「治療を開始しましょう」
懐から、再び細長い半紙を取り出す緋色。
だがどうやら書かれている文字は違うらしい。
少女の左胸…心臓が位置するであろうそこに半紙を置くと、すぅと息を吸い込んで息を止める。
左手を顔の前で構え、右手でいくつもの模様を描き、また何やら呟いている。呪文だろうか。
彼女が模様を描くにつれて、空気中の何かが緋色の左手へ引き寄せられていくのを肌で感じた。
「──………壊」
かい。最後にそう呟くと、大きな音を立てて柏手を打つ。
彼女の手元に集まっていた重苦しい何かが霧散し、消えていく。彼女が今消した空気の重さが、瘴気だろうか。
すると、先程までぴくりともしなかった少女が、大きく息を吸い込んで息をし出した。棟梁天狗が感嘆の声を洩らし、少女の手を取り名を読んだ。
緋色は続けて両手を少女の胸元の半紙の上に翳し小さく呪文を唱えた。同じ言葉を淡々と、何度も繰り返すようにして。
その半紙がぐじゅぐじゅと音を立てて、黒く変色していく。それに比例するようにして少女の肌に血の気が戻っていく。
滅、緋色が最後にそう言うと、真っ黒になった半紙が散り散りになって消えた。途端、少女はかひゅ、と音を立てて息を吸い込み、大きく咳き込み出した。
暫くそうしていると、落ち着いたのかうっすらと瞼を開いていく。
俺とGの目に映った少女の瞳は、人間とは正反対の、黒い眼に白の瞳だった。
「………わた、し……」
「お加減の程は如何でございましょう?」
「………すごく…、楽になったわ…」
「それはそれは良うございました。一応これで呪詛は全て滅しました。今頃犯妖は返った呪詛で苦しんでいることでしょう」
「え…、」
大きな目をぱちくりさせて不安げな表情をする少女。かわって棟梁天狗は娘であるその子を抱き寄せて、恨みがましく呟いた。
「たんと苦しむがいいさ、己の過ちの大きさをとくと味わうがいい…!!」
「とうさま…、」
「それは違いますよ棟梁殿」
「っ!!」
すぅと緋色の目が細められた。
涼しげな目付きから注がれる視線に、体の大きなその妖は怯えるように肩を震わせた。
紅の瞳が、その色彩とは裏腹に冷酷かつ刺々しい視線を彼に浴びせる。
「呪詛をかけたのはかつて貴殿が接客したとある妖怪でございました」
「…だから、なんだと言うのだ…」
「高い報酬に見合わぬボロの家を新築として建てたそうではありませぬか。先方は貴殿の腕を見込んで依頼したにも関わらず、完成した家は以前住んでいたものにも劣る完成度。違う棟梁天狗に依頼したくとも財産は殆どを貴殿に報酬として差し出してしまい、懐は空寸前。今日の命のために使う他余裕などない。以前住んでいた家は再建築の際に取り壊してしまった。そうしてその妖怪は苦い思いをしたのでございます」
「……酷いな…」
「詐欺じゃねぇか」
思わず呟いた俺とGに、棟梁天狗は情けなくも「五月蝿い!!人間の、人間の分際で俺に指図するな!!」と酷く狼狽えた。
緋色は目の色を変えずに続ける。
「がしかし、そこまでは良かったのでございます。先方は己の目利きが悪かったとそこで諦めるに至ったのでございました」
「違うっ!!俺は一流の棟梁天狗だ、他所の素人と一緒にするな!!」
「ですが先日の嵐で家は見事に崩れ去ってしまいます。病弱な奥方は雨風を凌げる家無くして健康でいられる筈もなく、程無くしてお亡くなりになられたのでございました」
「「………」」
「本当の話だよ。あたしはその奥方と知り合いでね。可哀想に、亡骸は窶れていたさ」
不知火が呟く。視線はどことも言えぬ場所へ向いていた。
翡翠の瞳が静かに閉じられる。暗闇にその人を思い描いているのだろうか。
「先方が貴殿に憤怒を抱くのも訳ありません。残ったのは奥方の亡骸とかつて家だった藻屑のみ。騙されてなお寛大だったその御心は、奥方を喪ったことで怨みつらみへと姿を変え、愛する者を失うつらさを貴殿にも味わわせようと呪詛を娘さんにかけるに至ったという訳でございます」
「……因果応報って訳か」
「そ…そんなの、俺の知ったことじゃねぇ!!」
「まだつべこべ申されますか」
「う…、」と歯噛みして、何も言い返せない父と、命を救ってくれた巫女とを見比べて、少女は最後に俯いてしまった。
かたん、何の音かとそちらを見やると、闇が玄関口から覗き込んでいた。
「私の屋敷の建て直しは後日改めて依頼させて頂きます。その代わり、呪詛をかけた先方の妖に無償で立派な家屋を立てて差し上げてくださいませ。そして、奥方の亡骸を納める墓となる庭も」
「…………っ、…わかった、」
「性懲りもなく再びボロの家を建てた場合、私が承知せぬことをよく肝に命じておきますように」
一気に青ざめたあと、こくりと頷いた棟梁天狗に満足そうに漸く微笑むと、緋色は念のため小屋全体に呪詛を跳ね返す結界を張ったあと、丁寧にお辞儀をして小屋を後にした。
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