緋色が部屋に戻ってきた。
何故か頬を赤らめていて、そして不自然なほどにニコニコと微笑んでいた。
皆も緋色のその違和感に気づき、クチナシや七華は彼女に駆け寄った。
「緋色、おかえりなさーい」
「熱でもおありなのですか?」
「え?あ、いいえ。熱はありませんよ」
「なんだい、頬に接吻でもされたか?」
「!」
「図星とは…あの若造もやるね」
不知火がほぅと青い煙を吐きながら言う。
冷めようとしていた緋色の頬が再び朱に染まる。
その姿に、無意識に眉間に皺が寄るのを感じた。
「頬に接吻…っ!?」
「あぁ。緋色が寝てるときに雨月と話をしてね、西洋では挨拶として頬に接吻をするんだとさ」
「ほぅ、それで箱入り娘の我が主は赤面しとるのか」
「ほぅ、じゃない!!接吻だぞ接吻!!何をそんなに冷静に…!」
「兄様、落ち着いて」
「これが落ち着いていられるものか我が弟よ!大切な主が今さっき見知ったばかりの男に襲われるかも分からん行いを為されたというのに!!」
「黙れ天狗、騒々しい。緋色様が驚いてらっしゃるぞ」
忌々しい女狐に戒めるようにそう言われ、はっとなって緋色を見やる。
紅の瞳を大きく見せるように見開き、俺を不思議そうに見つめている。
まるで俺の反応だけが異端だとでも言うような周囲の空気。
奥歯を噛み締め唸るように呟いた。
「幾ら挨拶と言えども、初対面の人間に接吻をするのか?西洋人は破廉恥にも程があるな」
「虚空!!貴様口を慎まんか!!」
「んー、まぁ確かに雨月も親しい仲の人間に≠ニは言ってたかもねぇ」
「そら見ろ」
「虚空兄ちゃん、緋色にいじわるしちゃやだよ…?」
「意地悪ではないクチナシ。俺は主の身の安全を考えた上でだな…」
「違い、ます」
ぽつり、響く愛しい主の声。
水に石を投げ入れたときの波紋のように、式妖怪の間の口論は静寂を帯びていく。
「……特別、なのです」
「とく、…べつ?」
「親しい仲のお方との挨拶は、頬に接吻をするものなのだと。…私も、確かに、アラウディ様ご自身から伺いました」
「………」
「私が、見える$l間の方に出逢えたのは貴方が初めてだと、特別だと…そう溢したら、」
「………」
「彼は、」
続けて、だから…と呟く彼女。
俺はそれに被せるようにして大きく声を上げた。
「緋色は!!」
「っ、」
「…緋色は、異性と関わった経験が少ないから。だからそんな呑気なことを言っていられるんだ」
「………」
「男はそんな、そんな生易しい生き物じゃない!優しく接しておきながら後でとって食おうとする輩はその辺にごまんといる!!」
「……、」
「幾ら緋色が信頼を置く人間の仲間だとしても、それがお前にとって有害にならないとは一概に言えないだろう!警戒心が無さすぎるんだ!!」
「………虚空」
「危険でないと、現段階でそう断言できる証拠が何処にある!?そんな奴ではないと、庇う理由が何処に、」
「……虚空っ」
「………、」
「もう、………お止めください…」
「…………」
「その様な、悲しい言霊ばかり、紡がないでくださいまし…っ。
確かに、私は無知かもしれませぬ、けれどもだからこそ私は、」
「……ったんだ」
「……、」
「だから、嫌だったんだ」
「彼処を捨ててまでして、こんな遠い海の果てにやってくるなんて」
思わず口をついて出た言葉。
は、と目を見開いたときにはもう、遅かった。
目の前で、瞠目しているその人。
視線は、俺からふらふらとズレて、力なく俯いた。
主を傷付けてしまう、己の愚かさに、情けなさに、やるせない思いが込み上げて来て息苦しい。
頭冷やしてくる、と小さく残して、俺は足早に部屋を後にした。
***
だから、嫌だったんだ
彼処を捨ててまでして、こんな遠い海の果てにやってくるなんて
「緋色様、あまりお気になさらないでください。あの阿呆は頭が足りないのです、あれもきっと口論の末にポロッと言ってしまっただけに過ぎません」
一番に口を開いたのは、すぐ隣にいた七華だった。
彼を庇っているのではなく私が気に病むことがないよう気遣っている、相変わらずの口調ではあるけれど…優しいこの子は、多少なりとも彼の心配をしているはず。
何故なら、言霊がそう、私に伝えてくるから。
あの言霊も、本心からくるものだと。そう、感じた。
「緋色、こちらに」
ソファーに腰掛ける灯晶が手招きをする。
その隣に腰を下ろすと、ひんやりとした白く細長い指が、私の頭を撫でた。
後ろから腕を回して寄り掛からせるように私を抱くと、もう片手で髪をなぞるようにまた頭を撫でる。
「七華の言う通りじゃ…気にかけすぎてはならぬ。そなたが気負いし心を傷めることほど妾たちにとってつらいことはない」
「はい…」
「大丈夫じゃ、彼奴(あやつ)もそなたを心から心配して言うただけに過ぎぬ…そのうち直ぐに戻って参ろうぞ」
「……有り難う、御座います…灯晶…」
虚空はいつも、優しいから。
こんな風に、喧嘩になったのは初めてだった。
虚空はいつも、私のことを心配して、気遣って…それでいて、守ろうと懸命になってくれていて。
出会ったときの冷酷且つ非道であった彼とは正反対に、酷く優しく変わって。
それなのに、私は変われていない。いや、変わろうとしたことが、彼を傷付けた。
ここに来なければ、誰も傷付けなかった?
私は、やはりずっと、あの霊山の奥でひっそりと生涯を終えるべきだった?
「……っごめんなさい…」
言葉と共に溢れた涙が頬を伝う。
灯晶が私の頭を撫でる感触があまりに優しくあたたかいものだから、涙が止まらなかった。
彼と…アラウディ様と、出会わなければ。
脳裏を過る悲しい言霊。
口にしてはいけない。
霊力の強い私が言葉にしただけで、それは現実味を帯びてしまう。
それでも悲しかった。やりきれない気持ちでいっぱいだった。
誰かを傷付けて私が幸せに浸ってしまったこと。
心配してくれる大切な仲間に、初めて反発してしまったこと。
世の中はうまくいかないことでいっぱいだということ。
窓から覗く月明かり。
今の時刻は寅の刻辺りだろうか。
夜は更けて、朝が近付いてくる。
まだ暗い窓の外をぼんやり見つめて、目を閉じた。
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