男は、自分と同じような丈の余りある袖から獣の掌をちらつかせ、それを強く地にぶつけて地割れを起こす。


「早く遠くに逃げるんだ、他のクズマフィアは君でも対処できるだろ」


そうして7人の付け狙う者を退けた我は、森を駆け抜け、山を越え、川を渡り、人里に近き林までやってきた。
道中不意打ちを食らい、銃による右足への重傷を負いながらも、なんとか逃げ延びていた我。朦朧とする意識の中、顔を見られないようにと必死に守ったカフィーヤの代わりに、左袖を引っ掛けて破いてしまった。焼印だけは何者にも見られてはいけないという“あの人”の言いつけを守りながら、足を引きずり裏路地で呼吸を整える。
そうして背後に気配を感じた。一瞬確認したそれは、やはり見世物小屋までやってきた選ばれし者のうちの一人、長く黒い三つ編みを背に垂らした優男だ。

逃げなくちゃ。捕らえられたら、我は牢獄行き。
……どうして?我は何をした?何が悪くて、捕らえられる?

我は、わたしはただ、“あの人”のために、あの人の言うとおりに……


渾身の一蹴りで廃屋を飛び越えたものの、血を流しすぎた我の意識はそこで途絶える。
気が付けば、我は治療を施された状態で、清潔なベッドに寝かされていた。


「気が付いた?貴女、道端で倒れていたのよ」


女が居た。優しい女は、我の包帯を替えようと部屋に入ってきたらしい。
そうして気付く。身に纏っていたはずの衣服も、顔を隠すカフィーヤも剥ぎ取られていたことに。


「何処から逃げてきたの?ずいぶん痩せているし、怪我もひどい……それに、腕が」


その言葉を聞いた刹那、無意識のうちに左手のひらが何かをつぶした。
生温かく鉄臭いそれは、嗅ぎ慣れ、そして日頃より撒き散らせてきたもの。

女は、悲鳴を上げる間もなく我の手のによって頭を潰され死んでいた。


「………」


本当は気づいていた。自分のしてきたことが、悪いことであることも。
それが“あの人”を救うことにはならないだろうことも。

知っていた、でもこれ以外の生き方を知らなかった。だから、怖かったのだ。

女しか住んでいなかった部屋で、我は体を清め、衣服を拝借した。
長く腰まであった髪も、その時切った。腕の焼印も隠れれば、顔も知れていない。服装も変われば、いくらか素性を隠すことが出来るだろう。

これからどうすればいいんだろう。
あの人は、逃げろと言った。逃げたその先の話は、知らない。
でも生きるためには、何かを奪わなければいけない。あの人は言った。
それは時に動物の命であり、誰かしらの宝である金目のものであり、そして時には……人間自身の命であること。
大切なものを奪われたあの人は、奪わずに人は生きていけないよと笑った。
だから我は、寂しそうに夜空を見上げるその人の隣で、ずっと生きていこうと思ったのだ。


朝陽、ほらご覧。星が綺麗だよ


─────あの人の傍に、戻らなければ。

血の足りない、もとより賢くもない頭を鈍らせて出た街。森の奥深き人目につかない見世物小屋で育った我には、往来の忙しなさなど考えにも及ばなかった。
霞む視界で最後に見たのは、真っ赤に染まる空の色。噎ぶほど吸い込んだ埃っぽい砂煙の匂い。音はだいぶ前から意識していなかった。


「馬車が人に突っ込んだぞーッ!!!!」



***




閃光が迸るような衝撃だった。


「ぜんぶ、思い出したようだね」


嬉しそうに微笑むその人が、ずっと被っていたローブのフードを外し、久方ぶりに顔を見せた。
三弁花に似た頬の印、同じ紋様を宿した黄金色の瞳。白金の長髪を後ろで一括りにしたその人こそ、自分がずっと戻りたいと思っていた“居場所”そのものだった。


「……我は、今まで何を……」


我の傷を手当てした女を殺め、簡単に身支度を済ませて、街に下りた後、馬車に撥ねられて……
それ以降の記憶が全くない。


「朝陽、俺の大事な舞姫。もう何も心配することはないよ、よく帰ってきてくれたね」


その人は獣の剛腕で我を捻り潰すことの無いように、そうっと抱き寄せた。
小屋から逃げ出したあの日以来、何も変わっていない……────何も“変わることのない”彼の懐かしい温もりに触れて、我は静かに瞼を閉じた。


「我回來了(ただいま)、 父上」



──────…………
────────…………



時はやや遡り、朝陽が風の屋敷を出た翌日の昼のこと。


「冗談は時と場合を選んで口にしてください!」

「お前こそジョークの種類は選ぶべきではないのか、風。私はあくまで事実にのっとった計算結果を教えてやったまでのこと」


朝陽が行方不明になったことを知って集まった他5人の精鋭たちが見守る中、風は珍しく声を荒げ立ち上がっていた。対するヴェルデに向けられた気迫は、今にも屋敷を損壊させてしまいそうなほどである。
各々が厳しい面持ちで黙り込むのを見渡して、風はさらに呼吸を詰まらせた。


「朝陽が、朝陽が舞血姫だなんて……ッ」

「……風。てめぇは知ってやがっただろうが」

「!」

「今更グダグダ言ってんじゃねぇぞ」


リボーンの鋭い眼光が風を捉える。何故、と焦りが脳内を駆け巡った。


「ヴェルデの計算を当てにするまでもねぇ。オレたちが舞血姫を追う選ばれし7人だと知って、アイツは突然逃走したんだ……その事実だけでいい」

「風……本当は知っていたんでしょう?星が教えてくれたわ……あなたの傍に、暗い影があること、そしていずれ──朝陽ちゃんが遠ざかって行ってしまうこと」


ルーチェがひどくつらそうに声を漏らす。ラルは突き放すような言葉を口にしながらも、組んだ腕の中で強く握り拳を作った。


「逃亡したってことは、失っていた記憶とやらも取り戻したんだろうね」


記憶さえ戻れば、あの子は自分の意思で俺のもとへ帰ってくる


バイパーの言葉を聞いて、零夢に告げられたことをふと思い出す。風は固く握りしめたせいで白くなっている拳をほどきながら、細く息を吐いた。


「皆さんに協力していただきたいことがあります」

「なんだよ改まって?何かいい作戦でもあるってのか?」

「……ええ。その前にはまず、すべてお話せねばなりませんね」


風は話した。森で鬼獣の零夢に出会ったこと。言葉をいくつか交わしたこと。
朝陽の腕にあった焼印が、零夢の頬の印と同じだったこと────


「よって、彼女は今現在、零夢と行動を共にしている可能性が高いと思われます」

「つってもなぁ、零夢だって捕獲困難な神出鬼没の犯罪者だろ?そんな奴と一緒じゃあ……」

「いや、いくらか推測が出来る」


困ったように後ろ頭を掻くスカルの声を遮るようにして、ずっと黙り込んでいたヴェルデが再度口を開いた。


「しかし、いいのか?再会したところで、朝陽がお前を認識する可能性は限りなく0に近い」

「!」

「私は医学は専門外だが、いつだったか聞いたことがあってね。架空の物語のように、記憶が都合よく消えたり戻ったりするわけがない。本来失われた記憶は滅多に戻ることはないし、記憶を喪失していた期間の出来事は、記憶が戻った瞬間に脳がまるで無かったことにしてしまうらしい」


つまり、ただの殺人犯“舞血姫”となった彼女を救う手立てはない。
捕獲されれば、永遠に復讐者の牢獄で責め苦を受け続ける。


「……舞血姫として生きてきた彼女も、私の知る朝陽の一部です。私のことを覚えていなくとも。そして……できることなら、救ってやりたい」

「しかし、」

「あの子の奇想天外ぶりには慣れたものです。対策なんて、会ってからでないと思いつきませんよ」


そう薄く微笑みを浮かべた風に、リボーンはボルサリーノを目深にした。


「おいヴェルデ、とっとと奴らの潜伏先を絞り込め。たった一人の小娘相手に、俺たちは時間をかけすぎた」



***


ぬばたまの月が、細く道を照らし出す夜分遅く、二人は舞台に立っていた。

もとより、この見世物小屋の主は零夢だった。
此処は彼の夢を叶えるために用意された、儀式の間。朝陽はそこで、毎日のように血を捧げ舞った。


「俺の願いを叶えてくれる希望の星は、君だって信じてるからね」


獣の手は、頬を撫でるたび爪が引っかからぬようにと繊細に動く。
抱きしめてくれる父の腕が人のものでなくとも、愛情は伝わった。


「ねぇ、朝陽。また髪を伸ばしておくれよ」

「………」

「ふふ。こうして見ると、2年前よりももっと似てきたねぇ」


彼は、愛娘に亡き妻の……鈴の面影を見ていた。
朝陽を娘として愛しながら、鈴の姿を重ね、寂しさを凌いでいた。


「あと何年したら、俺は君に会えるかな。あとどれくらい待てば、俺は……」

「………“零夢、怖がらないで。わたしが一緒にいるわ”」


心が死んでいたのは、記憶が欠落していたからではなかった。
父の傍で、時には母の、またある時には娘である自分を演じ分けながら生きてきた。
そうしなければ父はもっと早くに壊れていただろう。自分は、父を現実に繋ぐ最後の楔だった。
けれど、その楔も最早腐り綻びはじめている。いずれ父は自分を、母として扱うだろう。その前に、自身の自我が崩壊してしまうかもしれない。

それでも良かった。自分の存在意義は、父のために在ることと信じてきたから。
そして今、自分は 父の願いを叶えるため……最後に奴らを倒さなければならない。


「朝陽。迎えに来ましたよ」


舞台で衣装を纏い待つ朝陽の前に、選ばれし7人のうち風、リボーン、ラル、スカルが現れた。
優男の呼びかけに、朝陽は不快感を露わにした目つきで睨めつける。


「何故名を知っている。我は舞血姫」

「おーおー、記憶は失っても男嫌いは健在か」


拳銃でボルサリーノを少し上げたリボーンにからかわれ、風はやや気分を害したように眉をひそめた。
ラルはショットガンを朝陽の隣に立つ零夢へと向ける。


「貴様が鬼獣の零夢だな」

「ご名答。やぁ、ずいぶんな美人もいたもんだね、舞血姫の生贄に相応しい」


ぞっとするほど底抜けに明るい声色で語りかける零夢の言葉に、ラルは小屋中に広がる血の匂いに顔を歪めながらその言葉には返さず、新しく質問を投げる。


「此処で貴様らは、血の禊ぎなどとのたまっては裏社会の人間を殺し、カルト教団を寄せ集め勢力にしていたんだな」

「物騒な言い方はやめてよ、ただの生活資金繰りさ。スラム上がりじゃどこも雇ってくれないし、第一ロクな給料も出ない。家族を養うにもこの手じゃあねぇ……最初は貴方たちみたいに殺し屋稼業で十分だったんだけど、目的が変わったのさ」


白装束にきらびやかな髪飾りで着飾った美しい少女を小屋の入り口から見下ろして、風はまぶしそうに目を細めた。屋内は薄暗がり、舞台を照らす照明も何処か頼りない。
彼女が一歩踏み出そうとするのを引き留めた零夢が、不敵に微笑った。


「そうだねぇ。理論上、貴方たちが最後のお客さんだ。ぜんぶ話してからでも悪くない……そうだろ、朝陽?」

「……父上が、そう望むなら」


朝陽の父、という言葉に一同衝撃が走る。無線から各々の配置で話を聞いていたバイバー、ヴェルデ、ルーチェも息をのむ。ヴェルデはバイパーの手により忍ばせておいた隠しカメラの映像をモニターで確認するが、朝陽と零夢の見てくれは言われれば若干似ているように感じても、年齢差があるようには思えない。


「びっくりするだろうね。大方俺と朝陽は同じ小屋育ちの幼馴染とか、そんなふうに誤解されていたんだろうけど。生憎しっかり血の繋がった親子さ」

「どういうことだ……」

「そうだね、何処から話せばいいかな……簡略化するにも、元が長く壮大な話なんだ。例えば、俺のこの手にも関係するわけなんだけど」


零夢は引きずりそうなほど長い袖口から獣の掌を覗かせて言った。


「俺の父は、かの偉大なるこの国の始皇帝、秦王なんだ」




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