緋色が部屋に入ると、ソファーに寛ぐ鬼女の姿が初めに目に留まった。次に彼女の手元の煙管を見やり、困ったように微笑う。


「不知火……アラウディ様のお咎めを受けますよ」

「いんだよ、たまには目を盗んで悪さするのも」


楽しそうに唇から紫煙を吐き出す彼女。言ったところで滅多に聞いてくれないことも知っている。緋色は彼女の正面に位置する手前の長椅子に腰掛けた。


「相変わらず宜しくやってるみたいだねぇ」

「あくまで健全なお付き合いですよ」

「ふ、言うようになったじゃないか。健全なお付き合い、ねぇ……伊語でなんて言うんだい?」

「もう、意地の悪い」

「ハハ、その辺はまだまだか」


ふかす煙草の匂いは、彼女手製の独特の甘い香りだ。煙管の先に刻み煙草はなくとも、彼女が吐息を吹き込み肺腑の奥まで吸い込めば、それは甘い甘いまやかしを生み徒人を惑わす。


伊ノ国に居を移してから、実に三月近くが経とうとしていた。日本国の妖である彼らも、漸く西洋での暮らしに慣れ、緋色は挨拶と簡単な自己紹介だけならこちらの言葉で話せるようになった。
他人の寄り付かないボンゴレの別邸といえど、ファミリーの幹部中最も規律を重んじる守護者、アラウディの管轄下にある故、不知火は度々喫煙を見付かっては武力行使による制裁、もしくは個室に謹慎を言い渡されるなどして目をつけられていた。
それもこれも、アラウディが徒人ならぬ者であるせい。緋色が傍らに控えずとも、また彼らが人の目に映る姿をとらずとも、彼の空を写したような瞳にはくっきりはっきり彼ら妖の姿が見えていた。

式に配する彼ら妖怪一門は、変わらず主人こと羽音緋色を第一に思い彼女以外の人間とはなかなか交流を図らなかったが、一部のものは違った。
河蛙の翁ことコウは、異国でも資金繰りのため水芸で街の人々を湧かせていた。しかし彼の場合、会話なしの占いが主な商いなので、親しみをもつ交流とはまた異なっている。
反して不知火は、緋色を溺愛してやまない烏天狗の虚空が如く人間を敵視するでもなく、それこそ人間同士がするのと変わらないような話題に花を咲かせ、頻繁に屋敷内の人間と交流していた。相手が若い男ばかりなのは、彼女の趣味に他ならない。




「そういやぁ、件の男はいつ頃訪ねてくるって?」


ふかり、彼女の唇から紫煙とともに吐き出された問いに、緋色はにっこりと笑んだ。


「明日の午後には、と」

「そうかい。良かったねぇ、話に聞けばそいつ、なかなか捕まんない男だそうじゃないか」

「えぇ、なんでも、旅をしながら方々を訪ねて回っていらっしゃるそうで」

「……ただの放浪癖だねぇ、そりゃ」


不知火が苦笑いをして、煙管を手にした右腕を肘掛けに預けた。

ジョットが緋色に友人を紹介したのは一月ほど前のこと。
近々訪ねてくると話があってから一週間程でコザァートと名乗る男は屋敷に来た。しかしその時には、緋色と似た家業であるという知人を連れては来なかった。彼女の人慣れ具合をみる、ということから、初対面の人間はまず一人が妥当だろうと配慮した結果からである。
ただ、もうひとつ理由があって、その人物に連絡が繋がらなかったのだそうだ。今回屋敷に招くにあたっても、時間がかかったのはそのためである。


「コザァート殿から、お名前と人柄だけは伺っているのですが……」

「へぇ?どんなやつなんだい」

「明朗快活、旅がお好きなだけあって陽気で懐も広い、親しみやすいお方だと。ソレイ殿とおっしゃるそうです」

「ふぅん……なんだ、曲者揃いの輩の知り合いのわりには、とんだ凡人くさいねぇ」

「ただ、非常に……その、自分らしさに溢れていらっしゃるといいますか、コザァート殿がおっしゃるには自由気ままな方だそうで……」

「おや、団体行動に融通の利かないタイプなら身近にもいるじゃないか。どぎついやつが」


にやりと笑む口端から牙がちらりと覗く。
誰のことを言っているのかようく分かった上で、緋色もまた肩を揺らして微笑んだ。


「ん?なんだ呼んだか」

「あんたじゃないよ七華」


しゅるりと不意に巻いた煙の中から現れたのは、彼女の側近である式妖怪の七華。
確かに彼女も団体行動は得意としない面があるものの、よく気のつくところがあるとても心優しい子だと、緋色は心得ている。


「緋色様、来客が」

「え?私にですか?」

「亡者かい?」

「いや、生きた人間だ。談話室にGが連れていくのを見た。おそらくは件の霊能師かと」



***



『いやぁ参った参った!イタリア行きの船がまさか転覆するとはね』

『よくそれで生き延びたな。死者多数で新聞の一面にもなっていたぞ』

『予定通り着きそうになかったもんで焦ったね、とりあえず漂流していたら陸に上がれたから、そこからは汽車を乗り継いだんだ。お陰で尻が痛い』


談話室に入ると、ジョット殿が客人とお話をなさっているところだった。伊語で交わされる言葉は、端々しか聞き取ることができない。
私に背を向けてソファーに腰掛ける客人の代わりに、ジョット殿が気付いて、おいでと手招いて微笑んだ。


『紹介するよ、お前に会わせたかったジャッポネーゼの女性だ』

『あぁ!そうだった、とても楽しみにしていたんだよ』


右側から回り込んで、向き合うソファーの横に立つと、座っていた彼がすっくと立ち上がってから暫し無言で私を見つめた。
瞳の色を直接見られまいと、もじもじ所在なさげにこちらの視線をさまよわせていると、突然彼が片膝をついて恭しく私の手をとり、……なんと、接吻をした。


「え、あの、……その、えっ」

『なんと見目麗しい美女。この足でヨーロッパからアジアまで歩き通したが、貴女のような方にはめっぽう縁がなかったのは幸か不幸か、いやそれより今日この日の出会いに感謝しよう!予定より一日早くお目にかかることが出来て至極光栄だよ!』

「あ、あの、申し訳ございません、私伊語はまだ不得手で、」

「今のは別に聞き取れなくて大丈夫だ、安心しろ」


掴まれた手を離すどころか、更に固く握りしめてくる彼に驚きを隠せずにいると、ジョット殿が助け船を出しつつもそっと、いや確かに彼の手を外させてくださった。
動揺を隠せずにいる私などそっちのけで、彼は怒涛の早口で伊語を並べ連ねていく。あああ。聞き取れないこと以上に、この屋敷に来てから未だ出会ったことのなかった人柄に、最早恐怖しか感じない。


赤毛混じりの茶髪のその人は、煤けた黒色の裾の長い衣服を纏っており、ナックル殿と似た服装だという印象を受けた。
彼は立ち上がると、一歩下がって粛々と一礼してから微笑う。


「失礼、まだ名乗っていなかったね。俺はソレイ。エクソシストを生業にしている」

「私は、羽音緋色と申します。……いくすしっと、とは……?」

「あはは、エクソシストだよ。祓い屋のことさ」

「日本語お上手なんですね」

「少しだけね。何度か訪ねたことがあるんだ」


彼の胸元にはいくつもの装飾品がついており、およそ私の知る祓い屋より幾ばくも眩しい格好をなさっていた。
どちらかというとスペード殿に似通ったものを感じる。


「お江戸の巫女さんなんだって?神に仕えながらモストロを従えていると聞いた。随分破天荒なことをやってのける」

「いえ、神職についていたのは祖先です。私は、ただのしがない妖怪よろず屋でございます」

「ははっ、そりゃあ尚更面白い!」


第一印象こそ強烈だったものの、話してみるととっても気兼ねしない愉快なお方。私はジョット殿の勧めもあって、彼と外でお茶をすることになった。

お付きには七華だけを連れていく。初対面の人間にはとにかく噛み付いていた彼女が、今回珍しくおとなしいので気になったのもあった。


『おやおや、これは可愛らしいお嬢さんだ!モストロだなんて言うからもっとおぞましいもんかと!穢れを知らないローズクォーツのような瞳だ、美しいよ!』

「………すまない緋色。彼の悪癖で女性はとりあえず母国語で口説いてしまうんだ」

「い、いえ。情熱的で素敵だと思います」

「はっきり言ってもいいんだぞ」


お国柄、と言うにはあまりに雑だろう。現にジョット殿やG殿はこの国の方でいらっしゃるが、彼ほど熱烈に女性に言葉をかけているところは見たことがない。
清々しいほどの笑顔でこちらに向き直るソレイ殿。七華は黙って姿を隠してしまったようだ。


「いやぁ悪い悪い。なるべく目移りしないように心掛けるよ」

「いいえ、ご遠慮なさらず」


噛み合っていない私達の会話に、ジョット殿が内心頭を抱えていることには気付けぬまま。
雑務があるからと自室へ戻るジョット殿に出入口まで見送って頂くと、ちょうど戻ったG殿が、郊外にある屋敷から街の近くまで車を出してくださった。


この屋敷で過ごすようになって、さらにはアラウディ様という方とお話することが出来るようになって、いつの間にか当たり前のように馴染んでいたけれど。
私が人外のものを見る目を持つこと、人間よりも妖に親しみがあること、そして何よりこの瞳の色を恐れずにいてくださる方にまた一人出会えた感動。
私の胸の内はじんわりと温かい喜びで満たされていくばかりだ。


「その瞳は生まれつきかい?」

「は、はい」

「いいね、うちのボスのとはまた違う鮮やかな色みをしてる」

「……ありがとうございます、」


嗚呼、こんなにも幸せでよいのだろうか。
今までの山に籠り過ごしていた日々が、こんな形で報われるとは思いもしなかった。

誰がなんと言おうとも、いまの私は幸せという花吹雪の渦中にあるのだ。






「いい顔してるじゃないか」


主が屋敷を出ていくのを部屋の窓から見守っていた鬼女は、ふかしていた妖煙草の煙をくゆらせながら笑った。
あの箱入り娘が、ああも男に囲まれる生活に馴染めるとは思わなかった。妖怪には男女の性差があるようで無いものもいる。そもそも、妖怪と人間じゃあ根本的に異なるのだ。それを、つい昨日今日知り合った男の誘いに容易く頷くなんて、と周りは猛反発していたが、彼女は成り行きに任せていた。

自分は冒険がしたくとも出来ない身の上だった。籠に囚われ、誰も信用など出来なかった。
だから、謀りなど知らない純情な小娘に出会ったとき、ひどく目新しいものを見たと思ったものだ。


いざとなれば力になる。世間を知らない彼女に、いつかの自分を重ねていた。


「おい阿婆擦れ、俺の愛しい緋色は何処だ」

「阿婆擦れとはひどい言い様じゃないか、緋色がいないと相変わらずだね不良天狗。あの子なら件の男と茶屋へ行ったよ」

「また新しい男か……頭が痛い」

「良いことだよ、ちゃんと環境に馴染めているんだ。それに選り取りみどりも悪くないさね」


ふうと吐いた煙は、烏天狗虚空の顔を曇らせながら、甘い匂いで部屋を埋め尽くす。
迷わず換気のため窓を開いた彼は、遠ざかっていく黒塗りの車に眉間の皺を深くしながら息をついた。傍にいるだけでいいと豪語したわりには嫉妬深いのも相変わらずである。


「護衛に七華がついてる。何かあれば呼ぶだろ、あんたは心配しすぎだよ」

「心配もする。緋色は男慣れしていないのだから、俺が責任もって選別してやらねば」

「あんたの手にかかったら幼子一人残りゃしないだろうが。恋をするなら、選択肢は多いほうがいいってもんさ」


自分は、人を選ぶことすら出来なかった。
たった独り、望みを賭け、愛を求めたひとがいたけれど、それも遠い遠い昔の話。

ようやっと思い返しても、胸がつきりと痛むことはなくなった。
哀愁を伴って脳裏に甦る横顔を思い浮かべては、肺腑の奥まで煙草の煙を吸い込んだ。



***



「へぇ、歌をかい」

「詠むのはまだまだ下手の横好き程度ですが、奏でるほうはそれなりに」


広く落ち着いた雰囲気の純喫茶に入り、上質なテーブルクロスの上に並べられた洋菓子と紅茶を美味しく頂きながら、私はソレイ殿と話を弾ませていた。

彼はとても話上手で、次から次へと話題が飛び出してくるし、それを繋げて広げるのもまた上手い。ほとんど完全に導いて頂く形で、私は質問に答えるか話題に対し感想を述べるかしかしていないのに、こんなにも楽しい。


「俺も教会で聖歌を歌うこそあるけど、得意ってほどじゃあないなぁ」

「教会とは、どのような場所なんですか?」

「ジャッポーネでいう、神社や寺院、仏閣のことだね。主に祈りを捧げ、お慕いし、許しや教えを請う場所さ」

「成る程……母国のそれらの建造物は特有の美術価値を誇る様でありましたから、きっとこちらの教会というのも、素晴らしく美しいのでしょうね」

「いやぁ、さすがは多神教の国だけあるね、飲み込みが早い。俺もこの足で各地を巡ったけど、あんなに多種多様の主を祀り共存できている国は未だに見たことがないよ」


そう穏やかに笑って紅茶を一口啜ったソレイ殿。林檎のパイを切り分ける手を止めて、私はそっと質問してみた。


「ソレイ殿は、祓い屋を営むお方ですよね?国外に足を運ぶほどとは、余程腕が立つのでしょう?」

「はは、君ほどじゃないさ。さすがの俺も、モストロを付き従えられはしない。俺よりもっと名のある奴らなら出来るかもしれないが、そういう奴らは大抵お役所務めで国からなんて出やしないよ」


そして、翠の瞳を細めながら、小さな声で仰った。



「俺はね、神≠探しているんだよ」





 

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