代理が立ち去ってからも、暫く俺はその場に留まった。スケッチブックや鉛筆を鞄に仕舞って、膝を抱えて座り込む。
 代理に気をつけろと言われたにも関わらず、脳裡にはあの日の光景や、それに関わる諸々の出来事が浮かんでは消え、また浮かぶ。
 冷たいものが落ちてきて、ぽつりぽつりといくつも音がしたので、どうやら雨が降ってきたらしい。
 雨足が強まって本降りになっても、どういうわけか、動く気にはなれなかった。鞄が塗れないように抱え込む程度のことは出来たけれど。
 苛ついているのか、虚脱しているのか、自分の心情にもかかわらず、よくわからなかった。
 なげやりには、なっていない。だけれども、動こうと思えない。このままじゃ確実に風邪を引くな、とはわかっている。

「……鶫」

 雨音しか聞こえない世界で、半身にも似た再従兄弟を求めて一度だけ呟いた。
 一度だけなのは、すぐに思い直したからだった。これ以上あいつに縋っていいのかと。

(俺があんなに歪めたのに)

 そうでなくとも、俺は一人で立っていられなければならないのではないか。でなければ、報いると言うことにならないのじゃないか。
 思考の渦に嵌って、どれくらいそこにいるのかわからなくなった頃合、雨声に跫音が混じった。

「――白水ッ?!」

 驚きと焦りの綯い交ぜになった低い声が俺を呼ばわった。
 聞いたことのある声だったので、顔を上げると、赤が一房視界に飛び込んできた。

「……ッ」

 息を詰めて、顔をしかめる。
 今の俺に赤色を見せんじゃねえよ、と意味もなく悪態を、駆け寄ってくる吉良につきたくなった。

「お前、馬鹿、何やってんだ……!」

 濡れるのも厭わず片膝をついて、俺を傘に入れる吉良の、赤いエクステを見たくなくて、また顔を腕に埋めた。

「何もしてねぇよ、見て分かんねえなら馬鹿はてめえだ」
「そう言うことは言ってねえ! ……どんだけ馬鹿やってやがった、濡れ鼠じゃねえか」
「うるせえ、失せろ」

 吐き捨てたが、逆に吉良は俺の右の二の腕を掴んできた。
 あまりに無遠慮で乱暴だったが、そこからじんわりとあたたかさを感じたので、それで俺は随分冷えているらしいことを自覚した。

「風紀委員として、それ以上に俺個人として、それは聞きかねる」
「……うぜぇ」
「好きに言ってろ。――立て。寮に行くぞ」

 相変わらず動く気にはなれなかったが、吉良が無理やり立たせて引っ張るものだから、どうやらこいつより力の弱いらしい俺は、なすがまま寮に連れて行かれた。そもそも抵抗するのも馬鹿らしくて面倒だった。
 ではやはり虚脱しているな、と他人ごとのように、人の姿のないロビーで思った。



 俺の部屋に送り届けるのかと思っていたら、吉良は何故か自分の部屋――つまり寮の最上階にある風紀委員長の居室に俺を引き込んだ。そのまま風呂場に押し込められて風呂に入れと強制された。あらがうのもやはり面倒だったから、大人しくシャワーを浴びる。途中で湯が沸いたのは、吉良がしてくれたのだろうので、浸からず出たら出たで煩く言われるに違いない。
 脱衣所に着替えを持ってきたらしい吉良当人にもドア越しに釘をさされたので大人しく言うとおりにしておいた。
 湯に浸かって体が温まったら、それだけで随分と気分は持ち直したし、グダグダ考えるのもひとまず止んだ。
 それで風呂から上がると、リビングでは吉良がソファで半裸になっていた。

「……何してんだ」
「見て解んねえか。手当だろ」
「そりゃ、分かるが。何でそんなあちこち打撲痕だらけになってンの、お前」
「あー……まあ、ちょっとシメられてな」
「天下の風紀委員長サマをシメられる奴がいるのかよ」
「そりゃ生徒で俺に敵う奴がいねえってだけだ。……あの人、マジで人間じゃねえわ」

 誰だ、吉良にこうまで言わしめるような人間。
 疑問が顔に出ていたのか、吉良はきまり悪そうに頭を掻いて、苦い声を出した。

「代理だ」
「……は?」
「だから、代理」
「……何でお前が代理にシメられんだ」
「オシオキされたんだよ。俺が、あの人のお気に入りのことに首突っ込んだから」
「……闥校医?」
「違う、俺はあの人に興味ねえ。生徒だ」

 まァ、闥校医のことに首突っ込んだって言うなら、こんな軽傷で済んでるはずもなさそうだ。
 生徒で代理のお気に入りっていうと、分家か俺か嘉山か。何にしても、吉良が首を突っ込むような理由は思い当たらない。
 内心首を傾げつ、コーヒーテーブルの上においてあった俺の鞄から携帯を取り出して開いて、閉じた。
 ……嘉山、メール送って来過ぎ。そして今六時半とか、俺雨ン中いすぎ。そりゃ冷えもするわ。
 手当の終わったらしい吉良がシャツを着てキッチンに向かったので、俺はソファの端に座ってもう一度携帯を開いた。
 最新の受信メールから嘉山に返信しておこうと開けたメールの内容に、身体が強張った。

『吉良が、知ってるって、代理が言ってた』

 その後に所在を訊ねてたりする文が続いていたが、俺の意識はその一文だけに持って行かれる。
 ――何を……などと、考えなくてもわかる。嘉山がこんな風に言うのは、あのことしか、ない。
 首を突っ込んだって、そう言うことか、あのクソ野郎……。

「白水、何か飲むか」
「……いらねえ、帰る」
「は?」
「帰るんだよ、制服どこだ」
「クリーニング出したばっかだ。落ち着け、どうした」

 俺を止めようと手を伸ばしてきた吉良の手を、思い切り払ってやる。
 驚いたような面が、いやに腹立たしい。

「俺に触るなッ、人が隠してるモン勝手に暴きやがって……!」
「――……ッ、悪ィ」
「謝って済むことか!」

 心底悔いているような苦い表情にさえ苛立って、反射的に吉良の顔を殴ろうとした拳は、いとも容易く受け止められた。
 ……この野郎。

「……殴られとくとこだろうが」
「……あ、あぁ、悪ィ……つい」

 あ、って顔したからマジでうっかり受け止めたんだろう。どんだけ喧嘩が身に染み着いてるんだ、この戦闘民族め。
 ……あーもう、苛つくのが馬鹿らしくなってきた……。もっと激昂するべきなんだろうが、何というか、本当、阿保らしい……。

「……離せ」
「断る。……本当に、勝手をして悪かった。お前の口から聞くべきことだった。だが、どうしても知りたかった……白水の虚を……白水のことを……。……お前のことが、俺は好きなんだ。分別も平静も失うほどに」
「――だから、許せと?」
「まさか……。お前は俺を恨んでいいし、拒絶したっていいんだ。されたくねぇが、俺のやらかした事を考えりゃ、嫌われて当然だからな……」

 手首を掴む吉良の手に、力がこもる。
 どうやらこの馬鹿は、本当に俺の拒絶を覚悟しているらしい。静かな翡翠が、硬い声が、込められる力が、それを言外に物語っている。
 ……ああクソ、これじゃ守川をお人好しと笑えねえ。

「分かったような口利きやがって」
「……そうだな」
「……次会うまでに、その赤い目障りなモン引っこ抜いとけ。じゃなきゃ、視界にも入れてやらねえ」
「……白水?」
「それでチャラにしてやるって言ってんだよ! ――帰る、離せ。制服は後で届けろ」
「……いいのか」
「代理にも散々なぶられたんだろ。……どうにも本家の方々は、揃って俺が怒るタイミングを奪っていく」

 嘉山と言い、何で俺が怒るより先に、周りが怒るんだか。おかげで俺は苛立ちを昇華出来ずにくすぶる一方だ。今まではひたすら描くことで、上手く発散出来てたが。
 吉良は暫く得心いかなそうに俺を見下ろしていたが、やがては結局手首を離した。
 ……その前に、軽くキスを仕掛けて。

「……てめえ」
「良いだろ。減るもんじゃなし」
「減りゃしねえが」

 好きだと言ってくる奴にされたのは、そう言えば初めてだな……。と思考の端に過ぎった途端、何とも言い難い羞恥のようなものに襲われ、咄嗟に吉良から目を逸らした。

「どうした?」
「何でもねえ。帰る」

 顔を背け足早に玄関へ向かったが、くつと笑った吉良には、もしかしたら見透かされていたかもしれない。
 リビングのドアに手をかけたのと同時に、背中に吉良の声がかけられた。

「……なァ。俺をお前の止まり木にしないか」

 息をつくところが必要だろう、と深みある声は言っていた。
 時折弱音を吐けるところが必要で、それは嘉山であってはならないと、吉良は分かっているのだろう。

「……考えとく」

 振り向かず答えて、玄関へ向かった。
 ――いずれ今夜、赤い夢を見ることはなさそうだ。

「ッてちょっと待て白水! その格好で表出るな!」
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