年の瀬も迫る冬のある日のことだった。


『皆さまお早うございます』


そうイタリア語で挨拶したのは、今日も今日とて和装束に身を包んだ緋色だ。
彼女がこちらに渡ってきてから、半年が過ぎた。あっという間だ。ジャッポーネのまとわりつくような暑さの中、生い茂る緑を潜って彼女に会いに行ったのが、ついこの間のことに感じるのに。


『少しは慣れたか』

『本当に少しですけどね』

『一番最初に比べりゃ随分発音も良くなったじゃねぇか、確実に上達してるぞ』

『ふふ、ありがとうございますG殿』


毎日書庫を漁ってはイタリア語の本を読み、時折来訪する友のエレナに会話術を学び、また日頃耳に入るのもイタリア語ばかり。環境も手伝って、緋色はある程度異国語での会話がまともにこなせるようになった。
実用性を高めるため、日常会話でもイタリア語を用いるようになった彼女だが、その流麗な日本語を俺達が好ましく思っていることは知らないだろう。


『本日も、お揃いではないんですね』


緋色が見回す食堂の長机には、ぽつねんと目立つ空席が2つ。
夕食は各々任務に出ていて揃わないことも多々あるが、近頃は朝食ですらまともに幹部が揃わない。昨日はGが、一昨日はランポウとナックルが不在だった。今日はデイモンがいない。

そして何より、彼女が気掛かりに思うのは、ここ数日顔を見ていないもうひとつの空席の主、アラウディの不在だろう。毎日一番に彼の定位置を確認するように視線をくれては、ため息を胸のうちにしまうように席につく。
元より集団行動を嫌う彼は、人数の少ない早朝、たまに昼手前の遅めの時分に、わざと時間をずらして食事をとりにくる。それでも彼が屋敷にいて、食事を終えるまではテーブルセットが席に用意されているはずなのだ。もう何日も彼の席に三角ナフキンが立つのを目にしない。


『アラウディ様は、きちんとお食事をとられているのでしょうか……』

『あいつなら、本業が忙しいようでな。世界各国をあちこち飛び回っているそうだ』

『世界中を……?』


ナックルが不安げに瞳を揺らす彼女をフォローするように告げる。しかしその言葉は、緋色の面持ちをさらに暗くさせるだけだった。彼女が俯くのを見て、ナックルは瞬きながら上座に腰掛ける俺を見やる。


『言っていないのか?』

『アラウディが諜報部を取り仕切る者であることは、緋色も知っている。……だが、不用意に大袈裟に話したところで緋色を心配させるだけだろう』

『……しかし意外だな、アラウディのやつ、緋色には気安く付き合ってるもんだと思ってたぜ』


今日揃うのはこれで全員だろう。使用人に食事を出すよう頼む傍ら、Gもぽそりと溢す。
自分達にはまるで興味がない孤高の浮き雲たる男だが、彼女にだけは初対面の時から早い段階で懇意にしていた。故に、自分達の知るところは、当然彼女も既知であるとばかり思っていた。俺とて、そう感じている節がある。


『少しの間忙しくなるから、あまりお話出来ないとは……仰っていましたが。そんなにも過酷な身の上にあるとは一言も……』

『あいつは俺達にも話さない事は多い。それに、好きでやってる仕事だから過酷とも思ってないんだろ。気にすることないさ』


すっかり肩を落としてしまった緋色を励ますG。その言葉が耳に入っているのか否か、彼女は返事をしない。
国の諜報部というのは、ある種表の仕事のようで、しかし実際は裏社会にも通ずる非常にグレーな職業柄だ。禁則事項が多く、容易にひとに話せる事柄も少ない。アラウディ本人が口数の少ない寡黙な男であることを差し引いても、今まで山で妖怪のコミュニティーにしか加わらず生きてきた緋色には、説明しにくいという部分もあるだろう。

並べられた食事にも手をつけず口をつぐむ緋色に、向かいの席の同じくジャッポーネ出身であり彼女の古い友人である雨月が、安心させるように馴染みの言葉で口を開いた。


「緋色殿、安心するでござる。彼はめっぽう強いお方であるから、無理をする前にきちんと休息を取るでござるよ」

「雨月殿……」

『そうとも限らないものね。いま世界中ではあちこちで戦争が起きてるんだから』

『こらランポウ!』


ナックルが叱るように諌めるものの、ランポウの鋭い一言は彼女の不安をより一層煽ったようだ。どこかうっすら青ざめているようにも見える緋色は、再び黙してしまう。


『戦争は、金も武器もやたらと出回るからね。おかげで俺様も毎日のようにこき使われてクタクタだものね〜』

『文句言う元気があるならまだまだ余裕だな』

『えっ!?もう書類の山と地図のにらめっこは飽きたものね〜!!!』


ランポウの悲鳴を聞き流しつつ、一足先に食べ終えたGが席を立つ。ジャケットを羽織り、懐中時計を確認した。


『じゃあ行ってくる』

『あぁ。頼んだぞ』

『緋色、帰りになんか旨いもん買ってきてやるよ。それとも本のがいいか?』

「……っえ、あ、えと、すみません今何と……」

『ハハ、おまえはやっぱそっちのがいいや』


咄嗟に日本語で答えた彼女の頭をぽふりと撫でやってから、土産は期待しておけと言い置いて食堂を出ていったGを見送る。
ランポウが緋色の皿に手をつけようとしてナックルに怒られているのに気付くと、漸く彼女はフォークとナイフを手にした。


「失礼しました、お料理はきちんと頂きます」

「あぁ、朝食は大切だぞ。食わんと究極に一日もたぬからな」

「緋色、サラダあげる」

「ランポウ殿、好き嫌いはよくないでござるよ」

「雨月まで〜……」


和やかなやり取りを見ていた緋色が、ふっと力を抜いて微笑んだ。少しは気分も落ち着いただろうか。


「緋色、あとで話がしたい。俺の執務室に来てくれ」

「はい、分かりました」


そう言ってから、談笑しつつフォカッチャに手を伸ばした彼女を横目に、俺はテーブルの端のスタンドカレンダーを見つめた。


3日後は、ナターレだ。



***



「失礼致します」


小気味いいノックに続け、穏やかな声が響く。
首元に蛇姿のクチナシ、肩に鴉姿の闇を乗せた緋色が顔を覗かせた。


「悪いな、着物で階段は辛かったろう」

「いえ、山暮らしのおかげで足腰は丈夫ですから」

「あぁ、いや……そうか、とりあえず掛けてくれ」


裾が乱れて歩きづらいだろう、という意味で言ったのだが、彼女のこういう妙にずれた感性が新鮮で、相変わらず面白いひとだと思う。
俺も一度席を立ち、客人用のソファーの向かい側に腰掛ける。


「まず、おまえ宛の手紙が来ていたから渡しておく。おそらくソレイだろう」

「まぁ!ご無沙汰ですね。後程拝見致します」

「あぁ。で、本題なんだが」


封筒を裏表とひっくり返しながらにこやかに笑む緋色は、今朝男の安否を案じてあんなに落ち込んでいたひとと同じ女性とは思えない。切り替えが早いのか、それとも隠して圧し殺すのが上手いのか。
俺はガラステーブルに飾っておいたアドベントカレンダーを引っ張ってきて、今日の日付を捲った。赤い三角帽を被る雪だるまが笑う。


「可愛らしい七曜表ですね、カレンダーでしたっけ」

「あぁ。これはアドベントカレンダーと言って、ナターレまでの25日間をカウントダウンするんだ」

「ナターレ……確か冬の行事でしたよね」

「英語ではクリスマスと言う。起源は宗教が絡むんだが、一般的には年の変わる節目を家族や親しい者と祝う祭日のことだ」

「なるほど、日本の元日のようなものですね」

「そうだな。イタリアではこのナターレから、年が明けた1月6日まではお祭り状態さ」

「そうなんですか」


物珍しそうに、装飾の施されたツリーを模したカレンダーを眺めている緋色。首元と肩の妖怪はおとなしいながらも、やはりお互いを見合いながらちらちらと主の手元を見つめる。


「ナターレに、今年は少し規模のでかいパーティーを、此処本邸で執り行おうと思ってるんだ」

「まぁ、素敵ですね!」

「それにはうちのファミリーだけでなく、普段付き合いのある同盟ファミリーや、ソレイのような個人的な友人も招くつもりでな。おまえにも出席してもらいたい」

「えっ……良いんですか、私も?」

「緋色、よかったね。お祭りなんて、妖怪の夏祭りくらいしかいったことないもんね」

「祝いの席も葬儀もろくに出たことないけど、作法とか大丈夫?」

「う……」


ぱぁ、と喜びでかんばせに花を咲かせた緋色が、かぁと鳴かぬ鴉と舌を滑らせる白蛇の間で途端に萎んだように頭を垂れるので、俺は気にしなくていいと笑いかけてやる。


「ある程度の形式には則って行うが、そんな堅苦しいものではないし安心してくれ。……そうだ、緋色、少し格式高い着物はジャッポーネから持ってきているか?」

「あ……いえ、あまり着る機会もないので、生憎持ち合わせがなく……」

「すると、ドレスの用意が必要だな……」


この時期、仕立て屋は大忙しで当然急なオーダーメイドは頼めそうにない。ありもので彼女に似合うものを見立ててもらってもいいが、日本人と西洋人では骨格や体型も随分異なる。なかなかちょうど良いものは見つからないかもしれない。彼女をパーティーに出席させるか否か、ギリギリまで迷いすぎた。
人目に晒すこと即ち、緋色を裏社会に本格的に引き込むことになる。かといって、ファミリーの一員として迎えたのに、大勢の人間に慣れるチャンスなのに、彼女を別邸に隔離して寂しい思いをさせるのも、本意ではない。
それに、先日七華と交わした約束も相俟って、何かよからぬことが起こる前に我らと彼らで彼女を守ればいい、と漸く逡巡する心に踏ん切りをつけられたのに。

どうしたものか、と暫し黙りこんでいると、彼女の肩の鴉が嘴を開いた。


「それなら、僕知り合いの仕立て屋がいるから、頼んでみようか」

「知り合いの仕立て屋?妖怪か?」

「おじじ様のお弟子さんがこっちに住んでるんだ。女郎蜘蛛の妖で手足もいっぱいあるし、多分3日もあれば仕上がるんじゃないかな」

「あぁ、闇にはおじじ様の店まで荷運びをお願いしてましたからね、前お話してくださった方でしょう?」

「え、それって、しゅみの蜘蛛の巣作りが高じてレース織りの達人になっちゃって、洋裁の勉強するって黒船にくっついて海をわたったっていう?」

「そうそう」


まさか妖怪に顔が広いのがこんなところで活きてくるとは。こちらに来てからは亡霊の相手こそすれ、未だモストロには関わることがないと緋色本人は言っていたのに。侮るなかれ妖怪よろず屋の妖怪ネットワーク。
彼らがおじじ様と呼ぶ緋色の育ての親であり呉服屋の主であった翁の弟子か。あの店の反物は、素人目にも非常に上質な高級品であることが窺えた。期待しても損はしなさそうである。


「では、私達はその仕立て屋さんを訪ねてくることに致します」

「あぁ、そうだな、それがいい。……やっぱり俺も同伴しようか」

「ご心配なさらず、お付きならたくさん居ますから。どうかお務めに集中してくださいませ」

「そうか?……なら、その気遣いに甘えよう」


緋色が一礼して部屋を出ていったのを見届けてから、俺は執務机の上から二番目の引き出しに入っている封筒を開いた。


≪しばらく本国に戻るので、急務以外の任務は受けられない。イタリアに戻る時期は未定≫


彼女に渡したものと一緒に今朝届いた、雲の守護者からの手紙に書かれた一節。

心配と寂しさで曇りがちな緋色が、少しでも楽しめるパーティーになればいいが。
そのためにも、ナターレまでにある程度の雑務は済ませなければ。俺はインク瓶の蓋を開けて、万年筆を手に取った。






 

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