サーシェ


ふと、呼ぶ声が聞こえた気がして、振り向いたところでそこにあるのは、雑多に物の散らかった独り暮らしの部屋だけだった。


すこし鈍ったんじゃないの?


次の日、生徒を帰したあとの訓練所で銃撃の練習をしていた時に、銃声に紛れながらもからかうような声がした。
あたりを見回しても、やはり誰もそれらしきひとはいない。


サーシェ、ねぇサーシェ


そんな声が耳に慣れ始めた頃、私はもう、誰?と問い返すことをしなくなった。


また寝るの?


声を聞くたびに、安らぎと胸の痛みを感じるものだから、私はいつからか耳を塞ぐようになった。


ねぇ、どこか悪いの?


そのうち、声は一人きりのときだけでなく、同僚や生徒と一緒にいるときにも聞こえるようになった。
顔色を悪くする私を周囲は心配するけど、声は相変わらず私にしか聞こえていないらしい。私の身を案じる声は、それでいてどこか、申し訳なさそうに響いた。


サーシェ


もう、そろそろ気付いていた。
それが、誰の声なのか。


分かってしまったら、その事実を納得せざるを得ないのが嫌で、認めたくなくて、ただ勝手に聞こえないふりを続けた。


サーシェ、ごめん


謝らないでよ。
私だけ生きてるのが、ばかばかしくなるじゃない。



***



優しくて、あたたかい夢を見た。

目が覚めたら、何もかもを失った気分でめまいがした。


うなされてたけど、水でも飲んだほうがいいんじゃない?


嗚呼、ほら、またこの声だ。
君のせいでうなされているって、まだ分かっていないのかな。
言われるまでもない、と起き出して、冷蔵庫のボトルから直接水を飲んだ。開けっ放しの扉から冷気を受けて涼んでいると、お節介な声がまた飛んでくる。

まだ窓の外は真っ暗、月も高いところから見下ろしてる。時計を見れば、漸く丑三つ時を回ったところだった。


「……もう、やめてよ」


掠れた声が漏れ出した。私のものだった。
窓ガラスに写る私のすこし後ろに、月光のような透き通ったブロンドが霧のようにぼんやりそこに見えた気がして、思わずしゃくりあげて嗚咽をこぼす。


今夜は、綺麗な満月だ。



「結局、嘘をついたんでしょ」

嘘じゃない

「だっておかしいじゃない」

なにが

「見えないし触れもしないなんて、そんなの、そんなのって、」


知ってたよ。
君が、あの日の約束を守ろうとずっと傍にいてくれてること。
でも、だめだったんでしょう。君はもう、


…………ごめん


そんなしおらしい彼の声は、聞いたことがなかった。
胸をえぐるような謝罪なんて、欲しくなかったよ。

生きていてくれたら、それだけでも良かったのに。
もしかしたら生きているんじゃって、夢見ることができるだけで、良かったのに。


それだけで、良かったのに。


「ダリルくんの、うそつき」



ひとり踞って泣きじゃくる私の傍に、誰かが一緒になってずうっと座り込んでいた。



***



あの日から、もう声は聞こえなくなった。
時折不意に声を聞きたくなって、ねぇと声をかけてみても、もう何も返ってはこなかった。


もう声は聞こえないというのに、ずっとずっと、胸が痛んで仕方なかった。








もう、君はどこにもいない。





もしもダリルくんが処刑されてしまっていたら。

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