大好きを数えるのは、案外難しいことだ。


朝陽が風の屋敷に再度住まうようになって、数週間が過ぎた。
父が好きだった長い髪も、中国に戻るなりまたすっかり切ってしまって、見覚えのあるシルエットになった彼女のおかげで、風はまた些細なことで一喜一憂できる日常を手に入れる。


「我も稽古したい」

「道場に来るんですか?あなた、前子どもは苦手って」

「そうだっけ?多分平気。父上も子供が好きだったよ」

「………」


生活を共にするようになったとはいえ、完全に以前と同じに戻ったわけではなかった。
朝陽は未だぼんやりとしか、風との暮らしを思い出せていない。だから些末な問題ではあっても、ちょっとした以前との矛盾が生じることはよくあった。
以前は部屋にこもりきりで、辞典や書物に向き合ってばかりいた彼女だが、よく外出したいとねだるようになった。男嫌いはなんとか克服したらしいが、風は彼女の中で未だに保護者という認識。増えたわがままに困らされたり、頼られて嬉しかったりだ。

そんなある日のことだ。買い出しに二人で出掛けた折、道中で彼女はとある張り紙を見つける。


「打工募集中=c…?」

「あぁ、そういえば此処、寿退社で人が減るって以前聞きましたね」

「コトブキ?」

「おめでたいことがあったんですよ。一般的には入籍や出産ですね」


興味深そうにそのチラシを眺めやる朝陽は、そうっと風の横顔を窺いながら訊ねた。


「生きるのは、金がいるな」

「? そうですね」

「……なぁ、風」

「……なんとなくわかりましたけど。だめですよ、あなた自分の立場を……」

「分かってる!でも、その……」


たくさん、迷惑をかけた。世話になるばかりで、何も返せない自分。
バイパーからの請求書も風が請け負ってしまった。汚れ仕事しか知らない自分では、力にならないかもしれない。
それでも、何かしたかった。彼らが知る朝陽≠ノなれるきっかけが欲しかった。
舞血姫ではない、ただ一人の朝陽になれる、何かを。


「しかし、復讐者との契約であなたには我々のうち誰かが―――」


風はそこで言葉を止めると、口をつぐんで視線をさまよわせた。
顎に手をふれながら、暫し黙考する彼を、うずうずとしながら朝陽は待つ。
ふぅ、と長く息をついた彼はやんわりと頬を緩めて苦笑した。


「そうですね、検討してみましょう」


傍を離れる不安も、誰かに彼女を預けなければならない不甲斐なさも、無知が招く彼女の無謀さに対する憤りも、この際みなすべて飲み下してしまおう。
始めから、想いが通じていたわけではない。だから、むしろ自分は喜んでその願いを叶えるべきだ。
他者を恐怖した彼女が、外界に自ら関わろうとすること。自分の庇護の下でなくとも生きていけるようになること。応援はしても、それを嫌がり、否定し閉じ込めるような権利は、自分にないのだから。

いずれ彼女は独りで生きる。自分はおそらく、最期まで共には居られないだろう。
だから、これでいい。いつかのために、自ら距離を作っておくべきだ。


数日後。風は、朝陽にとある飲茶店を紹介した。
そこは、裏社会から足を洗った店主が経営する店であり、従業員も皆ただのかたぎではない。
そして、その店には彼女が居た。


「あたし、別に面倒なんて見ないからね」

「是、請多關照」

「よろしくしないってば!隨意地請!」


長い黒髪を巻き付け、角のように頭の横に二つでまとめている小顔の美少女は、名を椿未(チュンウェイ)といった。椿未は風と知った仲であり、時には仕事で、時には武道場で顔を合わせたことのある、数少ない彼が認める腕前の持ち主であった。
この店には、彼女のみならず、かつては凄腕と名を馳せた強者が常駐している。いざというときには、総出で朝陽と相対すれば互角かそれ以上。朝陽よりも力のあるものが監視をする、という契約には反しない。


「いくらあたしが住み込みで毎日店にいるからって……」

「お願いします椿未、あなたにしか頼めない仕事なんです」

「……! ふんっ、目の届く範囲だけなんだから」


くすくすと微笑む口元を袖で隠しながら、自分の隣にいる少女を見やる。
するとどうしたことか、彼女は瞠目しひどく動揺していた。中途半端に緩められたくちびるは戦慄いており、椿未を見据えたまま瞳は微動だにしない。


「朝陽?」

「…………そんな、」

「こいつが舞血姫?ただの娘じゃない」

「………杏花(シンファ)……?」
かちこちに固まっていた表情が徐々に歪められていく。真っ青で眉根をきつく寄せ、肩がせり上がる。そうっと彼女の背を落ち着かせるように撫でてやりながら、風は「彼女は椿未ですよ」と安心させる意味で柔らかく笑みを作った。


「椿未……?杏花じゃ、ない……?」

「ええ」

「何を言ってるの?シンファ?誰よそれ」


椿未本人が全く素知らぬ口ぶりでそう言ったことから、朝陽はなんとか納得したように数回こくこくと頷き、そうして足元のある一点を見つめ、か細い息とともに声を漏らした。


「……そう、だ。そうだ、杏花なはずがない。杏花じゃない……」

「……朝陽?杏花とは、」

「杏花は、……あの子は……そう、いるはずがないんだ」


自分に言い聞かせるように繰り返す彼女の様子を、椿未も怪訝そうな目で窺う。
朝陽は重たそうにもたげていた首をのそりと持ち上げて、深く息を吸い込んでからいっそう悲痛な面持ちを浮かべると、両の手のひらで顔を覆い隠してから呟いた。


「杏花は……我の友達。たったひとりの、大切な……そう。でも、でも杏花は……」


我が、殺したんだ



***



彼女は、杏花といった。齢は18。よその研究所で実験台にされていた被験者だった。


零夢は一時期、見世物小屋を経営するにあたって、国内、時には国外にまで足を延ばし、あらゆる研究所や他の見世物小屋から強者を攫い集めた。
集められたものは体の何処かが欠けていたり、醜く変形していたり、また零夢の腕のように異物を取り付けられたりしていた。彼らは零夢の強さを恐れ、そして惹かれた。醜い星のもとに産まれた自らの生、そして自分たちを利用した者や世間に対する彼らの憎悪を、零夢は平穏を代償に手にしたその類稀なる力でもって魅せ、率いた。

杏花は自らの生を恨み、組織に自分を売った両親を憎み、そして組織と、組織の実態が明るみに出ないことへの憤怒を、誰よりも抱え込んだ少女だった。
零夢は、彼女のぎらついた眼差しを気に入り、手元に置いた。

彼女は小顔ですらりと伸びた長身に、美しい容姿をしていた。艶やかな黒髪に潤った杏色の瞳がよく映えた。そして何より、見目の美しさとかけ離れたいびつな頭の双角が、彼女の歪んだ心を具現化したようだった。


「杏花、君は素晴らしいよ。怒りと憎悪、そして秀麗なる美が見事に調和された個体だ。君の生は確かに幸福とはかけ離れたものかもしれない。けれど、俺は君に出会えたことに心から感動しているよ」


杏花は、始めこそ零夢を警戒していたが、彼の傍に在ることを許され、次第に彼に対して心を開くようになった。
暫くして、杏花が零夢に対し恋慕を抱くようになると、彼は彼女を妹≠フ世話役に命じ、自らを遠ざけた。彼女が惚れ込んだのは、愛した人を喪った哀しみと狂気に飲み込まれた男。彼女の想いを汲めるほどの心は、すでになかった。純粋に邪魔だったのだ。

しかしすっかり心を預けてしまった杏花は、主人に頼りにされていると勘違いした。だからこそ、彼がもっとも愛する妹の世話を任されたのだと。杏花は見た目こそ近しい年齢のような彼女に、実の姉のような気持ちで接した。


「朝陽!お仕事お疲れ様!」

「うん」

「わぁ、今日も派手にやったねぇ。お背中流しますよー」

「頼む」


被検体として孤独に生きてきた頃の刺々しさは、もはや彼女にはなかった。愛する主人の命令に従って、愛されている妹の世話に勤しんだ。彼女の世話を通して、主人に尽くせることを幸せに思った。

しかし彼女は、ある日知ってしまう。妹≠ヘ娘≠ナあり、彼らは自分と全く異なる時間軸の中で生きていることを。傷が瞬く間に癒されてしまう肉体や、意のままに操れる血液の異能の秘密も。
そして確信した。彼らは自分と違う生き物だ。とりわけ主人は不老不死、もしや神の現身やもしれない。どんなに尽くしたところで、近づけようはずもない。別格である≠ニ。

それから彼女が狂うまで、長くはかからなかった。魅力的だった彼の強さは、自分が手に入れられようもないはずのもの。信愛は上り詰め狂気に転じる。そして、狂気の矛先は娘≠ナある少女に向けられた。

杏花は主人にどうしても近づきたいと、朝陽と同じように彼の力を分けてもらえるよう頼み込んだ。
零夢は彼女が自分を殺すに至る強者にはなり得ないことを分かっていた。しかし、供物≠ノはちょうどいいと判断したのだ。

当然、様々な実験を繰り返したとはいえ、肉体そのものは並の人間と大して変わらない。
血を注げば命は絶える。だから、彼は杏花に自分の細胞を埋め込んだ。拒絶反応による言い表せぬほどの苦痛の嵐が彼女を襲い、三日三晩彼女は実験室の台に縛られたまま血を吐き、暴れ続けた。

そうして、美しかった飴色をした瞳が薄濁った緑石へと変わった頃。
彼女はぼんやりと遠くを見つめたまま、歪んだ笑顔を浮かべた。


「朝陽はいいなぁ、零夢さまと同じ時間を生きられて」

「そんなことない、我だって父上より早く……」

「せっかく細胞移植までさせてもらったのに、寿命ばっかりは延びるどころか縮んでるし」

「……」

「でも、私朝陽と友達になれて嬉しいよ!」

「友達?」

「そう、友達!」


朝陽の手を取った手のひらは、骨に皮が張り付いたような異形に変わり、ひどく冷たくなっていた。
しかし、その手つきからは想像もつかないほどの握力で、彼女は朝陽の指をへし折りにかかる。


「ねぇ、朝陽。私たち友達でしょう?だからね、教えてほしいの」

「……ッ、杏花……」

「零夢さまは何をしたら喜んでくださるの?何をすれば、また私を褒めてくださるのかしら。何をすれば認めていただけるの?どうしたら、あなたのように愛してもらえるの」

「杏花……!痛い、」

「だってね、もうずっと美しいって言ってくださらないの。まえはあんなに笑顔で褒めてくださったのに。」


彼女はもう、正気を失っていた。

精神的にも肉体的にも長くはもたないであろう彼女を、零夢は予定通り朝陽の舞台の贄とした。相対した彼女は、体の一部が壊死し、腐りとろけており、かつての美しさは微塵も残っていない。


「ネェ、朝陽?ワタシ、キレイ?」

「…………」

「ネ〜エ??零夢サマ、ドコ?朝陽、朝陽〜〜???」


失明しているのか、覚束ない足取りで近づいてくる彼女の声は、ところどころ途切れがちに掠れている。
どんどん人ならぬモノになっていく友の姿に、朝陽は胸を痛めながら、血の刃で彼女の胸を貫いた。痛みを感じなくなっていた杏花は、それでもなお朝陽に手を伸ばし、爪の剥がれた指先で彼女の頬を引っ掻く。

脚を、腕を、何度貫いても、狂気じみた笑い声を上げる、腐臭を纏った肉塊。
やがて声帯が機能しなくなり、呼気とともに血だまりを吐く化け物を、朝陽は見ていられなかった。


朝陽!お仕事お疲れ様!


ひゅう、ひゅう。喉笛がささやかに鳴る舞台上。筋繊維がずたずたに裂かれても、まだ血を求めて動く姿に、かつての彼女の面影はひとつも残っていない。
返り血と涙が混ざり合ったものが頬を滑る落ちるのを感じながら、朝陽は“元杏花だったもの”を、てっぺんから縦真っ二つに両断した。

舞台から滴り落ちるほどの血液が、彼女の足元を濡らす。
ぽろりと、何かが肉塊から転がり落ちて、朝陽のつま先に当たって止まった。

拾い上げたそれは、もうひどくくすんで輝きを亡くした眼球だった。


舞血姫はその日から、人を殺すことに感情を抱けなくなってしまったのだった。



***




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