「気分転換にはなったかい」

「えぇ、今宵はまことに楽しゅうございました」

「それは良かった」


馬車の中、揺られながらふうわり微笑んでみせる彼女。
黄色人種とは思えないほど透き通った白磁の肌に、艶やかな黒髪が美しい。色を差すように華やかな紅眼も、いまは穏やかに細められている。


「伊ノ国は祖国とはまったく違う趣が興味深いとは常々思っておりましたが、言葉の通じない場所である以上、滅多に外出できませんでしたゆえ」

「でもエレナに教わってるんだろう?イタリア語」

「……え、えぇ、まぁ」

「その様子だと、苦労しているみたいだね」


泳がせた瞳を僕に向けて、照れくさそうにはにかむ彼女は今日も今日とて愛らしい。
凛とした風貌で時に垣間見る間の抜けた行為や言葉、感情豊かな表情。趣味が俳諧というだけに、その感性が抜きん出ていることも魅力のひとつ。
ジャッポーネの詩は少し難解なパズルを思わせる。僕も嫌いじゃないけど、返歌出来るほどの腕前は生憎持ち合わせちゃいない。
ただ、ふと思い浮かべたフレーズを、まるで口ずさむように時折詠む彼女の横顔が好きだった。


「いつか、皆様と伊語で会話をしてみたいと思いまして。さすれば、いくらかお手伝いできることも増えましょう?」

「気にすることないのに。でもその向上心は、買いだね」

「ふふ」


屋敷から近い町を案内して、不便があれば頼れる者も紹介した。さすがに四六時中彼女のサポートが出来るほど、僕のスケジュールに空きはない。かといって、屋敷の中の者と仲良くさせるのも面白くない。
始終妖怪を引き連れている彼女だが、イタリア人と会話の出来る妖怪はさすがに居ないだろうからね。頼れる者はどいつかって?心配することはないよ、そいつも亡霊だからね。

ふと、馬車の窓から外を眺める横顔が、何やらひらめいた表情に変わった。
僕の視線にも気付かず、彼女はぼんやりとした眼差しで唇を動かした。


花影に 月を思わば 現かな……


「今のは?」


ジャッポーネの詩を理解するには、今一つ僕には知識が足りない。だからこうして、つい直接訊ねてしまうんだけど、彼女は嫌な顔ひとつせず答えてくれる。
彼女がイタリア語で会話したいというなら、僕は俳句を通して彼女の心と通じ合いたいね。


「ふふ……花の影に月光がさす美しさは、幻のような現実を思わせる≠ニいう意味です」

「へぇ……いい詩だ。ところで、花と月は誰に例えているんだい?」

「えっ」

「僕が詩の真意に気付かないほど愚鈍だと思った?」


そして少し頬をかきながら、困ったように笑う彼女は、「お見逸れ致しました」と紅色を細めた。


「花は、様々な発見。この国のことや、文化、この地で出会った人々。月は、ボンゴレの方々や、それに導いてくださった雨月殿です」

「ふぅん……」

「たくさんのお力添えと、縁(えにし)が幾重にも交差して、私はいま此処に居ます。そのことに、心から感謝しているんです」


長い睫毛をしばたたかせながら、彼女はきゅっと手を握り、柔らかく笑んだ。


「こうして、同じ視える&にも出会えたこと……昔の私では、考えることすらしなかった出来事です」

「ジャッポーネでは、そんなにも稀少な存在だったんだね」

「えぇ……私の傍で視認出来るようになるとはいえ、むしろそちらの方が不気味だと……妖怪憑きでは、嫁ぎ先もありませんし」


確かに、そのような縁談が飛び込んできてもおかしくない年齢だろう。
道中に見掛けた教会でも思い浮かべているのか、彼女は眩しそうに目を細めている。


「まぁ、私には今でも縁遠い話ですが」

「そんなことないんじゃない?」

「え……」

「……少なくとも、屋敷内に君を愚弄する輩はいない。もっと積極的になって、出会いが増えれば、そういった機も巡ってくるさ」

「………積極的に、」

「もしくは、既に出会っているかもしれないよ」


僕は薄くくちびるを緩めて、そう続けた。
結婚。今まで考えなかったわけではないけど、仕事で手一杯の日常に不満もなかった自分では、縁のない話だと思っていた。
彼女とならあるいは、なんて考えてしまうのだから、気が早いものだと自分でも思うよ。

それでも、彼女と居るときはいくらか浮かれている自分にだって気付いている。
そう簡単に言葉や形にしないけど、彼女の心の支えにほんの僅かでも役立てているだけで、幸せだ。

なんと言っても、彼女の心根を理解出来るのは僕だけなのだから。


「そういえば、今度ジョット殿が客人を屋敷に招くそうです」

「客人?知らないな」

「聞くところによれば、ジョット殿のご友人だとか……」

「あぁ、コザァートか」


シモン=コザァートは、ボンゴレファミリー設立の提案者であり、ジョットの良き理解者であると聞いている。幾度か個人的に屋敷を訪れては、彼の友人として時には助言もしているという。
彼が来るというだけなら、確かに僕のところまで話が来なくてもおかしくはないか。


「まぁ、悪いやつじゃないよ」

「アラウディ様のお墨付きでしたら、間違いないですね。ふふ」


コザァートなんかよりも、警戒するべきはデイモンだ。薄笑いを張り付けて、腹の底で何を考えているか分かったものじゃない。
術師特有のもの以上に、何やら不穏な気配を感じるのだ。まぁそれ以前に、奴とは反りが会わないんだけど。彼女にもちょくちょく霊術について問い質しているみたいだし、目を光らせておくに越したことはない。


僕が黙りこんでしまったのにも気付かず、彼女は嬉しそうに笑顔を綻ばせて言葉を続けた。


「なんでも、コザァート殿のお知り合いに、私と似た家業をお持ちの方がいらっしゃって、今度はその方もお連れになってくださるそうなんです」

「………え?」

「話も弾むだろうと、わざわざ取り計らってくださったらしく……」


コザァートの知り合いに、緋色と似た仕事?聞いたことがない。
大体、霊能師を名乗る輩に人でないモノを視る力を宿している者は少ない。大方は嘘っぱちさ。不治の病や呪いを治す仕事の金の入りが良いことに乗っかっただけの奴が、ほとんどだ。
だからといって、それもゼロではない。いずれかの人間は、僕と同じように視なくてもいいモノを視る目を持つだろう。

もしも、偽者に近付いて彼女が傷付いたら?
もしも、彼女が僕以外に理解者を得てしまったら?

漸く他人に関わることに慣れ始めた彼女の心を、挫くようなことはしたくない。
やめておけ、なんて言葉が、今の彼女にとってどれほど重いものか。彼女の信頼を一身に受ける自分の言葉が、彼女をどれだけ傷付けてしまうか。分からないわけではない。

かといって勧めるつもりもない。彼女が僕以外にも心を砕くことを覚えてしまえば、僕はいずれ用無しになるだろう。あの天狗の男のように、形無しになってまで必要としてくれと縋るなんて、もっての他だ。
ならば、どうすればいい。最善はなんだ。僕が彼女の一番で在りながら、彼女を傷付けずに済む選択肢はどれだ。


「少しばかり心許ないですが……アラウディ様のおかげか、初対面の方でも落ち着いて話せるようになって参りました。私、頑張ってみようと思います」


嗚呼、やはりその紅色は美しい。
揺らぐことのない意志を宿す瞳は、僕を射抜いて放さない。


「そう」


僕は、短く言葉をこぼして、不器用な作り笑いを浮かべた。

路端に咲いていたあの花が、車輪に踏まれ散ったことなど、彼女は知らない。




 

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