朝靄が立ち込め始めた頃、ずっと外で立ちん坊をしていた俺は無意識に肩を抱いた己の手を見て身体が冷えていることに気が付いた。

未だ罪悪感は消えないし何て顔をして彼女に会えばいいのか分からないが、船上で交わした我が主との言葉を思い出し、固まっていた足を出てきた部屋のある屋敷の方へと踏み出した。


大分冷えている。俺たちもそろそろ船室に戻るぞ

大丈夫ですよ。もう少し…



人の身を案じておきながら己の身を投げ遣りに扱うなど本末転倒、唯でさえ心配性の彼女にあまり迷惑をかけたくない。


───あの時は、あんなこと思っていなかったのに。


緋色が、喜ぶなら。
それで、お前の笑顔が増えるのなら。
それでいいと、心に決めたのに。



ほぅ、と息をひとつ吐いて、扉に手をかけた。
扉の向こうの気配はひとつだけ。不知火がまた晩酌をしながら一夜を明かしたのだろうか。

他の皆は隣に続く寝室で眠っているようだ。
眠くはないが、俺も寝てしまおうか。そうしたら、何事もなかったかのようにまた一日が廻るだろう。


取っ手に手を掛け、扉を開いて部屋の中を見て俺は思わず息を止めた。



「……お帰りなさい、虚空」



そこにいたのは、緋色だった。



「な…おかえり、ってお前…まさかずっと起きて…?」

「二人で、お話したいことがありましたので…貴方が戻るのを、待っていました」

「馬鹿、身体冷やすだろう…!それに不眠は良くない、只でさえ昨夜魂を祓って霊力を消耗しているのに…っ」

「大丈夫です。それよりも虚空、私の話を聞いてくださいまし」



うっすらと隈を作った目を細めた主。
……悩ませて、しまった。

考え込んで、眠れなかったんだろう。

そんな後悔からか思わず俯く俺に、主は思わぬ言葉をかけた。



「虚空。……貴方は、

日本に、お帰りください」

「っ!!?」



俯いていた俺は、衝撃的すぎる言葉に声すら洩らせず、目を見開いて面を上げた。

日本に、帰れ。
…それはつまり、


「……用無し、か…?」

「!」

「俺は、……役立たず、だったのか…?」


お前に、歯向かった、から?


「いいえ。そうではありません」


柔らかく笑む我が主。
優しくて、でもほんの少し、申し訳なさそうに言葉にする。


「虚空は…祖国を、離れたくなかったのだと、思ったのです」

「……ぇ…」

「私を、私の身を案じてくださっていたのは、分かります。ただ、これは私自身の選択。責任は、私にあります。
それなのに、着いてきてくださるという貴方の言葉に、甘えてしまった。主と式という関係であることを理由に、貴方を束縛してしまった…

愛想を尽かしたのなら、そう仰ってくださいまし…我慢せずに、貴方の思うように、行動してほしいのです」

「………」

「故郷を捨てることは、霊山の守り主であった貴方にとってつらかったのではと…

必要ならば、式に配する契約の楔であるその名も、捨てて──」

「っ違う!…違うんだ、緋色…」


主は何を言っているんだ。

愛想を尽かした?
束縛して、無理に連れてきた?

違う、違う、これは、
俺自身の、選択の結果で。

契約の、楔?
そんなふうに思ったことなどないというのに。
お前がくれた、魂にも代わる大切な名を、そんなふうに。


我慢せずに、貴方の思うように


「………ッ」

「…っきゃ!」


ずっと、ずっと。

お前には、勘違いをさせたままで、
それでもいいと、
傍にいられればそれでもいいと、

ずっと、逃げ続けた。


けれど、もうそれもここまでだ。

お前には、伝えなければならない。



胸の内が熱いもので溢れていく。
嗚呼、お前は、こんなにも温かい感触をしていたんだな。

引き離さぬよう、我が最愛の主をこの腕に掻き抱いて、
優しく、強く、精一杯の想いを込めて、抱き締める。

俺の腕のなかに収まる、小さな主。
驚きのあまりなのか、俺を信用し切った上でなのか、一切抵抗をしない。

愛しい気持ちが抑えられない。
ずっと、お前を求める腕を、伸ばしきれないでいたから。

やっと、届いた。


何故こんなことを、と深紅の瞳が俺を見上げている。
怖くないように、なんて微笑んでやれる余裕もなかった。



「あ、あの…虚空───っ」



滲み出る独占欲が、お前を傷付けるくらいなら。
お前の傍にいられなくなるくらいなら。

この想いを、守る必要など、何処にもありはしない。



触れただけの唇。
いつも、淑やかな声音で、俺を呼ぶ唇。
俺に名をくれた、唇。

溢れる思いのままに食らい付けば、噛み千切ってしまいそうで。
そっと押し当てて、触れるだけの接吻を交わした。



「………この先を、」

「……、」

「続けたら、どうなるか。
この行為の意味が何なのか。

いくら箱入り娘のお前でも、分かるだろう?」



想いを抑えたのと一緒に声も無意識に抑えていたのか、かすれた吐息のような声が洩れた。
いまだけは、その深紅に射抜かれることが怖くて。
俺は、彼女を抱きすくめ、その肩口に鼻先を埋めた。







「俺は、お前が好きだ」





ずっと、ずっと。

お前の傍に居たくて、
お前が、大好きで。



「俺は、妬いてただけなんだ。お前を喜ばせられる唯一の人間に」

「………、」

「お前が、柄の悪いやつに引っ掛からないか、心配なんだ…お前は鈍いから」



最初から、成就することなど夢見ていない。
人間と妖怪、主人と式。
彼女の支配下に就いたときから、この想いは叶わずしてこそのものだと思っていた。

俺は、お前が微笑えるように傍にあるだけ。
お前のためなら何処へでも着いていく、何だってしてやれる。


ただ、お前が心配なだけなんだ。


「頼むから。…ほいほいと男に着いていかないでくれ…」

「…、虚空…」

「分かった、だろ?男が本気になれば、簡単にお前など組伏せられる」

「…………」

「お前から離れてしまったら、お前を守れない」


そうっと、抱き締めていた彼女を離す。
泣きそうな顔をして…──いや、泣いていた──…我が主は、俺をじっと見つめた。


「……虚空は、」

「………」

「私を、好きだ…と?」

「……あぁ」

「……そ、の……あまりに、突然すぎて…お答えが、出来ぬのですが……」

「いいんだ。…答えなど、いらない。俺を傍に置いてくれれば」

「しかし…っ」


ほら。

たかが一妖怪の戯言にも、きちんと耳を傾けてくれる。
その思いに応えようとしてくれる。

俺は、そんなお前に惚れたんだ。



「甘えて、しまうやも…」

「いい。寧ろもっと甘えろ」

「……いつしか、貴方を、貴方の想いを、心の逃げ道にしてしまうかも分かりませぬ、」

「俺は、構わない。お前が道を選択するために猶予として必要な選択肢なら、気にせず利用すればいい」

「……っ」

「俺は、お前の式妖怪だから」


涙を、拭いもせず子供のようにぽろぽろ溢れさせている愛しい人の頬を袂で撫でた。
俺は、微笑えていただろうか。お前が変わると決めたあの日も、今この時も。


朝靄が晴れだして、窓から朝日が差し込む。

彼女も俺も、それきり言葉を交わすことはなく。
ソファーに二人並んで座ると、泣き疲れて、俺の肩に頭を預けながら主はそっと眠りについた。


寝坊助な癖に口煩い女狐が起き出してくるまで、先に起きてきた式の者たちと安らかな主の寝顔を静かに見つめていた。



忘れもしない、彼女との出会い。

俺はあの時、初めて人間を信じてみようと思った。


俺が知らぬうちに変わった、あの出逢いの物語を。



***


巫女と雲の出逢い。

これが本当の物語の始まりであった。


長い長い物語。
一先ずここいらで休憩を。

これから話すのは、彼女と彼女の仲間、式妖怪達の出逢いの物語。

紅眼の巫女一行の絆の物語。



 

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