伊の国の夏もまた暑い。
干ばつが来ないことを願うばかり、とふと考えて、自分が願うことほど滑稽なことはないと思い口元を歪めた。


「コウ、お帰りなさい」

「む、緋色か。近頃その程はどうじゃ?」

「えぇ、まぁ。まだまだ、教わることばかりでございます」

「そうかそうか。人の世は世知辛いというからのう、苦労してなんぼじゃぞ」

「ふふ、そのようで」


我が主は、読めもしないだろう分厚い英字の書物を幾つも抱えて、そこに立っていた。頼まれものだろうか。主が誰かの手伝いをする姿というのも、新鮮である。
わしが持ち代わろうとしても、濡れた手で書物にふれるのは忍びないからと笑って、主は書物を抱え直した。


「私も、幾らか伊の国の言葉が話せたなら、もう少しお仕事のお手伝いも出来たのでしょうけど……」

「何、気にすることはない。みな、お主に満足しておるじゃろ。向上心は悪いものではないが、無理して歩幅を揃えようなどと焦る必要はなかろうて」

「……ふふ。そうですね」


緋色とはその場で分かれ、わしは部屋に戻るべく足を滑らせた。
他の式妖怪とわしの違いは、緋色に執着がないことだろうか。勿論忠誠心は他のものと変わらないし、万が一の際には尽力どころか、身を呈して守ることも心得てはいる。
しかし、四六時中傍にいようとは思わない。術を用いた水芸で資金繰りをしているのは、あくまでわしがやりたいと思うたからこそ。己の力に出来る可能性を広めることは素晴らしきかなと、そう笑って言ったのは緋色じゃけども、まさかこのような機がやってくるとは思わなんだ。


「おや、これはこれは河蛙の爺殿」

「雪女の小娘か。そう頻繁に小銭をせびるでないぞ、せっかくの見てくれが台無しじゃ」

「まぁ。誉め言葉と受け取っておこう」


雪女の灯晶が、気配なくそこに顕現し、扇で隠した口元から笑みを漏らした。
こやつはわしから小遣いを貰っては、人知れず街に繰り出して地酒を買い漁るような毎日を頻繁にしておる。緋色が聞けば呆れ、七華が聞けば眉をつり上げ、不知火が聞けば自分もと笑うだろう。容易に想像できる。


「して、小娘が何用かの」

「ふふ、今日は小遣いが欲しうて来たわけではない」

「そんなことはお見通しじゃ。……お主がこの蛙に用向きがあること自体珍しいしのう」


すると灯晶は腰を屈め、雪影を写したような白磁の肌に映える紫水晶の如き眼差しでわしを見据えた。


「占じてほしい」

「お主を?」

「神堕ち≠フそなただからこそじゃ」


蒼い瞳をすがめ彼女を見上げる。眼差しに変化はない。


「神堕ちは所詮神堕ちじゃ。大したことは出来ぬ」

「何、簡単なことじゃ。近う未来をも写すその水鏡で、少しばかり見て欲しい。
緋色に付きまとうあの男を」


彼女が差すのは、おそらく緋色が救ったのち足しげく通っているという、白金の髪の男のことであろう。
わしも幾度か顔を合わせて驚いたものじゃがな。ああまで異形を視る目の持ち主も珍しい、緋色以外には初めてのようにも思えた。


「あの男がどうしたのじゃ」

「女の勘じゃ……あやつは善くない。緋色の傍に在るべきではない。……そう思った気がしたのじゃ」

「とんだ勘じゃな」


からかったつもりだが、それ以上反論してこないということは、彼女自身もまた怪しいと思うに過ぎない、本当にただの予感なのだろう。


「……よかろう」

「緋色には内密に」

「わかっとるわ」


二人、割り当てられている部屋に戻った後、わしの商売道具である桶に清水を注ぎ、呪言を唱えた。
水面に写る自分の顔が、渦を描くように歪んでいくのを見ながら、瞬くような間に昔を思い浮かべた。



***



わしはかつて、とある村のほとりに流れる小川に宿った、小さな小さな神じゃった。
濁り水に悩まされていた人々は、祠を建て、わしに供物を供えては豊穣の恵みを祈った。

わしは人々の願いのもとに生まれ、信者の数だけ力を得た。そうしていつしか肉体を持ち、神通力を宿し、一端の神として村に恵みの奇跡を振る舞った。


しかしそれも、幾年、数十年、数百年と過ぎていくうち、人は減り始めた。
気付けば、わしが与えたはずの穏やかな日常は当たり前と化し、祠にやって来る人間も減った。
力の弱まったわしは、気がつけば神であった頃に比べ、ちんけな蛙の姿になっていた。


誰も来ない小川で佇む毎日が続いた。
いつの間にか建てられた祠の屋根は、もうあちこちが綻んでいた。

そうか。わしはもう、必要でなくなっていたのか。
人間とは勝手なものじゃ。勝手に生み出しておきながら、勝手に放ってしまうのだから。

しかし人間は嫌いになれなかった。
わしを覚えている人間がどんどん死に絶え、次第に孤独になっていく。
誰も彼もがわしを忘れたのなら、潮時だ。わしも人々の記憶と共に消えてしまおう。


「本当にそれでいいのか?」


かつて、私にも友がいた。
彼は妖怪という卑しい身の持ち主であったが、気の合う河童だった。


「わたしは嫌だ。友が不様に消えいくのを、そう淡々と見届けられはしないよ」


河童はある日、わしに黙って人間の肉を振る舞った。
神の地位から堕ちたわしはただの妖怪に身を落とし、神であった頃の力を失った。せいぜい水芸のこなせる、ただの河蛙に成り果てていた。

わしは友と縁を切った。
わしと時間を共有したいがあまりに、わしを妖に仕立てあげた河童を、わしは見限った。


今更人間に拝まれるような存在には戻れない。
かといって、あの小川には留まれない。この身の穢れで水を汚したくはない。

わしは一人、茫々と旅をしたよ。

西の都に桜を見に行ったり、かつて天狗のおわしたという山を跨いで北東にも足をのばした。
けれども、無為に与えられた命はそれだけでは満足出来なかった。

そこでわしは気付いた。
共に語らいながら旅をする友が、……あの河童がいたなら。
もう少し、この忌まわしい余生も楽しめたことだろうに、と。


緋色に出会ったのはその頃じゃ。
彼女は当時、女狐と鬼女、天狗の兄弟に白蛇を連れておったか。

わしを友と呼び、連れ添う家族にならないかと誘うてくれたのじゃ。
なんと奇特な人間か。さわらぬ神に祟りなし、神ですらないこの身に関わろうとする者は妖ですらそう居ないのに、彼女は迷うことなくそう告げたのだから。


緋色に心酔している天狗の兄者はともかくとして、わしがその他の式のように緋色に執着していないのはそのせいである。
所詮彼女は人間だ。共有する時間は短い。歩幅を揃えて時を過ごせるわけではない。
いつしかやって来る別れのため、わしは一線を引いている。そう、彼女はわしの長い永い余生の、ほんの一瞬の景色にすぎないから。

それでも、いつだったかに見た、牡丹桜のような柔らかく華やかなその微笑みを雅だと思ったのは確かで。
この花を守るために力を尽くすのも、暇潰しには悪くないかと……そう感じたのじゃ。



***



「見えてきたぞ」


波紋を打つみなもを眺めながら、灯晶は口元の扇を畳む。しゃなり、と彼女の耳元の紫水晶が揺れた。


「こやつは……」

「ふむ、緋色とはまるで真逆じゃな」


水鏡に映るは、幼き日のかの男。
どうやら旧家の出身である男は、常に身の回りの世話をする者がついており、そしてそれから遠ざかるように孤独を好んできたようだ。

唯人の目に映らぬ者が、彼の心の孤独を癒した。そして煩わせもしていた。

幼い彼は唯人との間の隔たりを感じ、そしてそれを確立させていった。
何者にも干渉されないようにと、己と他者の間に一線を引き、そして人でない者との間にも境界を作った。

孤独を愛した彼が唯一、彼の領域への侵入を許したのが、あのジョットという男。
しかしそれもあくまで利害の一致でしかなく、けして仲間意識とは違うものが彼を突き動かしていた。


「!」


水鏡の中の男が、覗き込む我らを返り見る。
射抜くような眼差しが鋭く突き刺さり、わしは即座に袖口から水を叩き込んだ。

溢れた水が床を濡らすのも忘れ、桶の中を今一度見直す。


桶の底にヒビが入り、使い物にならなくなっていた。


「……危険じゃ」


わしは気が付くと声を洩らしていた。


「かの者の中には、未だ鬼が潜んでおる」

「鬼?……まだ憑かれているというのか」

「違う、それよりも質の悪いものじゃ。……彼自身の持つ悪鬼が、……このままでは緋色が危うい」


灯晶と顔を見合わせる。
わしには、今の水鏡が間接的に未来を写したようにしか思えない。


「何かが引き金となってあやつの中の悪鬼を表面化させたとき、……それはおそらく緋色をも凌駕する」

「なんと……それでは我が主は、」

「太刀打ちならぬじゃろう。わしらでもせいぜい抑え込むので手一杯になり得る」


あの男は危険だ。
いつか、いつか必ず緋色を襲い傷付けるだろう。


「では、これは我ら式妖怪の中で密に事を進めるしかあるまい」

「そうじゃな。どうにかして二人の距離を引き離し、そして───」


「まぁ、お二人揃って何をしていらっしゃるのです?」


緋色が部屋に入ってきた。
弾かれたように彼女を見やり、そしてわしは桶を懐にしまいこんだ。


「あらあら、水浸しではありませんか……借り物のお部屋ですのに」

「すまんのう緋色、いま片付けるところじゃて」

「そうですか?では私は、少々出掛けて参りますね」

「いずこに?」


灯晶の問いに、緋色ははにかんで答える。


「町まで。アラウディ様が、手伝いの褒美にと案内をしてくださると仰って」


わしらが再び顔を見合わせ、青ざめたのは言うまでもない。





 

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