考え直せ、と止めるも効果はなく。
「では行って参ります、留守を頼みましたよ」
護衛もいらないと笑って、足元弾ませ出ていった主を掴もうとした手のひらは空を掻く。
「あの阿呆娘は!しかしそのような間抜け姿もまた愛らしい!」
「何馬鹿なことほざいてんだい灯晶」
ふか、と紫煙を吐きながら現れたのは、鬼女の不知火。
蛙の翁はせっせと拭き掃除に勤しんでいる。
「いいじゃないかデートくらい……行かせておやりよ」
「そういう話ではないのじゃ。元々わらわは虚空ほど過保護でもない、緋色がああも嬉しそうにしているのを止める質ではないわ」
そうじゃ。わらわは確かに式の者の中でも一番新しく、緋色と過ごす時は浅い。
しかしそれが愛情の欠落に準ずるかと言えば、全くもってそのようなことはないのじゃ。
わらわとて心が痛むよ、主が心を傾ける者との仲を引き裂こうだなんて。
それでも、それが緋色のためとなるならば、心を殺してでもわらわは……わらわは……
「……おーい、雪女やーい」
「はっ」
「己が胸中で物事を進めすぎてまっしぐらになるのはあんたの悪い癖だねぇ。
……話はコウの爺さんから聞いた」
彼女がため息をつくと、またふかりと紫煙が舞う。
「正直あたしは、アラウディと緋色の仲を取り持ちたいと思ってるんだ。漸く心根をすっかり理解してくれる、分かり合える人間に出会えた……なんだかんだで心はひとりぼっちだったあの子が、やっとそうでなくなるんだと、安心したもんさ」
「そなたはまるであやつの親のようじゃのう」
「まぁ、保護者であることに変わりはないさね。どちらかといえば妹分ってとこかな」
わらわからしても、確かに緋色は主というよりも友、友というよりも姉妹のようなものじゃ。
彼女は式に配する際、家族のような存在になってほしいと言った。彼女を愛しく思い、その契約にも同意できたからこその今じゃ。
「そなたはアラウディとやらについては、どう思う?」
「あいつかい?悪いやつじゃないと思うよ。紳士ぶりすぎていないし、雨月らの話を聞いていても、見かけ通り女にはだらしなくないらしいし」
「それは鬼≠ニしての心か?それとも──」
答えを押し隠すようにキセルをくわえる彼女。
伏した眼差しに映るのは、愁いか懐かしさか。わらわには到底分からぬ領域の話じゃ。
「あんたこそどうなんだい?疑いこそすれ、根っから嫌いってわけでもないんだろ?虚空じゃなし」
「そうじゃのう、あやつの切れ長の瞳は、いつぞやの凍てついた紅を思い出して堪らぬ」
不知火のわらわを呼ぶ声が遠退いていくのも気に止めず、わらわは瞬いた間のような刹那の出会いに思いを馳せた。
***
わらわはとある雪国の村奥に棲む妖だった。
雪女は、子を成せぬまま死に絶えた女のなれの果てとも言われるが、そうかもしれない。わらわは純粋に子供が好きだった。
人をからかい、時には子供を拐い、けれども殺しはしなかった。皆命あるうちに村へと帰した。
わらわは遊び相手が欲しかった。
うだるような暑い夏の日も、その山小屋の周辺は凍てつくような寒さが取り巻いていた。
わらわがそっと息を吹けば、たちまち其処らには霜が生え、雪が舞い、つららが伸びた。
唯人に姿の見えぬ自分が、存外嫌いではなかった。時には村に降りて、そっと息を吹きかけ、人々を驚かせて笑った。
わらわは人間が好きじゃ。
ただ、そんな心優しき妖であるわらわさえも怒り狂わせる事件が起こった。
わらわがそっと目を掛けていた子供が、いつしか大人になった。
子はおのこじゃった。立派な体躯に穏やかな面立ち、良き男に育ったものじゃと当時は見掛ける度に頬を緩ませた。
その子供は、かつて雪道の中足を踏み外し、埋もれて凍えていたのを助けてやった子供だった。
わらわを目に写し、ありがとうと微笑う珍しい子だった。
今一度その目にわらわを写してほしうなって、わらわは彼について回った。
しかし男は腐っていた。その見目で騙したおなごを身勝手に弄び、おなごの涙を嘲笑っていた。
あげく、身籠ったおなごを足蹴にし、腹の子を殺した。
わらわは失望した。腹を抱え咽び泣くおなごを罵倒し、下卑た笑いを浮かべる其奴に幻滅した。
だから、埋めたのじゃ。
雪深く地中の奥底へ、その上から息吹をかけて蓋をして。
二度と助けてという叫びには応えてやらなかった。無性に腹が立って仕方無かった。
もしかすると、いつだったかのわらわを、あのおなごに重ねていたのかもしれない。
大昔すぎて記憶に残っていないかつての自分。もしかしてあのように、貶められ、辱しめを受け、奪われていたのやもしれぬ。
おのこなんていつしか皆あのような害獣になるのじゃ、
そう考えてからというもの、わらわは村からおのこを排除せんと動いた。
雪に埋めたり、吹雪かせ山から落としたり、生まれてくる子がおのこならば、母親を凍えさせ腹の子をおろさせたりした。
そうしているうち、いつしか村にはおなごしかおらぬようになり、外で身ごもっても村で生まれてくるのはおなごばかりと噂されるようになった。
年中冬のごとく吹雪に見舞われる女人の園を怪しんで、彼女がわらわを尋ねてきたのはそれから数年後のこと。
「いったいいくつもの子殺しの罪過に手を染めてきたのです」
わらわの息吹にも劣らぬ冷徹な眼差しは、皮肉にも雪景色に映える燃え揺る炎の色をしておった。
数々のおのこを葬ってきたわらわを戒め封じ込めんとする魂縛術。その力量ならば、並大抵のおのこなぞものともせぬだろう。わらわは世にこのような強きおなごもいるのだと知った。また、そのうちに確かな優しさが秘められていることも。
「貴女が殺めてきた子の中には、少なからず愛されて生まれてきた命があった。貴女は大好きな人間の営みを、そうしていくつも壊してきたのです」
妖怪とは本来、人間とは相容れぬ生き物。ゆえに関心など持たず、自由気ままに生きる。
わらわはすこし、人間に干渉しすぎた。
眦から雹の粒をぽろぽろとこぼしたわらわの手を取り、緋色は共に行こうと微笑んでくれた。
久しく触れた人間のぬくもりに、わらわは誓ったのじゃ。奪ってきた小さな命の数々に代わって、せめてこの御魂だけは我が手で守り抜き、愛そうと。
***
「―――ゆえにわらわは、わらわは小娘の手を取り、そして」
「ハイハイそこまでだよー」
なんじゃ、無粋なことを。
わらわがつい先刻のことのように鮮明に覚えている主との出会いを思い返しておると、不知火が呆れた様子でキセルをわらわの目前に翳した。呆れたいのはこちらのほうじゃ。
「まったく、あんたが興奮すると周辺が凍りつくんだから。それにその話はもう聞き飽きたよ、酒が回るたびに同じとこばっかり話すんだ」
「むう……その折におったのは闇と七華だけじゃったから、そなたにも聞かせてやろうというわらわの計らいが分からぬのか」
「わーかったわかった。確かにあのころは式も増えたから、って全員揃って旅するようなことはなかったけどさ、結局のところアラウディの話はどこいったんだい」
わらわは口元の扇をぱちんと閉じ、そうして不知火に向けた。こちらに向けられているキセルの頭とこつんとぶつかる。
「所詮おのこはおのこじゃ。必要以上に関わりとうないが、それも緋色のお気に入りとあらば別。それだけのことじゃ。まぁ、あの目つきに多少認めておるところはあるがな」
「なんだ、てことは嫌な予感≠チてのもいつものあんたの男嫌いかい」
「それは違う!まことに奇妙なものがこみ上げた、だからわらわは蛙の翁を尋ねて……」
「はいはい」
まったく!人の話を最後まで聞かない愚か者は嫌いじゃ!ぽすんと備え付けの一人掛けソファーに腰を落とす。これはなかなか座り心地が良くて気に入っておる。
一通り片付けを済ませた翁は、今一度懐から底に罅の入った桶を取り出だすと、しかしと言葉をにごらせた。
「わしが占じてこのようになるのは初めてのことじゃ。確かになんらかの災いが近づいておるのかもしれぬ」
「ただの寿命なんじゃないのかい?もうだいぶ年季が入っていたろう、その桶」
「これはわしが神であった頃、供え物入れに使われておった桶じゃ。人々はここに、わしの恵みによって実った作物を供えた。確かにもうかなり古いものであったが……」
ふう、と紫煙を吐き出しながら目をすがめた不知火。煙をくゆらせながらソファーに腰かけると、艶めかしく足を組む。
「水鏡の中のあやつは、たしかにこちらを振り向いた。何かを企んでおるに違いない!」
「まぁまぁ……此処の人間はそう悪い奴でもない。何か起こっちまった折には、手を借りればいいさね」
「呑気なことよ」
妖怪特有の、何か……そういうものに敏感な部分があるのやもしれない。
ここで明言して危ぶんでおったのはわらわと蛙の翁殿だけじゃったが、七華も不可思議な様子であったし、クチナシは時折警戒するように緋色の傍を離れなかった。虚空などあの様だ、闇も滅多なことでは表に見せないが、緋色があの男のもとへ通い詰めるうち、何かを含んだような面持ちになっていた。
そうして不知火もまた、この場では楽観的な言葉でごまかしていたが、彼女が一番に予感していたに違いない。
ただ、わらわ達は誤解していたのじゃ。
これが、ただ主を人間に預けたことの違和感であると。
もしかしたら、自分たちの傲慢が錯覚させていただけの、本当に何でもないわずかな嫉妬心だったのではないかと。
だから知る由もなかった。
ここでもっと、用心しておれば。
緋色は、何も失わずに済んだかもしれぬのに。
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