪われていくようで、わずかに身震いをした。

(――寒い)
「お兄さん」

 美術室の奥、三脚イーゼルに載せた俺の絵の前にきて、春歌は立ち止まる。
 緑と花のあふれる穏やかな春の庭園。噴水の前には、幼い少女が花かごを持って佇み笑っている水彩画。

「これ、わたしですね」

 そうだ。いつか幻視(み)た、日の光の下ではしゃぐ幼い春歌のすがたを形にしておきたくて描いた――いや違う。描いてない。
 俺はまだ、あの日の春歌を形にしていない。頭の中で全体図を思い描いていただけで――いま描いてはいけない、いまはまだ描くべきじゃないから――、それをあらわしてなんていないのに。
 なんで思い描いていた完成図が、筆をとってもいないのにここに在る!?

「――どうして、春歌は……ここに、」

 気付いてしまった瞬間、さっきの比じゃない寒気に襲われた。春歌の手と俺の手、一体どちらが冷たいのだろう。
 春歌は絵のほうを向いたままで、目を閉じて一度俯いた。目を開いてから顔を上げ、そうして俺を見上げる。

「お兄さん。わたしは、大丈夫なんです」

 音が遠い。水の中で声を聞いているような――隔たりとでもいうのだろうか。
 けれど春歌の言葉は、何を言っているかは、しっかりと理解出来る。
 繋がれた手は、温かくはなかったが、もう冷たくなかった。寒くも、なかった。

「わたしだけじゃなくて、お父さんとお母さんも、もう大丈夫です。もう、痛くも苦しくも、ないんです」
「春歌」
「でもね、わたしたちはみんな、すこしだけ悲しいんです。わたしたちは全然つらくないのに、お兄さんだけがまだ"あの日"にとらわれたままでいるから」

 黒くて深い春歌の眼が、俺を見据える。
 ――ああ、そうだ、俺はあの赤い夕暮れに、いまもまだ、縛られている。
 生き残ったことを悔いたことがあるだなんて、絶対に嘉山には、バレてはいけない。

「お兄さんは、もうあの日を、記憶のずいぶん深いところに蓋をして仕舞い込んでしまっても、いいんです」

 穏やかに春歌は言うけれど、それはきっとできない。
 あの日を忘れてしまうのは、これまでの俺を――周囲の視線に負けたくなくて走ってきたことを否定してしまうような気がするから。
 何よりも、両親の最期を知っているのは俺だけなのだから、俺はそれまで二人が確かにこの世界で生きていたということを、覚えていなくてはならない。春歌はたしかに生まれて来ようとしていたのだと、覚えていなくてはならない。
 春歌は俺の思考を見透かしたようで、困ったように笑った。

「お兄さんは、わたしが生まれることができなかったのを、とても悲しんでくれましたよね。鶫お兄さんも」

 そう、嬉しそうに言う春歌のいる"ここ"は、どこなのだろうか。

「そうしてお兄さんが、お兄さんたちが色んな心、色んな景色を届けてくれたから、わたし、たくさん物知りさんなんですよ!」
「届けた……?」
「お兄さんがわたしを、わたしたちを思って形にしたもの、思いのすべて。わたしたちに届いているんです。とりわけ、春のことはよく知ってます。わたしが生まれるはずだった春を、お兄さんたちがたくさん形にしてくれるから」

 ――正直、あの馬鹿が春歌を思ってなにかを作るというのは、意外だった。けれど思い返せば、その片鱗は音色や歌詞にあらわれていたのかもしれない。たまには、真面目な曲もあったので。
 春歌は、繋いでいた手を離して、両手で握りなおした。俺の体温が移ったのだろうか、小さくて白い手は、ほんのりとぬくもりをおびている。

「もう大丈夫って、伝えたくて来たんです。お兄さんはもう、怖い夢を見る必要なんてないんです。それでも怖い夢を見たら、泣いてしまってもいいんですよ。――泣いていいんです、お兄さんだって。鶫お兄さんに見せるのがいやなら、お兄さんを休ませてくれる人のところで、ね」

 諭すような声音に思い出したのは、あの真直ぐに俺を見つめてくる静かな翡翠だった。
 心当たりのいるらしい俺に、春歌はとびきりやさしく微笑んだ。

「来たばかりだけど、そろそろ、帰りますね。――わたしを忘れないでいてくれて、ありがとう、お兄さん」

 まぶしいくらい幸せそうに笑う春歌の柔和な顔を最後に、視界は暗転した。


 ――目を開けると、薄暗い私室だった。額には大人の手がやんわりと載せられてあって、それは瞬きをすると離れていった。

「起こしたか」

 静かな声が降ってくる。思考の霞む頭でゆっくりとそちらを見ると、肩にかかる藍をおびた黒髪の、痩身の男がいた。

「……闥、校医?」

 人影は頷く。
 ――闥葵。理事長代理の秘書かつボディーガードであり、高等部の非常勤養護教諭でもある男性だった。

「なぜ、ここに……」
「志桜様の用で生徒寮に来ていたのだが、売店で嘉山君と会って、君が熱を出しているというから。ひどく狼狽えていたので、志桜様にお許しをいただいて君の看病をしにきた」
「……そう、ですか。わざわざ、ありがとうございます」

 吉良があのことを知っていると教えられたその日に俺が熱を出せば、そりゃあ嘉山も狼狽えるだろう。あのことに敏感なのは嘉山も同じことだ。俺が、そうしてしまったのだが。

「志桜様も、君を案じておられた。……明日は休みなさい。学校には私から伝えておくから」
「……はい」

 明日は特に話し合いもない。模擬店についての会議があるはずだが、それは実行委員の領分だ。
 熱を出したのは多分――というか絶対、長時間雨に打たれていたせいだから、闥校医の言葉に甘えてゆっくり静養していよう。さすがに嘉山も、いまは手を出して来ないだろうし――かわりに奴の親衛隊がひどいめにあうかもしれないが、マゾヒストの集まりなので心配するだけ損だろう――。

「……心配していたよりも、思い詰めていないようだな」
「はい……」

 あのことに触れたから、きっとひどい夢を見るだろうと思っていた。
 けれど赤い夢は見なくて、代りにあらわれたのは生まれて来るはずだった妹で。
 あれは俺の願望が生み出しただけの、何の意味もない夢かもしれないけれど。
 春歌の言葉のすべては真実なのだと、信じたい。思えばあの子に届くのだと。

「……薬は……」

 確か飲んでいないはずだ。闥校医にも嘉山が伝えたろうと思って訊ねると、闥校医は何故か眼を逸らした。
 ……おい、嫌な予感がものすごくするんだが。

「…………嘉山君が、自分がと聞かなくて、その……」

 座薬を、と顔まで逸らした闥校医が呻くように呟いた。

「――あの、腐れ蜜柑……っ!」

 どういうつもりで選んだのか、闥校医にもわかったんだろう。だから俺を見ようとしないのだ。
 闥校医が帰った後に入って来た嘉山に、飲み薬をよこせと訴えたが当然聞き入られなかった。あれは病人相手に、やることじゃ、ない。
 全快したらマジで気が済むまでぶん殴ってやろうと、俺は最中固く決意していた――。
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