※※※ 驚いたふうに膝に埋めていた顔を上げた優太は、どういうわけか信じられないものを見でもしたかのように、吊りがちな大きめの目を見開かせている。
「どうしてそんなに泣いていなさるんだい」
「泣いてっ、ないっ」
「嘘をお吐きじゃないよ。……ああほら、そんなに擦るものじゃあない」
ぐしぐしと手と袖で涙を拭う優太の前に膝をついて、腕を退かしてハンカチで目許を覆ってやる。
涙をハンカチに染み込ませていると、そのうち優太はおずおず自分で押し当てた。
「何でこんな所で泣いていなさるのか、話しておくれでないか」
「……芳春のとこ、行ったら、美術部に、めいわく……」
「いや、そんなのはわかっているんだよ。だろうと思ったから、白水の絵が展示してあるここに来たんだからねえ。俺が聞きたいのはね、ここにいる理由でなくて、泣いている理由なんだよ」
と訊くと、優太はふるふると首を横に振った。
「言いたくない?」
「ない……」
「そうかい」
膝をついた状態から、冷たい床に腰を下ろした。すんすん泣く優太を眺めつつ、ふわふわした柔らかい毛を撫でる。
いきなり撫でられた優太は、目を丸くしていたが、特に嫌がりもしなかった。
「触り心地良いねぇ、お前さんの髪。――染めて?」
「ない、よ……ずっと、こう」
「へえ、地毛でこんな明るいのかい。子供のうちならわかるが、成長しても明るいまんまってのは、珍しいね」
「……だから、変って、言われる……」
「ん?」
「俺のせいじゃ、ないのに、違うものみたいに、言われる……」
「誰に?」
「……かぞく、たぶん」
優太の頭を撫で続けていた手が、ぴくりと、一瞬止まった。
「……家族に、疎まれておいでかい」
「……デリカシー、ない……」
「すまんね」
涙目で睨んでくる優太に、肩を竦めてから、立ち上がる。それから、優太の隣に座り直して、優太の頭を寄せて抱え込んだ。
「な、に……する……」
「本当に、俺はいきなり何をしているんだろうかねえ」
離してほしそうに身じろぐ優太を、しっかと抱える。
どうして優太が、白水に拘るのか、それが少しわかった気がする。優太にとって白水は、白水の絵は、寂しさを和らげてくれる根源なのだろう。俺が、白水の絵に、白水が受けたぬくもりを感じて惹かれるのと、同じように。
「お互い、渇いているねえ」
「いっ……しょに、すんな」
「同じだろう。こうして触れて、よく分かったよ、俺は。俺達は同じものが欲しいんだけれど、それは手に入れるのが難しいんだ」
同じものを――家族愛を求めて、それでも手に入れられなかった俺達は、だから今こうして、友人でいる。きっと最初から、引き合っていた。
「同じ、じゃ、ないっ」
「そうかね?」
「全部、諦めっ放しの伊能なんかと、同じに、すんなっ。俺は、ちょっとずつ、頑張ってんだっ」
「――……どうして、優太は諦めずにいられるんだね。どうしたって家族に疎まれるとは、思いなさらんか」
「……あのひとたちは、もう、かわらないから、見切りをつけた」
「欲しくないのかい、親からの愛情ってやつは」
「欲し、かった……すっごく、欲しかった、よ……。そんなの、あたりまえ……。だけど、もう、いい。芳春が、ほめてくれるし、背中、おしてくれる、から」
だからもう、血の繋がった家族に愛されたいとは思わない。
しっかりとした声で言い切った優太に、俺はなにか、言い知れない、言葉にできない思いを感じた。憤ろしいような、腹立たしいような、――羨ましいような。すべてが無造作に混ざり合った、言うなればそんな感情だった。
一度ひときわ強く抱きしめてから、優太を離して、まだ潤んでいる眸を正面から注視した。
「どうして……そんな簡単に、切り捨てることが出来なさる」
「……簡単じゃ、なかった。たくさん寂しくて、苦しかったし、あいしてほしかったけど。――芳春が、ここにいていいって、すきなだけいていいって、言ってくれたから、生きてる理由を、くれたから……だから、俺は、頑張れる。いつか、芳春がいなくても、歩いてけるくらい、おっきくなる、よ」
目を逸らすことなく言いなすった優太に、俺の方が居心地が悪くて視線を外した。
優太は、顔を正面に向けた俺に、瞬きしつつ首を傾け、やがてぽつりと呟いた。
「さみしさ、なんか……やさしさで、覆っちゃえば、へいき」
では、優太の淋しさを覆っているのは、「ここにいていい」と言う白水の言葉なのだろう。
「……俺の淋しさを覆ってくれるのは、果たして存在するのかね……」
深い亀裂を満たすほどの何かは、どこにあるのだろうか。
「みんなに……ある、たぶん」
「……皆に?」
「俺にも、あったくらい、だから……。伊能にも、きっと、ある……と、いいな……」
「……なかったら? 探しても、見つからなかったら」
あるといいな……という祈りに齎された歓喜を、俺は隠すように重ねて問うた。
存在しなかったら、なんて、――実はあまり、思っていない。だって既に優太が、俺の寂しさを覆う優しさの存在を、祈ってくれたのだ。
――それは既に、渇きを癒そうとする優しさなんだから。
優太は少し思惟を巡らせ、何故かちょっとだけ唇を尖らせた。
「……なかったら……すこし、あげても、いいよ……」
「……優太」
「でも、諦めっぱなしの、ばかには、あげないよ……」
だんだんと口籠って膝に顔を埋めてしまいなすった優太の、けれど耳が赤いのを俺は僅かに見て取った。
(聞いて良かった)
どうしたって、顔が緩む。
祈ってくれただけでも嬉しいのに、見つからない時には、俺がすぐに諦める馬鹿でなければ、優しさをくれるというんだから。
この心地良い歓喜の様を、どう表現できようか。嬉しいと、そんな言葉しか出て来ないんだから、表しようがない。
誰の片鱗でも、こんなふうに乾いた土が水を吸うように沁み入る温かさは、得られなかった。こんなふうに、心に根付こうとはしなかった。誰の片鱗もやさしかったけれど――。
(俺がほんとうに渇望していたものを、俺自身ではなくアサトのほうが理解していなすった……)
一時のぬくもりではなくて、俺は、こうして沁み渡り根付く小さな優しさを、求めていたらしい。泣きたくなるほどの穏やかな喜びを。
溢れてくる空知らぬ雨を抑えることもせず、まだ恥ずかしがっている優太の肩を抱いて、頭を合わせる。
「優太みたいに……少しずつ、頑張るよ」
「……ん」
「小さなことから――いまは生徒会の仕事からかね。頑張るから、諦めないようにするから……優太の優しさを、俺におくれ」
「……しょーがない、から、ちょっと、あげてもいいよ……」
「有り難うよ、優太」
お互い渇いていたねえ、と言えば、少しの間の後、小さい聲で同意が返って来た。
Side end.