Side:嘉山鶫

 ――がつ、と鈍い音が、暗い私室に響いた。

「ッ――」
「芳春!」

 俺が、うなされる芳春の胸倉を掴み上体を起こし、白い頬を思い切り殴った音だ。後で倍返しされるかもだけど、こうでもしなきゃ、絶対起きてくれなかったから。

「っ、な、」

 何が起きたのか把握していない芳春は目を白黒させているが、けれどその混乱は俺が殴り起こしたことじゃない。――夢のせいだ。
 あの日の――芳春の両親が殺された日の夢は、芳春に時間と現実を錯覚させる。
 恐らく今は夢のなかの惨劇と、現実の視界とのギャップに戸惑っているはずだ。

「芳春。ココは学校の寮の部屋。俺の私室。俺らは十七。こっちが現実。OK?」

 芳春に跨がったまま両肩を強く掴んだ。ゆるゆると、芳春は俺を見る。
(ッ何て、目)
 底無しの闇、みたいなうつろな目。芳春に最も似合わない目。

「つぐ、み」

 掠れた声で、芳春はぽつりと呟いた。――俺を認識したことで一気に現実に引き戻されたのか、安堵のような色を眸に映す。俺もほうと息を吐いて、芳春を放した。
 それでもまだ恐怖が抜け切らないようで、芳春は力なく俺の肩口に顔を埋めて俺に縋り付く。……少しだけ、芳春のからだは震えている。
 俺は、現場の凄惨さをよく知らない。骸のなかに芳春がいないと気付いて芳春の家に飛び込んだ時には、あらかた片付けられていた(というか、散らばっていたのは遺体の内臓やらだったので遺体と運ばれていった)から、ひどく血塗れだったことくらいしかわからない。
 はっきりしているのは、それ以来芳春が滅多に笑わなくなったことと、赤色を忌避するようになったこと。フィクションの血はどうともないけど、リアルな血は駄目なこと。リアルな血を見るとあの日がフラッシュバックするのか、内心でひどく取り乱してしまう。平常を取り繕っても俺にはわかる。
 女もやや苦手。俺の母さんは平気だけど、芳春は女に優しくできない。
 それもしかたないだろう。あの女――三條の叔母があんな兇行に及んだ事の始まりは、芳春の父親――晴一(はるいち)さんがあの女に親切にしたことだったから。
 晴一さんにそれで惚れてしまったらしいあの女は次第にストーカーじみて、やがては玲夏さんが、自分から晴一さんを奪ったのだと思い込み憎むようになったらしい。
 玲夏さんが二人目を身籠もったと知ったあの女は、二人の結婚記念日に芳春の家に乗り込んで二人を殺した。春歌も殺した。俺達が五つの時だった。
 人は些細な事で人に惚れ、簡単に気を違え、人はいとも容易く人を殺す。
 あまりにも脆弱な人間という生き物が、俺は好きではない。人間がもっと強ければ、芳春が赤い記憶に怯えることもなかったのに。
 尤も――俺だってその大嫌いな人間なのだけれど。
 だから俺は俺も好きではない。でも芳春だけは違う。
 トラウマこそ負ったけど、芳春は負けていない。母方の祖母からの存在否定にも、周囲の好奇にも。どんな視線に晒されようとも、芳春は決して俯く事をしなかった。
 どこまでも気高くて高潔できれいな、俺の希望。俺のせかい。芳春さえ高潔でいてくれたら、俺は真実生きていられる。

「……痛ェ」
「え?」

 唐突に、肩口で芳春が呻いた。

「……頬が」
「あ、あー……。ごめんね、殴っちゃった」
「あぁ?」

 顔を上げて俺を目茶苦茶睨む芳春の顔は、汗をかいているものの普段通り高潔だ。少なくとも表面上は。

「だって、起きてくれないんだもん」

 いくら揺すっても呼んでも目を覚まさない芳春に、血の気が引いた。今までになかったことだから。
 少し強く揺すって声を掛ければ、すぐに起きてくれたのに、今回は起きなかったから。
 三條の馬鹿が芳春に接触したりするからだ。それ以外に思い当たらない。

「もう、マジでいーちゃん煤になっちゃうかと心配したんだからね」
「はぁ? ……何時?」

 眉を顰めたいーちゃんの問いに、携帯を開いて答える。午前三時半。
 いーちゃんがいっそう顔をしかめたのは眩しかったのと、待ち受けがモロにBL絵だからだろう。てへ。
 少し腹立たしげに息を吐いて、いーちゃんは縋っていた手を放して横になった。

「……おい腐れ蜜柑」
「んー?」
「退け」
「やーだ」

 そのいーちゃんにのしかかって、俺はにんまり笑う。

「寝かせない」

 俺を押し退けようとするいーちゃんは、苛立ったように睨んできた。明りはないけど夜目がきくし、これだけ近くにあるからわかる。

「っていうか、寝られないでしょ。さすがにさ」
「……うぜえ」

 耳朶に囁けば、僅かに身を捩る。そのままわざと音を立てて耳を攻めていると、面倒げに溜め息を吐かれた。
 いーちゃんは耳あんまり弱くないんだよなあ……ちぇ。

「……体育あんだけど」
「大丈夫。ということはつまり俺もあるから」
「……好きにしろ」

 俺が本気で寝かせない気だとわかったらしくて、いーちゃんは諦めて俺の肩を押していた手をベッドに落とした。
 その両手首を頭の上に片手で押さえ付けて、キスしながらシャツを捲る。俺は手が大きいほうだし、いーちゃんの手首は細いので、片手でもわりと簡単だ。

「ほんとにさあ……恐かったんだけど」
「……?」
「芳春があのまま、目覚めないんじゃないかって」
「馬ァ鹿」

 ずいぶん俺は情けない顔を晒していたのか、いーちゃんは心底おかしそうに笑って言った。

「……さんきゅ」
「っ!」

 ああ、こうして不意打ちみたいに優しく微笑むから、芳春はたまらない。
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