エントランスを出てすぐに留守の運転する車に乗り込んで、佑は都内の病院に向かった。
 法定速度を超えた運転でも、父親が搬送されたという海棠(かいどう)総合病院までは一時間以上かかった。車中で聞いた話では、死ぬような怪我ではないという。ついでに、佑に連絡がとれず母親が困っていたとも教えられた。それで携帯を見てみるとバッテリーが切れていて、ちゃんと夜に充電しておけと留守は呆れていた。
 病院に到着して、佑は看護士に教えられた部屋の扉をそっと開ける。広々とした個室、そのドアから少し離れた窓の近くに、父親は横たわっていた。母親の姿はない。
 入ろうとして、一瞬足が竦んだ。唇を噛む。――大丈夫だ。自分に何度も言い聞かせる。ここで傷ついても、ホテルに戻れば迅も晟もいる。何も怖いことはない。
 ぎゅっと目を閉じて、ゆっくり開く。意を決して、病室の敷居を跨いだ。
 ベッドに近寄ってみると、父親の目は閉じられていて、胸が穏やかに上下している。どうやら眠っているらしい。
 記憶よりも老いたその寝顔を、佑はぼんやり見下ろした。
 ――まともに顔を見るのは、何年振りだろう。

「……あんたはどうか知らねえけど、俺はあんたのこと、好きだったよ」

 幼い頃抱き上げてくれたぬくもりを、佑は忘れていなかった。どれだけ見放されていようとも。だから余計に辛かったのだ。あんなに優しかったのに、理由も分からず見放されて。
 しばらく眺めていても、父親が目を覚ます気配はない。だんだんと勇気が萎えてきて、いっそ帰ってしまおうか……と思うや、それを咎めるかのようなタイミングで病室のドアが開かれた。
 振り向くと、花をいけた花瓶を抱えた母親が、目を丸くしていた。

「佑君。来てたの……」

 その言いように、佑は眉間に皺を寄せて出て行こうとする。が、慌てた様子で母親に引き止められた。

「違うの、ごめんなさいね。来てくれないと思ったから、母さん驚いて。電話だって繋がらないんだもの」
「……」
「お父さん、まだ起きない?」
「……ああ」
「薬がきいてるのね。眠くなるってお医者様おっしゃってたから」
「……なんで」
「え?」

 ベッド脇のテーブルに花瓶を置いている母親に問いかけると、彼女は佑を振り向いて首を傾げた。

「事故」
「ああ……お仕事で東京に来たら、カーチェイスに巻き込まれたんですって」
「カーチェイス?」

 反芻すると、そう、と母親は頬に片手を添えて迷惑げに溜め息をついた。

「なんでも、警察が強盗を追いかけていたんですって。犯人が赤信号を無視して、それでお父さんの車に横から追突したって。幸い、お父さんも運転手さんも秘書さんも命に関わる怪我をしなくてすんだけれど、どうせ捕まるんだから逃げたりしないで大人しく捕まって欲しいわよね」
「……」
「あ、立ってないで座ったら?」

 ね、と微笑まれて、佑は眉間に皺を寄せたまま、そばにあったスツールに腰を下ろした。母親はなんだか嬉しそうに笑っている。

「交流会の最中だったんでしょう? それなのに来てくれて、ありがとうね」
「……べつに」
「お父さん、目が覚めたら喜ぶよ」

 ――そんなはずはない。きっとこの男は佑を好きではないのだから。
 辛くなって俯いて、佑は唇を噛む。そうしないと逃げ出してしまいそうで。
 向かいで母親もスツールに座る物音が聞こえた。

「佑、いいお友達ができたみたいね」
「……は?」
「春休みの時点だったら、何を言われても来ようなんて思わなかったでしょう」

 ――見抜かれている。佑は反射的に顔を上げ、母親の顔を凝視した。

「だから、きっと佑君を素直にしてくれるような、そんな素敵な友達ができたのじゃないかしら、と思ったのだけれど。違う? ひょっとすると、同室者の心山君かしら」
「……」
「無言は肯定ね」
「なんで……」

 わかるのか、と言外に問う。すると母親は、とびきり綺麗に微笑んだ。

「母親って、そういう生き物よ」
「母親らしいことなんてっ――」

 咄嗟に言うと、綺麗な微笑に苦い色が滲んだ。

「そうね、特にあなたが銀蘭に入ってからは、離ればなれだし。電話するくらいしか、しなかったね。休みに帰ってきても、佑君ツンツンしちゃって、取りつく島もなかった。帰省してるのにお家にいないし、そのうち寮に戻るまで、寄り付かなくなっちゃったし」
「……それは……」
「でもね、それでもわかっちゃったのよ。佑君の声、周りを威嚇してないのだもの」
「はぁ?」
「近頃の佑君は、おれはだれも信用しないぞーっ! って、近寄る人近寄る人、みんな威嚇してる捨て猫みたいだったけれど」

 また同じことを言われた。そんなにも自分の態度は捨て猫じみていたのだろうか……と、佑は少しだけ遣る瀬ない気持ちになった。

「いまは人慣れしてきたみたいだねえ。心山君がきっかけなら、ちゃんとお礼言わなきゃ」
「やめろよ。そんな小学生みたいな……」
「だって、母さんは嬉しいのだもの。佑君が普通に話してくれるようになって。まあ、ちょっとぶっきらぼうだけどね」
「……うるせえし」

 それはもうどうしようもないことだ。
 あれだけ反抗的な態度をしておいて、今更まともに話すには羞恥が勝ちすぎている。羞恥というより照れ臭いだけだが、佑は羞恥心だと思っている。

「あら! あなた、目が覚めたの?」

 安堵したような母親の声に、ぎくりと身体が強張った。寝起きだからか、呂律の怪しい声で「起きたよ」と言う父親に、佑の心臓の鼓動が大きくなる。どくりどくりと短い間隔の脈動が不快で、佑は心臓の上を押さえた。

「ほら、佑君来てくれたわよ」
「え……」

 ぼんやりとしていた父親の目が見開かれる。そうしてゆっくりと自分のほうに顔を向けられ、佑と父親の視線が交わった。 ――その瞠目は、何を意味しているのか。悪いほうにばかり考えて、せめて不安や悲しみを表に出さないようにと、佑は制服のシャツを握り締めた。
 瞠目したまま凝視され、佑は居心地が悪くなって父親から視線を逸らした。

「え、あ、え……えっ、な、何で佑が!? う、うわあああ恥ずかしい! あいたっ!」

 どういうわけか、あんまりにも情けない声が鼓膜を震わす。幻聴だろうか。
 佑は思わず真顔になって父親をもう一度見る。

「あっ、た、佑っ! お父さんいますごく情けない格好だから! 見ないで! 恥ずかしいから!」
「…………」

 所々裏返った声で言った父親は、頭まですっぽりと布団を被って隠れてしまった。こんもりとした山が小刻みに震えている。
 ――なんだ、この男は。
 愛情のない視線を向けられるとばかり思っていて、それを覚悟していた佑は、じっとりと半目で布団を見やる。呆れたような母親の溜め息が耳に届いた。

「それより先に、佑君に言う事があるでしょう、あなた」
「そ、その……」
「ちゃんと顔を見て、目を見て言うの!」
「うわあっ!」

 母親は容赦なく布団をはぎ取った。相手は怪我人だというのに遠慮がない。父親は羞恥にうち震えながらもそろそろと佑と視線を合わせた。が、すぐに耐えきれずに逸らしては、妻に叱咤されてもう一度目を合わす。
 それを何度か繰り返し、いい加減佑が帰りたくなってきた頃に、父親はようやく語りだした。

「そ、その、来てくれてありがとう、佑」
「……」

 後ろ向きな思考とは別の意味で、来なければよかったと思い始めているので、佑は反応を決めかねた。

「あ、あのね……うんと母さんに叱られたんですけれども」
(なんで敬語だ)
「お父さんは佑を嫌いなんかじゃありません! 大好きです!」
「なら――だったらどうして」

 どうして声をかけてくれなくなったのか。息が詰まるようで、そこまでは言葉にできなかったけれど、何だか必死な父親は佑の聞きたいことをきちんと感じ取ったらしい。

「そのね……あの……ううう」
「ちゃんと言う」
「は、はいっ。えっと……そのう……だってね、佑が年々、かっこよく綺麗に育っていくものだから、恥ずかしくて! 綺麗でかっこいい佑のお父さんに相応しくなるぞと思ったら、下手なこと言えなくなっちゃって! 口を開くと、父さんこんなだもの! 情けないんだもの!」

 うわーん、と口で言って、ひっぺがされた布団の端っこを抱きしめる父親は、確かにこの上なく残念だ。
 あまりにも情けないへたれた父親の姿と声を聞いているうちに、佑の中にふつふつと怒りが湧いてきた。込み上げる怒りが口から放出されるのと同時、佑は勢いよく椅子から立ち上がる。

「ふざけんなっ、このクソジジイ!」
「じっ……?!」
「てめえの勝手な都合で、俺がどれだけ――っ」

 どれだけ寂しい思いをしたことか。叫ぼうとした直前に我に返って、溢れ出そうとする言葉を飲み込んだ。さすがに恥ずかしすぎる。
 おろおろと泣きそうになりながら佑を窺ってくる父親を見て、今度は咄嗟に怒りにすげ替えてしまいそうな感情がわき上がってきた。がりがりと乱雑に頭を掻いて、佑は父親を睨みつける。

「恥ずかしいのはこっちだ、このクソ親父が! もう帰る!」
「ああっ、佑、ごめんよう佑ぅ!」

 荒く踵を返して病室を出て行こうとした佑の背中を、父親の涙声が追いかけてきた。
 佑はぴたりと立ち止まって、振り向くことなく父親に言う。

「……怪我……うちの文化祭までに治せよ、ヘタレ親父」

 言うだけ言って反応を確かめず、佑は病室を大股で出た。
 きっといまの自分の顔は真っ赤なのだろう。鏡を見ないでも佑にはわかった。身体中が熱いのだ。
 もうこんなところには一分一秒だっていたくはない。足早にエレベーターに向かう佑は、背後から聞こえた父親の絶叫に危うく転びかけた。

「たっ……佑がデレたあああああ!!!」
(あン……ッの、ヘタレジジイ!!)

 孤独だと思い込んで無駄にしていた数年間を返して欲しい。――切実に。

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