黒い帽子の影からきらりと我を見据えたその切れ長の瞳に、ぞくりと背筋が粟立った。 リボー、ンが、怖かったのとは、少し違ったんだ。 殺気のような、それが我に向けられた途端に、 好奇心のような、胸の奥から溢れてくる感情に、自分に。 怖くなった。 まるで、 風と手合わせしたときみたい。 ワクワク、して。 そんな自分が怖くなった。 だから、逃げ出した。 知らない、知らない。 我は誰なんだ。何なんだ。 初めて、自分を知りたくないと思った。 肆:恐懼之心 がさがさ、がさがさ。 擦れる葉の音。それだけが聴覚を刺激し支配する。 この近辺の森なら、何度も世話になったから馴染みがある。どちらへ行けば川に着くのか、何処へ行けば食べられる果実の実る木があるのか。 小鳥の巣がある場所も野兎の穴蔵も、鹿の親子が寝転んで日向ぼっこをする木漏れ日の下も、全部分かる。 逃げなきゃ。 逃げなきゃ、いけない。 本能に任せるがまま、午後の陽射しを浴びて柔らかく光る木々の狭間を疾走する。 逃げなきゃ。それは、かつて男という存在に脅かされたという旅中での記憶からくる感情なのか、それとも… 「!(……足音、)」 突如聞こえてきた、辺りを探るように慎重に進む足音が聞こえて脳裏を掠めた思考を振り払う。 近い。このままじゃ、見つかる。我は地面を一蹴りして付近で一番背の高い木の太めの幹に飛び乗った。かさり、僅かにも木の葉の音が鼓膜を擽る。 「朝陽…?」 身を固め、呼吸も少なく浅くし極力無音に近付ける。 かさり。朱の中国服が姿を現す。 「……朝陽…?いないんですか…?」 思わず耳を塞ぎたくなった。 ひくり、気道を通り抜ける吸気が音にならない音を立てる。 風、どうしたの。 いつもの風は、そんな弱々しい声で我を呼ばないよ。 どうして、 そんな、息が詰まるような声で、我を呼ぶの。 風は、 今我が見つからなくて、 悲しい=H それとも、 寂しい=H 心というものをまだよく理解できていない我には、風の気持ちなんて分からない。 だけど、木の葉の隙間から見えた風の顔はやや俯き気味で我には窺い知ることは出来なかった。 よく見れば、服の所々に葉がついている。 いつもは綺麗に纏められている髪も、ややボサボサだ。 こんな風、初めて見た。 そのまま風は、ふいと姿を消した。さくさく、足音が遠ざかっていく。 我は、小さく嘆息した。 暫く、幹に寄り掛かりながら体育座りをして様子を見る。 くるる、と腹がささやかに鳴く。そういえば昼食はまだだった。 辺りにそれらしき気配がないことを確認してから、木を飛び降りる。着地時に受け身を取ることでなるべく物音を立てないよう配慮する。 「(確か、少し南に行った方に果実の生る木があった)」 今思うと、空腹を埋めるために居間へ出たのだった。結局何も食べないまま、逃げてきてしまったけれど。 まぁいいか、荷物も全部部屋に置いてきてしまったけれど、様子を見て取りに行こう。…いや、もうあそこを訪れるのはやめておいた方がいいかな。この際旅をもう一度始めるのも悪くないか、気が付いたとき我は何も持っていなかった。そして旅を続けて、それでも我は生きている。何もなしに旅を始めてもなんとかなるだろう。 漆黒の革のブーツの底が、若草を踏み締めていく。 ざくざく、ざくざく。久しぶりに聞いたその自然的な音に耳を傾けながら、周囲を見渡して目印になる鳥の巣があった大木を探す。 「………、……あ…」 大木は見付かった。大きく開いた虚もある。中には小枝や枯れ草で作られた巣も残っていた。 だけれど、ついこの間までいたはずの雛も親鳥も、居なくなってしまっていた。巣立ったのかな、そう思ったけど、付近に異様に散らばる羽根や血痕を見て、 「鳥……捕食…」 この辺りに猛獣などいただろうか。少なくとも、鳥を襲うような、肉食の。 遠方から飛んできた鷹だろうか。それとも、付近に生息する野良猫だろうか。 ふいと辺りを見回してみる。するとすぐ近くの地面がぼこりと抉れていた。なんだろう、これは。 近付いて観察をする。まるで大砲でも撃ち込まれて爆破の衝撃で地面が吹き飛んだかのようだ。けれど微かに5本の縦線が見てとれる。…爪痕? こんな大きな…、熊だろうか。いや、このあたりは本当に静かで弱い動物しかいないはず。 しゃがみこんで爪痕を指先でなぞってみた。木の枝で地面に字を書くよりも浅いその痕に違和感を覚える。 なんだろう、これは。 カサリ、 「っ!」 木の葉の掠れる音。そちらを大きく振り返る。風が来たのかな、それとも。 どちらにせよ今は逃げるのが最優先。我は地を蹴り後方に跳躍したあと、大きく跳び上がって宙返り、そのまま目前にあった大木の上方へ飛び乗った。 カサリ、 気配は近付いてきている。 息を潜めて姿が見えるのを待つ。 カサリ。 このあたりで我は気付いた。 ───……風ではない。 纏う雰囲気も気配の質も違う。だけど、動物のそれとも言い難い。 誰だ、何がそこに、 カサリ。 「やぁ」 聞いたことのない、若い男の声。 体が、硬直した。息が詰まる。 「そこに、居るんだろ?出ておいでよ」 男だ。 だけど、違う。 男だけど、何か違う。 風でもリボーン、でも…ない。 我の知る男じゃない。 だけど、茂みから突然現れたそいつは、我のいる大木の根本までやってきて見上げてくる。かちり、視線が交錯する。隠れていたのに、あっさりとバレた。何故? 「久しぶり過ぎて俺のこと忘れたかい? ────………朝陽」 「ッ!!!?」 嘘、だ。 何故、どうして? 「我を…知って、いる…?」 「はは、何を言ってるんだい?まさか本当に忘れちゃったの?」 「き…っ、貴様、何者!?名乗れ、どうして我を…っ!!」 「………どうやら、俺が目を離した隙にちょっとトラブルがあったようだね」 男はフードを深く被っていた。我のそれよりもずっと長い袖丈の中国服に身を包んでいて、指先すら袖から覗かない。 フードからはみ出た金糸のような髪がふわりと揺れる。男が俯くとそれすらも見えなくなった。 「…朝陽、おいで。話をしようか」 カサリ、カサリ。 茂みへと姿を消しかける男の後ろ姿にハッとして、我は直接後ろをついていかず木々を飛び移るようにして男を追っていった。 もしかしたら、この男が、 我の記憶に欠片として存在していた人間、なのかもしれない。 朝陽、ほらご覧。星が綺麗だよ 記憶の片隅に残る断片。 きらきらと瞬く星空を一緒に見上げたのは、 貴方? [前] [次] back |