***



夢から覚めると、ぼくは緋色一行にと与えられた部屋のソファーでとぐろを巻いていた。身体が冷えないように、けれど蒸すことのないようにと、緋色の手拭いがかけられていた。


「おや。起きたかい?」

「……不知火姉。どうしたの、珍しく巻物なんて広げて」

「随分なこと言うねぇ。これは雨月がこっちにいる間につけていた様々な記録だよ」


此処にいる以上、知っておいて損はないだろう?

そう言う鬼女の不知火姉は、何処と無く不穏な眼差しで。


「何かあったの?」

「いいや、ただの女の勘さね。ま、取り越し苦労で済む分にゃ問題ないから、こうして予防線を引こうとしているところさ」

「ふぅん」


ぼくは手拭いから這い出して、するりとソファーを降りた。何をするでもないけど、緋色に会いたくなったから。
ぼくが部屋を出ようと身体を滑らせていると、扉が独りでに開く。ふと顔を上げると、そこにいたのは七華姉だった。


「七華姉!」

「わっ、……こら、クチナシ!じゃれるな、むず痒い!」


七華姉の足元をしゅるしゅる回ったあと、足に絡み付いて頬擦りをしながら遊んでいると、怒ったような声を出すので素早く抜け出した。
ちょっと前の七華姉なら問答無用で首捕まれて引っ張られてたから、彼女も優しくなったものだと思う。


「七華姉、緋色知らない?」

「うん?緋色様なら、談話室で何やら人間の女性と話し込んでいたよ」

「女の人?」

「あぁ、エレナというらしい」


珍しく、彼女が平素な面持ちでそう言うものだから、ぼくは思わずえっと声をあげてしまいそうになった。
人間嫌いの七華姉が、緋色が人間と話すのを普通に言葉にするなんて。
確かにぼくらは、こちらに来たからには、緋色が人間と親交を深めることにもそろそろ慣れなければならない。だけど、大好きな主人を取られたみたいで、寂しく思う気持ちだって誤魔化せない。
七華姉は、緋色に忠誠を誓う第一の式妖怪だ。誰よりもその気持ちは強いはず。現に、虚空兄みたく暴れはしなくても、人間への抵抗感に苛まれていた。

なのに、どうしたんだろう?


「七華姉?」

「……不思議なものだな」


ぼんやりと何処か遠くを見つめるようにして、彼女は呟いた。


「人間は、いまでも嫌いだ。だけど……、いやなんでもない」


そう言うなり、妖術で煙に巻かれるようにして姿を消してしまった七華姉。ぼくにはまだ彼女の真意は汲み取れないけれど、彼女のなかの何かが優しいものに変わり始めているだろうことは感じ取れた。
七華姉は緋色の次にすきなぼくの大事なひとだ。異形として虐げられてきた過去を分かち合ってくれる、繊細であたたかい心の持ち主だから。


「人心を解するのも、時には悪くないもんさ」


頬杖をつきながらそう言って笑ったのは、不知火姉。


「だからこそ、あたしらは緋色に出会えたろ?ねぇ、覇邪の蛇神や」

「……邪神の間違いだよ、不知火姉」


神様なんて名のつくような、素敵なことはぼくに出来ないんだ。だからこそ、神の括りで名を呼ばれるのがとても嫌いだった。
でも、そんなぼくのことでさえ、だいすきだと言って、頼りにしてくれるひとが出来たのだ。

あの子を死に至らしめたのはぼくの重責だ。一生悔いるべき、とても大切な罪だ。
ぼくのちからは、大切なひとを殺してしまうかもしれない。そんなの、遠い昔から分かってることだった。緋色は、それを知ってるからこそ誰かの力になれるって言ってくれた。


あのままひとを避け続けていたら、緋色と出会えずにいたら。
そう思うと、いまのぼくはひどくしあわせなんだなぁと感じるのだ。


「緋色のとこに、いくよ」

「はいよ」


式のみんなが、そうやって緋色に救われたものばかりだ。
みんながいて、緋色がいて。その真ん中にいるから、ぼくは今日も、心地好い温度に安堵しながら、ゆっくり深呼吸するんだろう。



***



「まぁ、本当だわ」


そう表情を綻ばせて、花が咲いたように柔らかく笑んだのは、亜麻色の髪を緩く波打たせた、優しい印象の女性───エレナ様だった。


「すこし、身体が軽くなったように感じるわ。緋色、あなた、本当に魔法が使えるのね」

「魔法とは、少し原理が違いますけれど。ようございました、喜んで頂けたようで」

「デイモンはわたしの誇りに思う素晴らしい呪術師よ。けれど、彼がこういう優しい魔法を使うのは見たことがないの」

「そうなんですか」


先日アラウディ様に教えて頂き、一昨日の屋敷探索で見つけた広い図書室で偶然お会いした彼女、エレナ様は、慎ましくあたたかく、それでいて私のこの瞳を見ても尚柔らかく微笑んでくださる、素敵なお方でいらっしゃる。
異国の方は男女問わず背が高く、年齢もそれに伴っているように感じられるので、彼女が私と同い年だと聞いたときは思わず驚きの声を上げてしまった。

彼女はデイモン殿の婚約者ということで、しばしばこの屋敷に訪れるのだという。彼女が持参した差し入れの菓子折りを少し分けて頂き、屋敷の勝手知ったる彼女の淹れた紅茶を啜りながら談話室で談笑し始めてかれこれ一刻半だろうか。
今日初めてお会いした方だというのに、するすると言葉が繋がり、話題が膨らんでいく。長い山暮らしで人見知りの激しい私がこうも穏やかに談笑することができるのは、おそらくエレナ様自身が聞き上手なこともあるのだろう。まだ、初対面の人間にしっかりとした語調で話を進められるほど、私は人間に慣れることが出来ていない。


彼女の恋人であり婚約者であるデイモン殿とは、実はまだそう多く言葉を交わしてはいない。けれど、彼女の話を聞いていると、彼のことを多く知ったような気になる。


「彼もなかなか忙しい身だから、同じ屋敷に住んだところでそう会話する機会は多くないだろうけど……、気取っているように見せて、実はとても誠実なひとなの、彼。仲良くしてあげてね」

「承知致しました。ですが、仲良くして頂くのは私の方かと……」

「あら、此処に住んでる以上は畏まる必要なんて何処にもないのよ。
この屋敷は、貴族も商人も、神父も警察もみな平等に扱う世にも珍しい自警団の集まりなのだから」


ね、と首を傾けて微笑う彼女は美しい。デイモン殿が彼女に惹かれた理由が、何故だか分かったような気がした。
それに比べて、ただでさえ世間知らずなのにも関わらず人見知りで、何もない廊下で躓くような冴えない私。料理とて別段上手いわけでもないし、雨月殿のような芸術の才どころか、神降ろしの舞ひとつも覚えていない、ただ他人にとって特異なものが日常的に視えるだけ。

こんな私では、いつかきっと皆に見限られることだろう。ジョット殿の気まぐれで保護されたことは知っている。取り柄も何もない私じゃあ、そう遠くない日に用無しに思われるのだろう。


彼にも、辟易とした眼差しを向けられてしまうのかもしれない。


「駄目ですね、私は」

「なぁに?どうしたの、急に」

「何もない、本当に井の中の蛙です。私は」

「どうして?あなた、いまわたしにまじないを施してくれたわ。誰にもない素敵な力を持ってるじゃない」


そう言って微笑うエレナ様に、渇いた笑いしか向けられない自分にまた、幻滅してしまう。

あやかし物と会話し、悪霊大妖怪呪詛討伐を生業とする女なんぞ、気味が悪くて誰も関わりたがらないだろう。そう自らを皮肉ってしまう自分自身こそ、この異国暮らしで変えたい我が根底の性質だった。

褒められることに慣れない、なんて可愛らしいものじゃない。醜い、くだらない自分に、私自身が呆れ返って見限っているのだ。


「そう落ち込むことないわ。ジョットに聞いたの、あなた、自分を変えたくてイタリアに来たのよね」

「はい、まぁ……人生最大の冒険のつもりでは、ありましたが。所詮ちっぽけな挑戦でしたし、私自身覚悟がまだまだ足りなかったようです」

「大丈夫よ、まだこっちに来てそう経ってないじゃない。人間そう簡単には変われないものよ。ゆっくりでいいのよ、じゃなきゃ疲れちゃうもの」


向日葵のようなあたたかい笑顔は、それでいて淑やかで、彼女が良家の高貴な身分のおなごであると納得させる素敵なものだ。
彼女が優しくてしっかりしているぶん、私はどんどん卑屈になってしまう。おなごの友人は、妖怪にも少ないのだ。


「いいんです。私は廃れかけの陰陽師家系の末裔。いまを輝くエレナ様とは比べ物になりません……」

「何と何を比べるっていうのよ!もう、緋色ったら面白いんだから」


しゃんとした姿勢でティーカップを手にしていた彼女が、前屈みになってテーブルに肘をついた。カップに頬を寄せるようにして、その陰から私をそっと覗き見る。


「ねぇ、じゃあこうしましょ」

「はい?」

「緋色、わたしのこと、エレナって呼んでみて」

「え?……え、エレナさま…?」

「違うわ、エレナよ。たぶん、あなたの性格からして敬語を抜くっていうのは難しそうだから。せめて、敬称を避けましょうよ」

「しかし……」

「ですが、でもしかし、でもないわ。ねぇほら、エレナって呼んで。何か変わるかもしれないでしょ?」


小首を傾げる彼女が、魔法をかけるように人差し指を振った。
私は、たどたどしく唇を開き、か細い声音で呟く。


「え、……ぇれ、な……」

「うん」

「エレ、ナ……?」

「はい、なぁに緋色?わたしはエレナよ」


今日もあなたの瞳は鮮やかなローズガーネットね、素敵だわ。


そう、彼女が優しく続けてくれるものだから。


「……エレナ、私、変わりたいのです」

「えぇ、そうね。簡単じゃないけれど、難しくもないわ。わたしが精一杯お手伝いするから安心して」

「本当に?」

「もちろんよ。まずはお茶を楽しみましょ、そうしたらわたしたち、今日から素敵なお友達よ」


クッキーを半分こして、微笑みあいながらかじりついた。
すこし、不安になっていたんだ。もしかしたら、故郷をいまさら懐かしんでいたのかもしれない。


でも、何故だろう。不思議だ。
もう、何処にもその不安は見当たらない。此処でやっていけるような気がした。

此処で、此処の方たちと過ごしたら。
臆病な私も、やさしくてあたたかい人間になれるような、そんな気がしたのだ。


「おや、見掛けないと思ったら、こちらでしたか」

「チャオ、デイモン。お邪魔してるわ」

「これはこれは緋色も一緒に。妬けますねぇ」

「失礼しました、では私はこれで……」

「こらデイモン?意地悪しないで、緋色はわたしの大切な友人よ。じゃなきゃせっかくのクッキー食べちゃうんだから」

「それは困りましたね、ヌフフ。僕はどうしたらいいですか?愛しい僕のエレナ嬢」


何やら分厚い書物を小脇に抱えたデイモン殿が、手入れされた庭の見える談話室の片隅のテーブルで茶菓子を味わう私達を見付けてそう言った。
半ば本気にした私をたしなめるエレナと、困ったなんて口だけで楽しそうに微笑うデイモン殿。二人は長きを共に連れ添う恋人なのだと、後れ馳せながら感じさせられて。

あっけらかんとしていると、エレナはすっと立ち上がってティーカップをもうひとつ用意した。



「お茶にしましょ、デイモン。お仕事ばかりじゃ体にさわるもの」

「君に言われては断れません」



やわらかな陽射しに包まれて、穏やかな昼下がり、私は自然と笑顔になっていた。




 

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