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三味線を物憂げに奏でて、不知火はその寝顔に子守唄を聞かせる。
「緋色は、何故泣いている。またあの男か」
「許してやんな虚空。アラウディの奴も自分のことで手一杯なのさ」
「それとこれは別だ」
「おまえが本気で怒ると雷が落ちる。屋敷が半壊して困るのはわらわ達じゃ、鎮まれ天狗」
その灯晶の言葉に、くすくすと笑ったのはクチナシだった。此処にいる妖怪の大半が、おもむろに感情を表にすれば災害を起こすような強者ばかり。それをまとめ率いているのが、無防備な寝姿を晒している人間の緋色なのだ。
「緋色はすごいよね……ぼくら最初から仲良かったわけじゃないのに。緋色がいると、みんな一緒に居れちゃうんだ」
「わしらは皆何かしらの事情を抱えておる。一括りに妖怪といっても様々あるが、神堕ちから人間の成り変わり、純粋な妖怪と、ここまで様々居て変わりないのも不思議なことじゃ」
「人間の成り変わり?誰がだ?」
「はて、虚空そなたは知らなんだか。不知火は没後妖怪になった元人間じゃ」
誰よりも仲間内での付き合いは浅いかと思われた灯晶から説明され、虚空は再び疑問符を増やす。
すると、雪女は袂から一升瓶を取り出だし、うっそりと静かに微笑んだ。
「わらわ達は飲み友≠ナあるからして。どうじゃ、たまにはおのこにもわらわ特製の氷酒を振る舞ってやらんでもないぞ」
「結構だ」
「……たまにはいいんじゃない、兄様。緋色の式に降ってから禁酒は辞めたんでしょ」
「なんだい、まさか天狗のくせに下戸かい?」
「五月蝿いわ。酒は好まん、ただそれだけだ」
「悪酔いしたらばわしが一発、目覚ましに水を被せてやるから気にするな」
「コウの翁までそう仰るか……」
「せっかくだからぼくももらおうかなー」
「坊には酒はまだ早いのではないか?」
「灯晶あんた本気かい?クチナシは文字通り蟒蛇(うわばみ)≠セよ。
此処じゃ騒々しいね、彼方の居間で飲むとしようか」
不知火はベッドの主を一瞥してから、そうっと皆を連れて部屋を出た。
一言と発することなく、主の傍らを離れずにいる狐の頭をぽんと撫でてから。
「あんたは此処に残ってな、緋色を頼むよ」
返事はないが、彼女の瞳は真っ直ぐ主を見据えたまま。会話に一切入ってはこない彼女の胸中を察してか、不知火はそれ以上何も言わない。
「あやつはまた独りかえ?付き合いが悪いのう」
「灯晶姉、」
「あいつはあれでいいんだ」
珍しく虚空が彼女を擁護するような物言いをするものだから、先に口を挟んだクチナシすらひょっと驚いた眼差しを彼に向けていた。
不知火が三味線を煙に変えて袂へしまいながら、薄く笑って言った。
「今宵の天狗様はお優しいねぇ、もう酔ってんのかい?」
「喧しい……狐は狐なりの事情がある、ただそれだけだ。おい、早よう酒を出せ」
不知火はふと息を溢すように微笑んで、鬼火をもって居間の暖炉に灯りをつけた。
「じゃあ聞かせてやろうかね、あたしが人間だった頃のつまらない話をさ」
────………
とある遊廓に、名を馳せたなんとも艶やかで美しい遊女がいた。
女は、その花街で一番高い値のつく遊女だった。懐に余裕のある男たちはこぞって彼女を買い求めた。……そう、その女こそ、生前のあたし。当時の源氏名は、もう覚えていない。
口減らしで遊廓に売られたあたしは、兄弟の多い貧しい生家で飢え死にするよりましだ、って其処でひたすら努力した。
男を騙し、男に媚び、男が悦ぶ技をいくつも身に付けた。階級が上がると、体を開くのだけが仕事ではなくなった。芸妓と同じように、三味線や唄などの技術も磨かされた。所謂芸娼ってやつだ。一通り何でも出来るようになっちまうまではあっという間だった。世に言う器用貧乏だったんだろう。こんなところにも貧乏が付き纏うなんて、と苦笑いだ。
そんなあたしの長年の努力の賜物か、あと少しで年季が明けることが決まった。店があたしを買った金を完済して、遊廓を出られるのだ。
「番頭はん、こないだ頼んだアレは届いてはります?」
「おう、ほらよ。程々にしといてくれよ〜」
「ありがとなんし」
その頃から、煙草が好きでよく番頭に仕入れてもらっては一服するのが、あたしの至福の一時だった。
入りたての頃は厳しかった番頭は、その頃にはあたしが財布を呼ぶ太夫だといって大層気に入って良くしてくれたし、多少のわがままは快くきいてくれた。だからといって、この場所が心地好いとは思わなかった。死ぬまで此処で身売りをして、投げ込み寺に他の奴らといっしょくたに葬られるなんて御免だ。
(次の客で最後にしよう。ありったけの媚を売って、惚れ込ませて、じゃんじゃん貢がせてやる。あと少しなんだ)
体を重ねるのは、嫌いではなかった。好きとか嫌いとか、そんな感覚はもうなかった。相手の心を開かせる手段。溺れさせるための手管。
何人もの男を落とした。だけど、開いた相手の心からは醜い欲のかたまりしか出てこない。どろりとしたそれは、あたしの着物を汚す白濁と似ていた。
そんなものが見たいんじゃない。あたしは、此処を出てもっといろんなものを見に行くんだ。景色も、人も。仮面の下に欲しかないような人間はもう飽きたんだ。
その日の夜、あたしを指名した男がいた。
引手茶屋でしょっちゅう宴会をして贔屓にしている男らしい。どんな下衆野郎共の集まりだか知れたもんじゃない。遊女として位が高いことのいい点は、最初から顔を合わせずに済むし客も選り好み出来るところだ。だけど今回はどんな糞爺が相手でもいい。あたしに鼻の下伸ばして財布を空にするといいんだ。
ところが、御簾越しに見たのは若い男だった。どうやら、上客の接待にうちを使っていたらしい。
その若さでその財布の紐の緩さはどうなのかとも思ったが、男がどうなろうとどうでもいい。いつも通り愛想よく振る舞った。
「つまらないですか」
「………」
「申し訳ない、私には貴女を喜ばせられるような芸の才はないもんで」
「……三味線弾いたり唄ったりすんのはあてらの仕事でありんす」
「はは、それもそうか」
あたしの顔色を窺うなんて、つまらない客だと思った。あたしに気に入られることで、早くしとねを共にしたい輩のたまにやる手だ。
でもそういう奴らは、大抵財布と中身が釣り合ってない。見世に来る前に破産するか、体を重ねても下手な奴が多い。
その客は、それからも何度かあたしを指名した。宴席に呼ぶだけでも相当かかるあたしを、滅多にない頻度で呼ぶ男。中身はともかく、払いは良さそうだ。あたしはこの客を最後にしようと決めた。
4回目の会瀬。馴染みになった客は、あたしの座敷にやって来てまず最初に、手にしていた桐箱を見せた。
「今日は、貴女に土産を持ってきたんです」
「そうかや、ありがとなんし」
「あまり色気のないもので、気に入って頂けるやら」
「……!」
桐箱の中に入っていたのは、装飾の凝った煙管だった。
「いつも香の匂いに混じって、煙草の匂いが貴女から香るので。お好きなのかなと」
「………簪やら櫛やら贈ってきた方はおりましたけんど、煙管くれたんはあんたが初めてでありんす」
「はは、そりゃ光栄だ」
男は、座敷にやって来たからと言って、真っ先にあたしに手を出すことはなかった。手土産の菓子折りを一緒に食べたり、あたしの吸った煙管で煙草を一緒に吸ったり、花街の外の日本の話もたくさんしてくれた。話が盛り上がりすぎて、抱かれることなく夜が明けたこともあった。
「そういや、あんたはんは髷を結わないんかや?」
「あぁ、これは散切り頭と言うそうだよ。外国風でね、今流行ってるんだ」
「ざんぎり……なんやおしゃれさんみたいやすなぁ」
「女性も髪を切る人が出てきてね。……そうだな、君は輪郭がすっきりしていて小顔だから、短い髪もよく似合うだろうな」
「……よしてやし」
ろくな男しか居なかった世界で、そいつはあまりにもあたしの目にきらきらと輝いて写った。惚れてしまうのは、あっという間だった。
名前しか教えてくれない男に会えるのは、この遊廓の中だけだ。店を出てしまえば、きっと二度と会うことはない。
あたしは、じきに年季が明けるのを惜しむようになった。もう少し、あと少し、そう言って、店を出るのを躊躇って、先延ばしにした。
「君、もうすぐこの花街を出ちまうんだろう?」
「!……えぇ」
「もし、もしいく宛がないなら、うちに来たらどうだろうか」
「……ええんかや?」
「勿論さ!君みたいな美しくて愛らしい人がいたら、僕はどんなに幸せだろう」
「嗚呼、嬉しい」
年季明け前最後の夜、あたしを訪ねてくれた男が祝いにとあたしにくれたのは、煙草の葉だった。
嗅いだことのない、甘くて肺腑の奥まで透き通るように染み渡る香りが、座敷に広がる。
「ずいぶんよう効く煙草でありんすなぁ」
「あぁ、幸せな気分になるだろ?」
「これ、なん言う葉っぱ……──」
そこから、記憶がない。
目が覚めると、あたしは縄に括られていた。
阿片の所持と使用の罪で、本物の牢に放り込まれていた。
あの男は、阿片の売人組織の上層部だったのだ。だから金払いが良かったし、上っ面の優しさで女に付け入るのもうまかった。
「なんで……?なんであたし……嘘……嘘って言うてや……」
店が、あたしを裏切った。
売人組織を探っていた政府が、多額の報酬を払う代わり関係者が利用した際逐一連絡するよう店に持ち掛けていたんだ。
男と親密だったあたしも疑われていて、阿片だと知らずに吸ったばかりに、逮捕されたんだ。ヤクの売人なんて知らなかった。吸ったのもあれ一度きりだったのに、店を介して密売に協力しているやら、薬の香りで男をたぶらかしているやら、ひどい風評被害つきで檻の中に追いやられた。
男はどうやら取り引きをうちの店で行っていたらしく、その容疑諸々全てあたしに擦り付けて姿を消した。あたしは間もなく性病で獄中死した。番頭のくれていた煙草が感覚を鈍らせていたようで、自覚症状がなかったせいだ。
あたしは気付くと、花街の呪縛霊と化していた。死してなお、この牢獄から出ることは叶わない。
またある時、男はなりを変えてのこのこと花街にやって来た。また別の店で宴会を開き、芸妓の酌で酒を飲む男は、赤ら顔で仲間の男に話していた。
「たしかにあれはいい女だった!追っ手さえ来なきゃ、年季明けに出てきたとこを取っ捕まえて、うちの売子としてまた働かせてやるつもりだったんだが」
「あんだけ綺麗なら、山程男が釣れたろうになぁ」
「他の組織に借りてる金の代わりに売り飛ばしても良かったなぁ。いやぁ、花街一番だっただけあって、高値のつくいい女だったのになぁ」
それを聞いてあたしは、瞠目した。
彼はあたしを、モノとしか、商品としか見ていなかった。
結局、他の男と同じ──いや、他の客よりずっと性根の腐った奴だったんだ。
憎い。あたしを死に追いやったのに、どうしてあんたはまだ生きている。
憎い。他の芸妓にへらへら笑う顔を引き裂いてやりたい。
憎い。頭蓋骨ひんむいて、その腐った脳みその中身が見てみたいくらいだ。
憎い。おまえから香る甘ったるい匂いに混ざるあたしと同じ煙草の匂いで鼻が曲がりそうだ。
「ひ、ひぃ!!鬼女だ……!!!」
辺りに広がる鬼火が、畳を焼き襖を焼き女を焼き男を焼く。
小太刀片手に覚束ない足取りで逃げる男を追い詰める。なんだか背が伸びた気がする。男がとびきり小さく見えた。死装束は重くなくていい。
長く伸びた爪が男の肉を裂く。叫び声がごうごうと燃える炎に掻き消されてく。僅かな抵抗で振るわれた小太刀も、鬼の肌にはかすり傷すらつけられない。
はたと我に返った時には、火の粉と返り血で真っ赤に染まった衣を引きずりながら、燃え落ちていく花街の中でただ独り、あたしだけが立っていた。
手には男の持っていた小太刀。男の姿は亡骸はおろか衣服の裾さえ見当たらない。どうやら燃えちまったみたいだ。
口の中で甘ったるい血の味がする。肉の焼ける匂いが芳しく感じる。
「人間やめちまわないと、この街は出らんなかったんだね」
長く腰まで伸ばしていた髪を、小太刀で項のところでばっさり切り落とし、火の中に放りやった。
獄中死したときのまんまでぼさぼさだった頭は、短いほうが見映えがいいみたいだ。ゆらゆら揺れて長く伸びる自分の影を見て、笑う。
死んでから初めて、自由になれた瞬間だった。
ひとの肉の味を覚えちまったあたしが、人間の多く住まう場所を目指して江戸周辺で悪さをしていたのを、緋色に見付かったのは、それから10年後くらいのことだ。
妖怪歴が浅かったから、緋色の作る食事に慣れることが出来た気がする。とはいえ、今でも肉は好きだ。うちは家畜の肉しか出してもらえないけどね。
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