桜吹雪のなかで、心山迅(むねやまじん)は深い溜め息を吐いた。広い広いと聞いてはいたが、まさかこうまでとは思わなかったのだ。
私立銀蘭学園附属高等部は、迅の予想より遥かに広く、複雑だった。内部進学であるなら複雑とは思わないのかも知れないが、生憎と迅は外部生だ。
さほど方向音痴ではない。迷ったのは無駄に広い敷地が悪いのだと自分に言い聞かせて、迅は更に歩を進めた。迷ったからと立ち止まっていては、どうにもならない。
闇雲に歩き回るという選択肢を選んだのは、それしか選びようがなきゆえである。人さえいれば道を尋ねたのだが、辺りには鶯の声が響くくらいで、人の姿が見当たらない。
何にせよ進むしかない。そのうち着くかもしれないし、人に会うかもしれない。運動と勉強と家事以外は凡桃俗李の迅なのだが、前向きさのほうも並よりか上だった。
ざくざくと進んで行くと、中庭のような場所に出た。中央に簡素だが質の高い噴水が置いてあり、庭の周囲は花壇に囲まれている。噴水正面には石造りのベンチがある。花々の観賞だのではなく、ただ休むためだけに設けられた場所のように見受けられた。
吹き上げられ、落ちてゆく水を見ているうちに、自分が一時間近く歩き回っていたことを思い出す。体力はある方だが、いささか疲れた。
誰もいないからと、ベンチに腰を下ろした。ひやりとした石の温度が、日差しと運動で暖まった体に心地よい。深く座り、空を仰いで長く息を吐き出した。
暫く目を閉じて、水音や春告鳥の聲を聞いていた。――すると不意に人の気配が近寄って来たので目を開けた。
開いた先で、呑気そうな顔立ちの棒つき飴を舐めている美形とかち合うことなど、予想だにしていなかった。思わず体を引いてしまう。
藤黄色の頭が傾いたので、彼が首をかしげたのだとわかった。
「おはにょろーん、へーぼんくん」
へらへら笑う彼の言動に、返答が一拍遅れた。別段寝ているわけではなかったのだが、そのように見えたのだろう。
「イチゴとブドウとレモン! どれがいーい? 天気よくて俺もごきげんだから、へーぼんくんにも飴あげちゃうお!」
「えーと……」
まず名前に突っ込むべきなのか、理屈の自由さに突っ込むべきなのかがわからない。「へーぼんくん」なる呼称は彼が迅の名を知らぬゆえであろうし、迅は外見も平々凡々極まりないので否定もできない。
取り敢えず、レモン、と答えてやれば、彼はいっそう笑みを深くして、黄色い飴を寄越してきた。というのも、
「気が合いそう! 俺もレモン味が一番好きー」
ゆえのようだ。
受け取れば去るかと思ったが、一向にその気配が見られない。困り果てて彼を見ていると、彼はへらりと笑う。
「しんにゅーせー? んでもって、外部せー君っしょ」
「はあ……。何でわからはったんです?」
尋ねると、彼は飴の棒を噛みながら笑った。
「だって、ちゅーとー部と大体の配置はかわんねーもの。みんな迷わずりょーまで行けんのね。んで、こーないで迷うのは外部せーって、そーばが決まってんのさ!」
「はあ……。そうだ、寮! 先輩、寮への行き方教えてくれはりませんやろか」
迅の出身地である京都のことばは、他の関西地域と違ってまだるっこしいと言われることがある。目の前できょとんとしている彼も、そう思ったことだろうか。
けれども他者にどう思われようと、迅は標準語を話そうという気にはならない。男が使うにはいくらか女々しさも感じてしまうが、地域のことばが好きなのだ。これは一生、譲る予定がない。
「道教えるだけでいーの? ここ、りょーとはちょー正反対だおー? とちゅーで迷わない?」
「一応、記憶力はあるつもりですさかい。そうそう迷子にはならへんと……思いますけど」
既に今迷っているのだから、説得力のかけらもない。彼も同じように思ったのだろう、おかしそうに腹を抱えている。なんとなく決まりが悪くて、栗色の頭を掻いた。
「よーし、俺がりょーまで連れてってあげよう!」
ひとしきり笑った彼が言う。俺ってば優しい、だのと口にしなければ、多少風変わりな好青年で済んだものを。
「へーぼんくん、お名前は? 俺は佐竹義隆(さたけよしたか)ってゆーんだけどね。秋田藩主とは無関係だけどー。あ、ぴっちぴちの三年せーね」
「あー……、心山迅(むねやまじん)ですー」
「むねたんな! よろーん。俺のことはね、さっちゃんとかヨシリンとか呼んでにょろー」
いまいち義隆のペースを掴めずにいると、義隆が迅の手を掴んで立たせ歩き出した。
そういえば先輩相手に座ったまま対応していたが、義隆はそういったことを気にしない質のようだ。
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