「5月23日は、ラブレターの日なんだって!」
授業に使った資料をまとめ、生徒の居なくなった射撃場の戸締まりをしていると、そんな女の子たちの囁き声が耳に入ってきた。
「5月23日でこいぶみ、恋文だからなんだって」
「へぇ〜」
「あと、キスの日でもあるんだよ」
「すごいね、5月23日って恋の日なんだね」
この機会に告白しようかなぁ、なんて冗談めいた可愛らしい弾んだ声が、廊下の向こうに消えていく。
そっか、もう5月も終わりに差し掛かってるんだ。時間が経つのって、本当にあっという間だなぁ。
ダリルくんと離ればなれになって、私が一人きりで社会に出て、1年と少し。
同僚のエリック先生やリリア先生とも打ち解けてきて、ようやっと距離感が掴めるようになってきた。生徒達にもそれなりの信頼を持ってもらえるようになったかな、なんて感じ始めたりして。
日常が落ち着き始めたこの頃は、帰りがてら書店に寄って雑誌やら本やらを買って、世間の知識を多く取り入れようと頑張っているところだ。
中でも、子供向けの絵本は、取り分け好きで買ったりする。私が幼かった頃には、読む機会なんてほとんどなかったし、嘘界さんに買い与えられたものは本当に少しだけだったから、馴染みはなかった。
そんな中私が感じた疑問。大昔の震災やトルネード被害を教え伝える絵本はあるのに、なぜだろう、トライロストについての絵本は1冊として店頭に並ばない。
出版業界でタブー化されているのか、もしかしたら比喩的に表現されているのかも、という絵本くらいしか見当たらず、明確な事実を後世に伝えるお話が見当たらない。
後々このパンデミックは忘れ去られてしまうのかな。
祈念碑は遺されても、教科書には薄っぺらな被害の大きさしか載らなくなってしまうのだろう。
大切な人達が、全身全霊をかけて行った救助活動も、葬儀社とGHQが世界を相手取って戦いを繰り広げていたことも。何もかも、政界の闇に葬られようとしている。
そんなの嫌だなぁ。私の胸の内には、確かに痛みとしてあの頃のことが残っているのに。
そんな中にだって、私を変えてくれた優しいひとたちがいたのに。
忘れられて、なかったことになってしまうのは、いやだなぁ。
「おっ、サーシェ先生も買い物ですかぁ?」
吃驚して、肩を跳ねさせる。声のした方を見やると、そこにはエリック先生がいた。
「……はい」
「ふぅん、絵本?親戚の子にでもあげるんですか?」
「あぁ、いや……気にしないでください」
「まさか子供出来たとか!!?」
「違いますけど……」
いつも快活で明るい彼はからりと笑って、「ですよねー」なんて言いながら手元の雑誌を弄ぶ。
帰り道の書店で鉢合わせするとは思っていなかった、彼はあんまり書物を読みそうにないから。
親戚の子、なんて私にいるわけがないのに。エリック先生だって、私が戦場で死神と呼ばれていた孤児であることを知っているはずなんだ。
私を普通の人と同じように見ていることをアピールする、ブラックジョーク。
「先生はどんな本とかお読みになるんです?」
「え?」
「やっぱ恋愛モノとかですか?ファンタジーとかも好きそうだなぁ」
「………ファンタジー……、」
「あっ、だったらこれオススメですよ!近未来SFだけど!」
そう言いながら手近にあったハードカバーの小説を手渡された。最近売れているらしいそれは販促コーナーに積み上がっていた。
「これ、結構サクサク読めて退屈しないんで、面白いですよ」
「……アルバの手紙=c…」
手紙。多分、ラブレターの日にちなんで売り込まれてるんだろうことは容易に想像できた。
主人公の祖先アルバが遺した恋文が、主人公の生きる未来世界で重要なキーになり、主人公はアクションを駆使しながら手紙を片手に謎を解いていく、そんな主旨のお話だった。
「ラブレターの日、だからですか」
「え?あぁ、そうですね。ただの語呂合わせみたいな日ですけど、そういや生徒も騒いでたかなぁ」
「エリック先生は、書きますか?」
「えぇっ?……ハハッ、柄じゃないですねー手紙は」
ぽりぽりと頬を掻きながら困ったように笑うエリック先生。それから、でも、なんて小さな声で呟く。
「届かない相手とかに、密かに綴るってスタンスは嫌いじゃないです」
「………、」
「なーんつってね!こんな男が乙女思考って気持ち悪いですよね、聞かなかったことにしてください!」
「………いえ、素敵だと思います」
誰かを想って、形に残す。もしかしたら、そんな相手が彼にもいたのかもしれない。軍人学校で教員をするくらいだし、色々経験もしてきたことだろう。
想うだけで、色褪せてしまうなんて寂しい。届くか分からなくても、それだけ想っていたという形に残すことは、素敵だと思う。
ゆるりと唇で弧を描いた私。手渡された本を抱きしめた。
「ありがとうございます」
「え?あ、はい」
「これ、読んでみますね」
手紙。私が生まれて初めて書いたのは、願い事だった。
キャンディーの包み紙に、汚い字で書き綴ったそれ。彼らに届いただろうか。ダリルくんに渡したものは、どうしてか私の手元に帰ってきてしまったけど。
もう一度、書いてみようかなぁ。
手にした本と一緒に、便箋を重ねたまま私は会計を済ませた。
未来でもどうかそのままの君で木々の色が移り変わっていき、何度と葉を落としては花を咲かせ、そうして迎えた2044年。
私の髪はすっかり伸びて、骨と筋肉、皮だけだった身体も少しふくよかになった。それでも、まだまだ同僚には食生活を心配される。
作家と教師の仕事を両立させてから、どれくらいの月日が流れただろうか。3年目くらい、かなぁ。
思いを形に残す。そんな気持ちで綴ったお話が、世間で大反響を受けることになろうとは、考えもしていなかったのだけど。
あの事件があったことを記述に残すのは、簡単だ。甚大な被害、解明できない感染症への恐怖。哀しみ、悼みの感情は、誰しもが後世に伝えるべきだと、表立って発表せずとも必ず探せば形に残っている。
だけど私は、事件そのものよりも、そこにいた優しい人達の姿を、忘れたくなかった。確かにつらくて、苦しくて、大変な思いもたくさんしたけれど、そんな中であたたかい気持ちを忘れずにいた人達がいたことを、他の人にも知ってほしかった。
事件のことも、大事だと思う。だけど私にとっては、事件があったことよりも、彼らと過ごした合間の日常の方が大切だと思えたから。
忘れたくなかった。刻み付けておきたかった。彼らが私にしてくれた数々の優しさも、私が彼らを大切に思っていたことも。
全部終わったなんて、楽観視は出来ない。まだまだ復興途中の地域もあるし、何より事件が人々の心に残した深い深い傷痕は、これから先もずっと残り続ける。
私の知る優しさを綴ったお話で、その人たちの心を癒せたなら。痛みを忘れさせてあげるなんて、大層なことは出来ないけれど。誰か一人でも多く、あたたかい気持ちにさせてあげられたらいい。
私にその切っ掛けをくれたあの本は、彼の言葉は、今でも大事に仕舞い込んである。
ピンポーン、アパートの安っぽいドアチャイムが鳴り響く。
誰が来るかなんて分かってる、ドア一枚隔てた場所にいるのももどかしくて、小走りで玄関に行きノブに手をかけた。
「いらっしゃい、」
「走んなくていいから。ケーキ買ってきたけど、食べる?」
「食べる!」
5年前とはやっぱり背丈も面立ちも雰囲気も変わった、大好きで一番大切な彼がそこに立っていた。秋特有の枯れ葉の匂いが、風に乗って部屋の中にふうわりと漂ってくる。
夏の終わりに再会して、まだ少ししか経っていないけれど、私達の間の距離感は、昔に比べてずっと縮まっているような気がしてる。
一線を越えるのが怖くて、隣にいながら深入り出来なかったあの頃。互いを仮初めの信頼で縛り付けて、傷付けあって、それでも思い続けていた、あの頃。
友達でも仲間でもない、家族になるための第一歩、恋人ってやつはどうにも幸せで、一瞬一瞬が愛しくてたまらなくなる。
週に一度、彼が大学もアルバイトもなくて、私も週休の木曜日、彼は私のアパートを訪れてくれる。
来てもらいっぱなしなのは気が引けるから、と言っても彼は首を縦に振らない。なんでも、彼は観察保護者である政府からの派遣さんと一緒に暮らしているそうで、部屋には呼びたくないし、そっちの方に遊びにいって大学の友達にバレるのも嫌なんだそうだ。
自由なようで不自由なところも、柵から解き放たれて、彼だけを見つめて想っていられるだけで十分満足だなんて、私も乙女思考とやらになったものだ。
「秋果実のタルトと、フランボワーズムースのクラシックショコラどっちがいい?」
「半分こがいい」
「はいはい、言うと思った」
呆れながらも笑ってくれる彼が隣にいる、それだけでも、しあわせ。
度々昔のような口喧嘩だってする、だけど小突きあってるうちに私がへらりと笑ってしまうから、戦意喪失した彼もやれやれなんてため息をついて笑ってしまうのだ。
「今日はー……」
「また読むの?」
「ん、これにする」
私の書棚から、私の書いた小説を抜き出して、やんわりと微笑う彼が頷いた。
彼は私の部屋に来る度、こうして私の本を読む。同居人の関係で買いに行けないんだって。全然、読んでくれるだけで構わないのに。変に律儀なとこは変わらない。
「えぇ?これ、あのちんちくりんだろ!」
「あ、よく分かったね」
「こいつこんなに可愛くないし、サーシェ脚色しすぎじゃない?」
「そうかなぁ」
彼と一緒に本を覗き込んで、肩を竦めながら読み返す。触れ合う肩に、胸がどきりとするのも、何回目だろう。
ふと視線を書棚に向けた。すると、
「あっ」
「何?」
「あっ、あー、なんでもないっ」
「ん?なんだよ、これ」
「あーっ!」
書棚の裏に隠しておいた、あのハードカバーがちらりと姿を見せている。此処のところ頻繁に書棚から本を出し入れしていたから、ずれてきて出てしまったのかもしれない。
私が慌てて取りに行こうとすると、書棚に近かった彼がひょいと本を抜き出してしまった。
「アルバの手紙?こんな本持ってたっけ?」
「かっ返して!」
「なんだよ、そんな必死になるほどのことないだろ」
「だめ、返してーっ」
「……そう言われると返したくなくなる」
「ダリルくん意地悪!」
彼にのし掛かるようにして腕を伸ばすも、大人になって私より身長の伸びた彼のリーチに敵うはずもなく。
私から逃れるように本を揺らしていると、ぱさり、1つの封筒がカバーの隙間から滑り落ちた。
「あぁっ!」
「何、これ。手紙?」
「だめ、読まないで!」
「ふぅん」
「読まないで!」
大人になって、彼は少し意地悪になったらしい。
透かさず私より先に封筒を拾い上げて、楽しそうに封を切り始めた。まだまだ諦めず手を伸ばす私に、タルトの天辺の巨峰をフォークに刺して向けてくるものだから、ついぱくりと頬張ってしまった。もぐもぐ咀嚼している間に手紙を広げられ、私は観念したように項垂れる。
「は……はずかしいから、いやだったのに」
読み終えた後、彼は頬を淡く染めながら、同じく顔を赤くしている私のことを正面から抱きしめた。
「ばかじゃないの、」
触れた唇の熱が、いまだけ言葉なんていらない、と教えてくれた。
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