校舎の裏手にある森の、一等年嵩の大樹。その根元が、俺が無心になる場所だ。
 だからこそ、この場所で描いたものは余計が取り払われ、俺の心を映す。副部長の言う深層を、不安定に揺れる感情を。
 過去を暴かれることへの恐怖と、恐怖への苛立ちも。
 鞄から取り出した、部活用ではないスケッチブックを開き、真っ白なページに鉛筆を走らす。ただ目の前にある景色を、何の意図もなく描いていく。
 多分この行為が、俺にとっての発散なのだ。

「――ここにいたか」
「……な、」

 不意に草を踏む音が耳に届いて顔を向けると、信じられない人物が視界に飛び込んできた。
 均整のとれたすらとした肢体、凛然とした立ち姿、至高の芸術品さえ霞む凛々しい面立ち、何よりその、ブルーサファイアの右目――。

「代、理……」
「久しぶりだな、白水」

 ――何故。何故この人がここにいる。
 銀蘭学園理事長代理、春宮司本家次期当主の春宮司志桜が。
 いや、理事長代理なのだから学園内にいることに不思議はない。けれど彼は多忙の身で、滅多に顔を出せないはずだ。

「……何か、大事でもありましたか」
 その代理がわざわざ学園に赴くのだから、それだけの理由があるはずだ。……と踏んで殆ど断定で尋ねれば、隣に腰を下ろした代理は満足げに笑んだあと、すぐ真面目な顔をした。

「大事も大事だ。……落ち着いて聞けよ、白水」
「……?」
「――あの女が、仮釈放になった」
「ッな……」
「模範囚だとかでな……。流石に審理への介入はし難かった、こちらは私怨ゆえな……。審理があるのを俺達が知ったのも、始まる直前だったしでな……。審理開始の通達がいかなかったのは、運が悪いことに郵便事故だ。白水家から連絡がなかったのは、お前の心情を思ってのことゆえ、そちらは責めてやるな。俺もお前に知らせるべきかどうか、随分悩んだ」
「……はい」

 心神耗弱で減刑された上、仮釈放か。
 ……何が模範囚だ。こっちは両親と妹殺されてんだぞ。
 ――ふざけるなよ。
 唇を噛む俺を、代理は気遣わしげに見た。

「白水家、氷上家どちらも、自分たちに近付けさせないならば――と、仮釈放を認めたらしい。白水家のほうは、無論お前の方にも近づかないよう条件を加えている。氷上のババァはどうやら、愛娘を殺した奴より奪った男のほうが憎いらしいな」
「……アレにまともさを期待するだけ無駄でしょう」
「確かに。……仮釈放の条件、社会感情の項を満たしてねえ気はするんだがな」
「……」

 社会感情が仮釈放を許すかどうか、という項目。……確かにあの女が満たせるわけもない。人の親をあんなふうに惨殺した危険人物なのだから。
 だのに認められたってことは、審理に関わった奴ら――世間の一部――は、仮釈放を許すッつうことなのだろう。初犯で模範囚ってのも、認められた大きな要因か。本当に、ふざけてやがる。
 ――三條部長は、これをどう思うだろうか……と、ふと過ぎった。

「……わざわざそれを伝えるためだけにいらしたのですか?」
「ん……まぁ大体な。電話でも済ませられたが、お前の顔を見て話した方がいいと思って。少し、心配でな」
「……そうでしたか。お心遣い傷み入ります。ご多忙のところ、お手間を頂戴しまして申し訳ありません」
「気にすんな。どうで顔は出さなきゃならなかったんだ。……と、一応ついでに伝えとくか」

 少し考える素振りを見せて、代理は特にこだわりなく告げた。

「冬香院の仲細君が、実家に絶縁状を叩き付けた」
「――……」

 冬香院の仲細君。つまり、冬香院家次男の嫁――真山の叔母が、真山家を断ち切った……ということだ。

「前々から仲細君は、実家の屑っぷりで俺らに災禍が及ぶ事を懸念していたんでな。俺が唆したら即断してくれたぜ。これで冬香院と真山には何の繋がりもなくなったゆえな……縋ってこられる不安もなくなった。まずは……掃き溜めの鶴を保護でもするか」
「引き抜き……ですか」
「有能な人材は俺のものだからな。マジ、掃き溜めに鶴って奴が何人かいるんだよ。あいつら超欲しい」

 ……最上級の美顔が、超あくどい。

「と言うか、代理は真山に何をされたンです? 以前あれの家を獲物と仰有っておられましたが」
「真山にッつうかな」

 曰く、真山家の会社の部下が、代理の会社の情報を盗もうとスパイやらハッキングやらを仕掛けてきたらしい。それで、監督不行き届きの責任を負ってもらうことにしたのだとか。

「部下の独断で自分たちの指示じゃねえから、裁くなら部下だろッてうるせえの何の。部下の粗相は上司の責任でもあるってのに、真山家はどいつもこいつも責任を人に押しつけやがる。あんまりうぜえから、ちょっと色々弄くって南米送りにしてやった。親がアレなら、子供がああなるも無理はないな」
「……そうでしょうか」

 真山がああなのは、確かに周囲にも原因があるかもしれない。どろどろに甘やかして、何もかもを肯定してきたのなら、自分の主観が正道であると真山が思い込むようになった原因の一端だ。
 だがいくらでも、それをおかしいと思う機会はあったはずだ。周りを見ることは出来たはずだ。それをしなかったから、自分の世界だけを盲目的に見続けて、自分を否定する者を認めなかったから、真山はああいう暗愚になっている。
 結局のところ自分で考えることを放棄したのは紛れもなく真山自身で、責があるのは真山本人だ。
 言い切ると、代理は軽く吹き出した。

「は、お前、葵とそっくり同じ事言いやがる」
「闥校医と?」
「葵もお前と同じ事言った。似てんのな、おまえら、思考回路」
「そうですかね……」

 志桜様第一の忠犬とじゃ、そこに至るまでの回路が随分違うような気もするが。
 声にはせず思っていると、代理がおもむろに立ち上がった。去るのだと気取って、俺もスケッチブックを置いて立つ。

「ま、そう言うことを伝えに来たんで、俺はもう行くわ。……気をつけろよ」
「何にですか」
「色々だ。……そうだな、色々。お前自身の心うちにも」
「……はい」
「いい子だ」

 少しだけ雑に頭をなぜられて面食らう。どう反応したものか困ってただ眸を瞬かせていると、手を離した代理はおかしそうに唇を歪めた。

「あの女に関しては、案ずるな。俺達が、お前に近寄らせん」
「……そこまで……本家のお手を煩わせることは」
「あるんだ。これは当主の意向だし、俺としても、気に入ってる手駒にこのようなところでヘバられるのは気に食わん」
「何故……そうまで気にかけて下さる。俺達は春宮司の関係者ではないのに」

 単純に疑問で問えば、代理は何故か不思議そうに首を傾けた。まるでこんなことを訊いた俺の方がおかしいように。

「何故って。確かに法の上では親族じゃないが、そんなものは些細だろ。俺はおまえらを気に入っていて、父さまと伯父さまは、お前らの親を気に入っている。それが総てだ」
「……今一、納得出来かねます」
「そうか? 単純なことだろ。気に入った奴が死にゃあ悲しいし、傷付けられりゃ憤ろしい。……それが自分のいざこざに巻き込まれたって場合は、猶のことな……」

 代理は、なにかを悔やむように眉を寄せて、顔を逸らした。両親の事件を指しているのではないことは確かだが、この人はなにを悔やんでいるのだろう。
 代理のような人でも、後悔するようなことがあるのだな……と、ほんの少しだけ、果てもなく遠い彼を、近く感じた。
[*前] | [次#]
[]
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -