暫くして、彼女の温もりが肌に馴染んできた頃。
震えていた肩が段々落ち着いてきて、呼吸も嗚咽を堪えるものから普通の一定のリズムに戻った。
ずっと彼女の頭を撫でていた手をそっと離し、抱きしめる力を緩めると、緋色はゆるりと僕の肩口から頭を上げてほう、と一息つく。
僕はソファーに腰掛けた状態で不自然な高さだったから、膝を折って座り込む彼女の顔を覗けないかと少し背を丸めて屈んでみた。
「……落ち着いた?」
「っ!……その、あ、…有り難う、御座いました…お見苦しい姿をお見せした上、肩を借りるなど…」
「気にしなくていい、僕が勝手にやっただけだから」
視線が交錯する。
涙で揺らめく夕日色の瞳はやはり美しかった、けれど赤く腫れてしまった目元が長い前髪の影から覗いている。
頬を赤らめて俯き加減になりながら礼を述べる彼女は、僕が見た今までの女とは違う見たことのない可愛らしさを持っていた。
…キス、したい。
す、と顔を近付けた。
唇に触れるまで、
あと、少し
「あの、」
目を瞑りながら声を出す彼女に、はっとして我に返る。
僕は何をしようとしてるんだ。
彼女の吐息を間近に感じて、肩が跳ねる。彼女に気付かれないようにす、と体勢を元に戻した。
そろり、と開かれる瞼。覗く夕日色が、自信なさげに僕を見上げた。
…上目遣いなんて、反則だ。
「…なって、頂けませんか…?」
「……、……何に?」
思わず恋人に?と聞き返しかけた僕、とりあえず落ち着け。
普段の僕らしくない、落ち着いて普段通り自分の意思で行動しろ、無意識に手が出たなんて冗談にならない。
高鳴る胸の鼓動、慌ただしく巡る理性という僕との会話。
感情が顔に出にくい性格で良かったと心底感じた。
ぼそぼそと呟くように話す彼女に、もう一度何?と声をかける。
思いきったのかバッと顔を上げた彼女、勢いに任せるようにして声を上げた。
「お、お友達に、です!」
「…………友達、」
「あ、ああああの!!初対面で失礼極まりない発言であることは百も承知しています、ですが、その、やはり、同じ見える人間の方に初めてお会い出来たことですし、お話が通じる方と気軽に会話できる仲になりたいといいますか、えぇと私…お恥ずかしながら人間の方のお友達も少ないもので…」
「……………、」
「ですから、あの、お話…聞いて頂くだけでも構わないので…その…」
「………ははっ、」
「!」
急に饒舌になった彼女に目を丸くしていたら、しょんぼりし始めた。何を言ってるんだこいつは、って顔に見えたのかな。
可愛いな、なんて。まだ出会ってほんの少ししか経ってないのに。
返事の代わりに、頭を撫でてやる。肩を竦めてぎゅうと目を瞑る姿は、さながら小動物のようで。
さらさらと指の隙間から滑り落ちる黒髪に、いとおしさを感じる。
「友達、ね」
「………あの…?」
「なんで僕には様&tけなんだい?」
「それは、……特別、だからです…!」
にっこり、柔らかい笑み。
気付けば僕の唇は、言の葉を紡がず彼女の頬に触れていた。
「………ッ!!?」
「あんまり簡単にそういうこと言ってると、勘違いされるよ」
「え、あの、す、すみませ…え?これ、どういう、」
「…特別、だからね。西洋では親しい仲の人間には頬にキスをして挨拶をするんだ」
「き、き…」
「日本語で接吻」
「………っ」
頬を押さえながら赤面する緋色。
今にも目眩を起こして倒れてしまいそうだ。
すくっと突然立ち上がると、腰を折って頭を下げた。
え?謝ってる?僕のキスそんなに気分悪くさせた?
「よ、宜しくお願い致します…!」
「え…あ、うん」
日本式の、挨拶…かな。
優しく微笑う君。中々に天然だから、モノにするには手強いかも、ね。
でも、君の特別。他の人間には立てない位置に、領域にいる。それが、嬉しくて仕方なかった。
恥ずかしそうにぱたぱたと部屋の出入口である扉まで行くと、ふと思い出したような仕草をして振り返る彼女。
袂から数枚の札を取りだし、僕に手渡す。相変わらず東洋の文字は読みにくい。
「あの、これ。霊魂から守る結界を織り成す札にございます。窓や扉、出入口になる場所に貼って頂ければ、今後先ほどのようなことに見舞われる危険を避けることが出来るかと」
「ふぅん…ねぇ、これってあの妖怪たちも立ち入れなくなるの?」
「ある程度は。霊力を練り込んで貼れば強力なものからも身を守ることが出来ます」
「そう。有り難く使わせてもらうよ」
「えぇ、お力になれたようで何よりです」
では、と再び恭しく頭を垂れて挨拶をしてから部屋を出ていく緋色。
僕は暫く、彼女が出ていったあとの扉を静かに見つめていた。
唇に、そっと触れる。
僕らしくない、な。
でも、何処か心地好いその違和感に、何とも言えない気持ちになって、
言葉のかわりに、そっと微笑んだ。
***
お行儀がよろしくないことを承知の上で、ぺたり、廊下に座り込んだ。
まだ、頬が熱い。
外国の殿方は…、いいえ、きっと性別なんて問わないのでしょう。
こんなにも簡単に、接吻してしまえるのですね…
言葉にならない思い。
あたたかくて、優しく包み込んで下さった。
私の瞳を、夕焼けの色だと。おじじさまと同じように、言って下さった。
とても気難しい方だと伺っていたのですけれど、全くそのようなことはありませんでした。
同じ、見える体質だからこそ、でしょうけれど。
あんなに対等にお話出来た人間の方は、初めてで。
見えることを、当たり前だと、普通だと、そういう感覚で接してくださった方は彼が初めてだった。
ゆっくり、静かに話を聞いてくださった。柔らかく抱いて癒してくださった。
人の温もりに触れたのは、20年ぶりです。
父上、母上と手を繋ぎ、抱かれて霊山を散歩した日々…懐かしゅうございますね。
おんなじ人間で、おんなじように見えて、それで尚且つ、あのように優しく受け入れてくださった。
初めてだった。あたたかかった。
力を抜いたら、いまにも止めた涙が溢れてきてしまいそうで。
ゆっくりと深呼吸をして、やんわり唇を噛んで。袂を握り直し、立ち上がる。
お部屋に戻って、皆といつも通り過ごしていればきっとすぐに泣きそうな気持ちも薄らぎますよね。
ほぅ、と一息ついてから、私はもと来た通路を歩き始めた。
胸の鼓動は暫く治まりそうにありませんけれど。
また、寂しくなったら、お話しに来ても良いでしょうか?
また、優しく笑んで聞き入れてくださるでしょうか?
期待と、安心と、初めての感覚に覚える不安。
くるくる渦巻く感情の中で、何かが突出して私に訴えかけていたことを、私はまだ知りませんでした。
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