三度眠れば、聖夜がやってくる。

それなのに、三度目が覚めても、あの人は帰って来なかった。



寝付きの悪い夜。皆が寝静まった頃に、独りベッドを抜け出した。
さすがに襦袢一枚では風邪をひく寒さなので、綿のつまった羽織に袖を通した。G殿が買ってきてくださった童話を片手に、月明かりの入りやすい談話室へ向かう。


城の敷地から見上げる夜空は、しんと染み渡るような寒さで塗りつぶされている。ノックする手も届かないほど遠くにあるのに、固く塗り込められた宵の色は、何処と無く窮屈に思えた。

吐く息の白さに目を細めながら歩く。月が昇る時間帯は、敷地内のひりりとした緊張感が手に取るように分かる。
本邸中庭の扉を開けて、赤いカーペットの続く廊下を抜ける。談話室の扉の隙間から、光がこぼれていた。そっとノブに手をかけると、暗闇に蝋燭の灯で照らされた髪の房がぼんやり浮かび上がって見える。ぱちぱちと火の弾ける音がした。暖炉の灯が外気に曝された身体をそっと温めてくれる。


「デイモン殿、お帰りなさい」

「おやおや。淑女がこのような夜更けに出歩くのは宜しくないですねぇ、夢見でも悪かったのですか?」

「えぇ、まぁ、そのようなところです」


長椅子に腰掛けた私の向かいで、デイモン殿が横文字の本を読んでいる。
私も真似をするように、童話の頁を開いた。異国語は音で覚えているため会話に苦労はしなくなったが、未だに綴りをよく間違える。このままではろくに文も書けない、それではいけない、と書き言葉を勉強中だ。

そんな私の様子を、若干鼻にかけたように笑いながら見やるデイモン殿が、ついと紅茶の入ったカップを差し出してくださった。


「そう必死に学ばずとも、この屋敷の人間はほとんど日本語を話せますよ」

「いいえデイモン殿、無知では要り用の際に困ります。特に私に出来る勉学はこれくらいですから、必要最低限きちんと身に付けたいのです」


頂いた紅茶の香りに何の疑いも持たず唇へ運ぶと、「ならば余計いけませんねぇ」と嘲笑いながら私のカップを睨むように見据えた。


「無知を拒むなら、疑う心を知りなさい」

「……はい?」

「そのカップに、私が人知れず毒を仕込んでいたら?もしかすると、私がD・スペードであることすら敵の策によるまやかしかもしれない。こんな人気のない時分に、平気な顔をして薄着で男の前に現れることにも、きっと違和感をお持ちでないのでしょう?」

「………」


疑うことを知れ。いつだったかに聞いたことのある言葉。背筋がひやりとするようなそれに、私はカップを手放して、急に冷えた指先を握り込んだ。


「それが出来ないなら、貴女は守られるに徹するべきだ。余計な知識を得て、不用意に好奇心のまま飛び出した先で、虎ばさみに引っ掛かることのないようにね」


私は、その言葉に確かな違和感を覚えた。
指先は、まだ冷たい。けれども、暗闇にゆらゆらと浮かび上がる彼の面影に、些か胸のうちで燻るものが芽生えたのは確かだった。


「………私は、平仮名よりも先にあやかし文字を覚えました」

「ほう」

「家内の史書や写本のほとんどを読み尽くしたあとは、あやかしの言葉に耳を傾けるしか新しきを知る機はありませんでした」

「………」

「私が特別皆様と違うことは分かっております。もしかすると、今更同じようには生きられぬやもしれません。……ですが、だからといって、新しきを知ろうとすることは、余計なことですか?」

「………………」

「守られるに徹するとは、どういうことですか。私は、この地においても、屋敷に籠りきって誰の目に写るでもなく、絨毯の毛色をなぞっているべきだと?」

「分かりました。分かりましたよ、今のは私の失言でした」


デイモン殿は、今まで纏っていたぬるったく張り詰める水飴のような雰囲気を解いて、やれやれと苦笑した。
とりあえず、何も仕込んではいないから紅茶を飲んで落ち着きなさい、とティーポッドごと私に譲って下さる。


「ちょっとした鎌掛けです、そんなにも憤られるとは想定外でした」

「………」

「プリーモが近頃貴女の処遇について頭を悩ませていましたからね。貴女自身はどうお考えなのかと気になったんですよ。全く、彼も人が悪い……」

「私の、処遇……ですか」

「えぇ。貴女を守護者の一員として迎えるべきか、それともゲストとして、来るべき時まで守り通すか……とね」

「守る?……私を?」


予想もしなかった言葉の羅列に、私は目を白黒させながら彼の続きを促し待つ。
ファミリーとして迎えられたものの、ただただ日常の一部を共に暮らすだけで、私は何処と無く疎外感を感じていた。皆様がお忙しそうにされていても、私はついこの間とて、それこそ呑気に仕立て屋でドレスを作ってもらっていた。

それは、皆様のお手伝いを出来るだけの基礎力が足らぬ故のことであったと思っていた。だから、少しでも何か出来ることが増えれば、お力添えになるかと。


「プリーモはね、女性は守られるべき存在だとお考えだ。うちの構成員に女が居ないわけではないけれど、そういう奴らは女を捨てているか、女を武器にしているかのどちらかだ」

「………」

「彼は貴女にそのままの貴女でいてほしいんでしょう。この業界に足を踏み入れて、人の変わってしまった人間を大勢知っているから……
ですが、貴女自身がプリーモの力になりたいと、ボンゴレに尽くしたいと仰るなら、私はそれを止めるなど野暮なことはしませんよ」


分厚い本をぱたんと片手で閉じて、組んでいた足を解くと、やや前屈みでないしょ話でもするようにして、私に囁いた。


「まぁ、貴女の場合、あの朴念仁がまず念頭にあるんでしょうけど」

「!」

「ヌフフ……まるで少女のように人を想うんですね。分かりやすくて可愛らしいと思いますよ」

「な、」

「安心なさい、本人以外は大抵感付いてます」

「意地悪なこと仰らないでください……!あぁもう、そんな」

「ヌフフフフ、エレナがあんまりに貴女を贔屓するものでね。手伝ってあげて頂戴、とお願いされてしまったんですよ」


至極楽しそうに話す彼は、エレナのことを思って笑顔なのやら、滑稽な私に笑っているのやら。
先程まで冷え込んでいた体がきゅうに火照り始めるのを感じて、頬の色を隠すように顔面を手で覆った。


「ま、彼は私が癪にさわるようですし、余程のことは出来ないでしょうけどね」

「滅相もございません……」

「ヌハハ、さっきまでの威勢が嘘のようだ。フフ、身体を冷やすのは女性によくないですから、程々にして床につきなさい」


より暖炉に近い椅子を譲って下さったデイモン殿は、そのまま書類をいくつかと一緒に本を小脇に抱えて、談話室を出ていった。

ふうと一息ついてから、紅茶に口をつけて、手元の童話の表紙を見た。
『ナターレの魔女ベファーナ』。子供たちにプレゼントを贈る魔女の伝承を絵本にしたものだ。


守られるべき存在。ジョット殿がそのようなことを考えていらっしゃるなど、これっぽっちも想像していなかった。
人並みの、平穏無事な生活を提供して頂く傍ら、私は彼らに一体何を返せるだろう。もらってばかりで、私に何が出来るというのだろう。


そして、あの人に何をして差し上げられるだろう。
私は化け物ではなく、ちょっぴり変わった人間であると多少自己肯定出来るようになったのは、間違いなくあの方のお蔭だ。


何か、してもらうだけでなくて、お返しがしたい。
私にしか出来ない形で、それが出来ればいいのに。



暖炉の灯りと温もりに癒されて、私は次第に瞼を下ろしていく。


嗚呼、アラウディ様。
ご無事ですか、お元気にしていらっしゃいますか。

貴方も、私は守られるべきだと仰るのでしょうか。
疑うことを知らぬ私は、足手まといでしょうか。

貴方はひどくお強いと伺っております。だから、無知な私ではお力になるどころか、貴方の美しい空色の瞳には、能天気な奴にしか映らないのでしょうか。


貴方の見えるものと同じものを映す瞳が、少しだけ好きになってきたんです。
ひとの目に映るのがあれほど怖かったのに、今は新しきを知りたい気持ちのほうが強くなって、いろんな場所に行きたいと思えるんです。


近頃の貴方様は、何処か神経を張りつめたような物々しさを纏っていらっしゃる。
お声がけしようにも、ご機嫌を損ねてしまうのではと懸念してしまう私を、貴方は臆病者と軽蔑されますか。

あやかしもののお話しか出来ない私は、つまらないでしょうか。
貴方と、せめて人並みでいい、良い関係を築きたい、それだけなのに。


人として≠フ接し方が分からない。
私は、どうすれば、もっと貴方にお近づきになれるのだろう。


人間らしくあることが、こうも難しいだなんて、知らなかった。
どっち付かずで、格好のつかない自身が歯痒い。


私は、一先ず彼が戻った暁には、笑顔でお出迎えして差し上げようとだけ密かに心に決めて、微睡みに意識を預けた。




疑うことを知らないと、この世界≠カゃ生きていけない


君は、僕すらも疑わないんだね




あの日、私は何を申せば、あのようなもの悲しくひやりと憤怒なさったお顔をさせずに済んだのでしょうか。



最後に見たアラウディ様の柔らかい笑顔が思い出せなくて、ただただあの眼差しが痛かった。



***



日も傾き、橙の空が徐々に濃紺に覆われていく頃。
よく晴れたその日の夜空には、満天の星が煌めくだろうと思えた。

うっすら雪化粧で彩られた、大勢の人間で賑わうボンゴレ本部本邸。日頃見ない顔も多く混じる中、俺は自室で上質なイタリアンスーツに袖を通し、マントを羽織りながら懐中時計を確認してやや眉根を寄せた。


「緋色、遅いな」

「受け取りだけじゃなく身繕い一通りやってもらうらしいからな、時間もかかるだろ」


開式の時間だと呼びに来たGが、最後の一本と吸った煙草を灰皿に押し付けながら言った。
そうだな、と返事をしつつ、ホールに向かいながら今朝の彼女の元気のなさを思い浮かべた。

昨夜は冷え込んだというのに、談話室のソファーでうたた寝したまま朝を迎えたと言うから、風邪などひいていなければいいが。
心配する一方で、西洋式のドレスを頼んだという彼女の姿が楽しみな部分も否めない。今回のパーティーは、近頃抗争が多いため、同盟ファミリーとの結束を強める上でもそれなりに重要な催しではあるのだが、やはり彼女には純粋に楽しんでもらいたい。


ばさ、と翼をはためかせる音。
窓から入ってきた鴉は闇だ。かあと鳴かずに、窓枠に留まったまま嘴を開く。


「もう少し掛かりそうだから、遅れて行くって伝えて、ってさ」

「そうか、分かった」


ホールの扉を開く。天井の高い空間には、きらびやかな装飾がなされている。視界いっぱいに人々が蠢く中で、コザァート率いるシモンファミリーとソレイが談笑混じりにこちらに手を振ってくれる。
守護者のテーブルに一つだけ目立つ空席に見て見ぬふりをして、俺は真っ直ぐホールを突っ切り、壇上に上がった。


「皆、よく集まってくれた。今宵は、日々の疲れを癒し、心行くまで食べ、飲み、笑ってくれ」


拍手と歓声がホールから漏れ出て、屋敷中に響くなか、ナターレのパーティーは開式した。

其処に、俺が知る限りの人でない者は、誰一人として居なかった。




 >

3/3


≪戻


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -