鬱蒼と木々の生い茂る山中奥深く、目印に教えられた祠はありました。
ぽつんと、忘れられてしまったように汚れ脆くなった石の傍に立つ千年樹。山全体が黒々とした瘴気に覆われている中、細々と漂う神聖な気を辿るようにして着いた其処。
こちらから呼び掛けようとしたその時、低くも透き通るような、俗世間で言うはすきー≠ネ声色が、そっと語りかけてきたのです。


「なんだ、ただの手弱女(たおやめ)か」


声のする方を見上げれば、太い樹の枝根元に鎮座まします天狗殿が、木々の木の葉に混じるようにして翼を休めながら此方を見下ろしておりました。


「貴方が、麓の村に被害をもたらしている天狗殿ですね」

「被害?それは心外だな。幼子をくだらない大人どもから守って餌を与えてやっているのに」

「人間社会では子と親を引き離しただけで大事になるのです」

「とか言って、今すぐ解放しろ…とは言わないんだな。無理矢理にでも麓に連れ帰るって算段だろう」


一枚、翼からむしり取った羽根を握ると、私に向けてそれを放る天狗殿。矢のように鋭く飛んできたそれは、私の頬すれすれを通りすぎ、髪を何本か浚って行きました。
木陰と長い前髪に隠れて見えない彼の瞳を見据えながら、私は微動だにすることなく彼の反応を待ちます。


「ほう、避けぬか。手弱女とはいえ、この腐臭漂う霊山を登ってきただけはある」

「おなごに突然羽刃を向けるとは、不躾な殿方です」

「ふはっ。生憎女人禁制の近衛一団で育ったからな、おなごの扱い方なぞ分からぬよ」


すると、ぞわりと背筋を這う悪寒。
天狗殿の視線が、私を探るようにぬらぬらとさ迷っているのを感じました。
それはまるで、獲物を値踏みするような。とても心地のよいものとは言えぬ感覚に、私は眉を潜めます。


「お前のような瑞々しいおなごは久々に見たよ。この村の者は、若くとも痩せこけて、とても目の保養にはなりゃしない」

「……飢えを招いたのは、貴方でしょうに」

「あの出来損ないが何やら俺に隠れて事を進めているのには気付いていた。どんな奇天烈な妖怪を連れて参るかと思えば、人間のそれもおなごだ。たまげたね」


かさかさ、木の葉の揺れて掠れる音が響きます。
木陰から僅かに、その歪んだ唇の形が見て取れました。


「霊力はあるようだが…俺に生き餌を捧げて赦しを乞うつもりか?」

「いいえ」

「とはいっても所詮は無力な人の子よ。俺が喰ろうてその短く貧しい生涯を終いにしてやるよ」


彼は嘲笑いました。どちらがいい?と。


「おなご≠ニして傍若無人に喰われるのと、菊の柄を手折るようにその腕をへし折って肉を喰らわれるの。俺は前者の後に後者を希望するけど、言の葉を交わせる人の子の奇特さに免じて選ばせてやろう」


くつくつ、喉の奥で震えるように笑う声が、私の腹の底をも震わせるようでした。
怒りや恐怖などではございません。妖怪は非常に欲望に忠実なもの、寧ろここまで言葉を交わし理性を優先させるものは少のうございますから、驚きはしても不快には思いませんでした。

ですから、私はこう答えました。



「瞳を合わせて、お話しとうございます」



にこり。笑みを添えてそう告げると、ぴたりと笑い声が止み、代わりに周囲の空気の温度が急速に底冷えしていくのを感じました。
まだまだ妖怪を言いくるめるほど彼らとの対話に手慣れていなかった私は、わざと彼らの気に障る物言いをしてみせて、戦闘に持ち込もうという手法を用いていました。本音を言えば無謀だと笑われるでしょうが、私自分の霊力と巫女としての力量には自信があったのでございます。


「……そんな選択肢は与えていない」

「私は対等にお話するつもりでございますから。そのようなお言葉には返す言霊がございません」

「……しわがれた婆じゃなかっただけましかと思えば…お前、自分の命が惜しくないのか?」


再び、羽根の刃が私を襲います。今度は正確に私を狙って向かってくるそれを、護符で跳ね返し言いました。


「お怒りになられたのならば、斬りかかって参ればよいでしょう。戦の手練れなのではございませぬか?それとも、おなごには手は上げられませぬか?」


私がそう言いますと、天狗殿は襲い来るでもなく、翼を閉じて黙り込んでしまいました。


「……お前は、おなごのくせに、なんとも生意気な奴だな」

「ふふ。誉め言葉として受け取っておきます」

「髪を刃に浚われても、悲鳴ひとつ上げやしない。おのこに歯向かうわ、対等だなどとのたまうわ……本当に、人間のおなごか?」


首を傾げられて、私はまたふふふと息を漏らして笑います。


「気になりますか?」

「あぁ、そうだな。お前は、すこし、物珍しい」

「では、話をしましょう?」

「話だと?」

「何事も拳でしか語り合えぬようでは、今後も相互の理解に苦しむでしょう。それに、言の葉を交わす方が楽しゅうございます」

「相互の理解?違うな、俺は捩じ伏せるだけだ。敵も、味方も、弟も、語らうだけの興もないのだから、力で黙らせるのが一番だろう」


烏の濡れ羽のように暗く光る眼が木陰から覗き、私を射抜いて放しません。
彼が、翼を一扇ぎしますと、無数の羽刃が私に向かって降り注ぎます。続いて瞬く間に接近して来た彼自身が、一歩身を引いた私の懐に間合いを詰めたのです。


「お喋りはここまでだ。口問答は、苦手でな」


錫杖の鞘から引き抜いた長刀を振りかぶった天狗殿を見たが最後、私は瞬き─────


そして、告げるのです。



「お座りなさい、虚空」



びたり。天狗殿の動きが止まり、力が抜けるようにして膝から崩れ落ち、彼は地べたに座り込みました。その手からは長刀がこぼれ落ちます。


「なん……だ、」

「言霊縛りでございます。申し訳ございません、こうでもしなければ……、貴方は降りてきて下さらないだろうから」

「虚空、とは、」

「……私は、目を合わせて、貴方と言の葉を交わしたいと申した筈です」


膝をつく彼に視線を合わせるよう屈み、その両頬を手のひらに包み込んで、眼を覗きこみますと───彼の瞳は、困惑と少しの恐怖に、眩んでおりました。


「感じたのです。貴方から……虚ろな空模様のような、彷徨う魂の息吹を」

「何を馬鹿な、」

「山神さまが……教えてくださるのです」


そう告げた私を見て瞠目する天狗殿。揺らぐ瞳を縁取る睫毛が影を作り、長い前髪の影も重なって、深く暗い煌めきを宿しているようでした。



「我が名は羽音緋色。江戸にて巫女を営む、しがない山籠りのおなごです」

「……山神の、声が聞けるのか……?」

「巫女にございます故」

「……俺は……、」


欠けた祠から、優しい霊気が漏れだして、辺りを包んでいきました。


「……俺には、……、名など、ないよ」

「ならば、私がつけて差し上げます」

「嫌だぞ、式の契約なぞ」

「ええ、無理強いは致しません。
ですが、仲良くなるには、お名前がございませんと、やや不便です」



暫く押し黙っていた天狗殿が、顔を上げて今一度言いました。



「撤回しよう」

「はい?」

「巫女よ、俺はお前の式となろう。その方が、ずっと楽しそうだ」


頬に触れていた手を取り、指先を撫ぜながら、彼はそっと目を伏せます。



「こんな山で文字通り腐るより、惚れた女の隣にいるほうが、よっぽどいいに決まってる」



おそらく、彼はこの時点で私に微塵も惚れてなどいなかったに違いありません。
ただ、言い訳にしただけなのでしょう。どうにもならず移ろう自分の行く先を定めるための、切っ掛けの理由に。



「我が名は虚空。今日より、我が主羽音緋色の式に下り、名実共にその御身に捧ぐことを誓わん」



私は、利用されたに過ぎない。それでも、構わないと思っていたのです。
ひとよりも、人でなきものの声が聞こえる、姿が視えるだけの、力を施せない私が、何かを救えるのならば。
それでもいいと、思っていたのです。



***



弟と、和解するのには、それはそれは長い時間がかかった、ように思う。
けれど、違い合っていた時間に比べれば、ずっとずっと、簡単だったような気もした。家族の大切さも、教えてくれたのは緋色だ。絶えた血の繋がりの唯一ならば、尚更と。
ただ遠回りをしていただけなような気もする。そのために、多くの人間を殺めたし、緋色の言うようにどんな供養をしたって、俺の穢れが払われることはきっともう無いのだろう。
巫女のくせに、神の声を聞いても尚、穢れである俺をそばにおくのだと、家族だなどと宣うこのおなごは、やはり初見通り奇特なままだ。

だけど、だからこそ、そんな彼女の傍にいたから、荒んだ俺の心は少しずつ浄化されたのだろうし、ゆとりの出来た心持ちで、愛しき主を想い慕うことだって出来たに違いない。


絶対叶わないと知っていたからこそ、主には変わらないままでいてほしいと願った。
誰かを恋慕う主の姿など、見ていられないと思ったから。その時になってみればこと尚更、取り乱すほどに動揺してみせて、全く滑稽この上ない。

けれど、何よりも感謝しているから。
彼女には、笑顔でいてほしい。

そのためならば、こんな想い、いくらでも擲とう。主の心の拠り所になれるなんて、本望だ。


あの日、話をしようと、俺の心に耳を傾けてくれたこと。
卑屈だった俺を、連れ出してくれたこと。


全部全部、感謝しているから。


緋色のためならば、力を尽くそう。
明日、お前が変わらず笑顔でいてくれること。それさえ叶えば、他は何もいらないから。




 

2/3


≪戻


×
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -