私には、好きなひとがいます。
花にもなれない
何のへんてつもない、一般家庭に生まれた学生の私。
大学は何処がいいかな、なんて友達と特に真剣みも帯びることなく軽口で話せるような、そんな年頃。
まだ将来にたくさんの可能性が見えて、何もかもがきらきらして見える、そんな毎日の中で、ある日私は王子様に出会った。
友達は学校で好きなひとを見つけて、ある人は誰々と付き合っただの、誰々が別れたから狙い目だの、そんな話ばかりで盛り上がる放課後の昼下がり。
周りが肉食なぶん同い年の男の子にはときめかないし、4つ上のお兄ちゃんがいるせいで1つ2つ年上の先輩にもきゅんとこない。ドキドキトキメキ学園ライフなんて、私には縁遠いばかり。
恋すら出来ずに、制服を着ていられる年齢が終わってしまう。そんな心配さえしていた私の救世主。
ちょっと嫌なことがあった日の学校からの帰り道、迷いこむみたいにふらっと立ち寄ったカフェ。
店先から漂う芳しい珈琲の香りに誘われて入った裏小路。小洒落た看板とシックな鈴の音。
私の王子様は、そこにいた。
からんころん。来客への挨拶はこれきり。初めて来たときは、営業してるのかなぁなんて思ったっけ。
定位置の、カウンターの一番奥からひとつ手前の席につく。
純度の高い蜂蜜みたいな、甘く輝くブロンドを軽くうなじでひとまとめに括ったその人は、私に注文を訊くでもなく、ただちらりと一瞥しただけで黙々と珈琲を淹れている。
きらり、すみれ色の瞳に私が映るその瞬間、どくりと心臓が跳ねた。何十回と通っても、こればっかりは最初の一回からなにも変わらなかった。
お兄さんが淹れてるのは、なんですか?
………珈琲
私、それが飲みたい!
……あんた、ココア頼んだくせに、ブラック飲めるの?
の、飲めます!ぶっきらぼうな接客用語、でも彼の淹れる珈琲はすごく繊細で、時々鬱屈していたものが爆発するみたいに苦い。まだ練習中だから、お客には出せない、そう言っていた頃から、私は彼の珈琲を飲んでいた。
無言でカウンターテーブルに置かれたカップには、今日も真っ黒に澄み渡った湖面が私を写し返す。
「ダリルさん、こんにちはっ」
「……こんちは」
挨拶をひとつ交わして、大好きなその名前を呼ぶ。基本的に無口な彼から、漸く聞き出した名前。だって、私がいつも来るのは、彼が一人でお店を営業している夕方18時頃なんだもの。
いつまでも見つめていたいくらい、綺麗なすみれ色の瞳。一度だけ視線を外して、黒い滴を口に含んだ。うん、今日もとっても美味しい。
初めて飲んだときは、あんまりに苦くて渋くて酸っぱくて、彼が後ろを向いた隙に水で流し込んだ挙げ句、飲み慣れないものだから3日くらいは寝不足が続いた。
ちょっとずつ酸味が引いて、気付けばえぐみみたいな味覚の不純物も居なくなって、さらりとした飲み口に爽やかな苦みが香ばしい珈琲になった。
今じゃすっかり、珈琲はブラックじゃなきゃ飲めなくなった。
私、こんなにも彼のことが好きなのに、彼のこと、名前しか知らないんだ。
「……今日のは、キリマンジャロですか!」
「当たり。……さっき挽いたばかりのやつ」
「ダリルさんが?」
「………」
「ふふ、美味しいです。とっても」
彼は、私にありがとうって言わない。
最初こそ、会計の時にどうもって言ってくれたんだけど、今じゃそれすらない。でも私はいまの方が好き。
また来ますって言うと、ふっと力が抜けたみたいに柔らかく微笑んで、あっそって言う。
彼女とか、いるのかな。
恋人にも、おんなじように、微笑うんだろうか。
「毎度のことだけど、あんたってよっぽど暇だよね」
「ダリルさんこそ、毎回毎回珈琲淹れて飽きないですねっ」
「仕事中なんだから当たり前だろ」
「あ、……それもそうですね」
恋って不思議なんだ。
思ってることと、口からでる言葉が違うものになっちゃうんだ。
もっと上手に話せたらいいのに。
好きですって言えたらいいのに。
きっと、またあっそってあしらわれちゃうけど、
でも、言えたらいいのに。
「ねぇ」
珍しく、ダリルさんから話し掛けてくれた。
飛び上がるように視線を向けると、いつになく真剣な眼差しの彼が私を見つめていた。すぐに、ふいと逸らされてしまったけど。
代わりに差し出されたカップには、嗅いだことのない香りのブラック珈琲。艶やかな鏡に、ちょっぴりの期待と不安を混ぜたよな顔の私が写る。
「ちょっとこれ、飲んでみて」
「いいんですか?」
「は?寧ろこっちが頼んでるんだけど」
乱暴な口調のダリルさんは珍しくて、ちょっと背中がぴりっとした。
素直じゃないなぁ、なんて思いながら、時々内側の見えないこのひとを怖いと思うときもある。
はっとして、一度咳払いをすると、ダリルさんは小さく小さく、何でもないと呟いた。
「……ダリルさんって、私には接客用の言葉遣いとかしないですよね」
「……してほしいの?」
「っいえ、とんでも!……全然っ!」
裏返りそうな声。下げられそうになったソーサーからカップだけ浚って、掠れてしまいそうな喉に、先程の珈琲を流し込もうと口に含んだ。
しかし私の勢いもそこまで。舌で転がすように、黒い雫を味わう。
香り高く、コクの深い苦みと柔らかな舌触り。
肺腑の奥まで香りを吸い込んで、後引く僅かな酸味に目が覚めるようだ。
「……これ、ダリルさんオリジナルのブレンド珈琲、ですよね」
「…………どう?」
「す、すっごく、美味しいです……!新しくメニューに加えるんですか?」
「いや、メニューには並ばない。……強いて言うなら、裏メニュー」
どういうことだろう?
裏メニューってことは、誰かに飲ませるためのものではあると思うんだけど。
優しい口当たりと、ほどけるような苦み。……すごく、飲みやすい。ダリルさんの淹れる珈琲がとびきり酸っぱくて苦かった頃から飲んでいる私にすれば、ちょっと物足りないくらいだ。
「なんていうか……珈琲飲み慣れてないひとにこそ、飲んでほしい味というか。今まで飲んだ珈琲のなかでとびきり美味しいですっ」
「……そう。じゃあ、成功だ」
柔らかい、笑顔。
こんなにぱりっと香ばしくて、きりりとした苦みの珈琲を淹れるくせに、なんて甘い顔で笑うんだろ。
「飲ませたい人が、いるんでしょう」
「…………カフェオレにもシュガー3本突っ込むようなやつなんだ、多少は工夫してやらないとね」
「……喜んでもらえると、いいですね」
これが初恋ってわけじゃなかった。だから、なんとなく気付いてた。
私は彼の眼中にもない、ただの客。他よりすこし常連で、彼と過ごす時間が長いだけ。
ただの一目惚れだったのに、臆病になってそこから先へ踏み込めなかっただけ。
今もそう。恋人でしょ?って、聞けない。もしかしたら友達かもしれない。もしかしたら家族かもしれない。そうやって、もしも≠残しておかないと、怖くて仕方なくなる。
確かめたくないだけなんだ。
きっと彼には大事な人がいること。
私が、あくまでただの常連客だってこと。
毎週、決まった曜日にここへ来て、学校の課題を進めながらダリルさんと他愛ない話をして。
時々、新作のブレンド珈琲の実験台にされて、どんなに苦くても最後は一滴残さず飲み終えて、ごちそうさまって笑う。
そんな時間が、あまりにも楽しいから。
後日。いつものようにカフェへとスキップする足取りで向かった矢先、私の目前でからんとドアベルが来客を喜んで笑う。
「はろー」
とても目立つオレンジの髪。真っ白な肌に映える深海色の瞳。
一見不良かと思う風貌とうらはらに、陽気そうな挨拶をするそのひと。
入り口横の小窓から、ダリルさんがカウンターから出て窓側の席へ案内するのが見えた。いつもそんなことしないのに。私がそのあとに続けて入店するのにすこし気後れしていると、扉はからんとまた音をたてて閉まる。
秋の涼しい風が吹き始めた、気持ちのよい夕方だった。窓が開いている。はす向かいの書店で立ち読みをするふりをして、私はこっそり窓のなかの二人を覗き見た。
いちばん窓側の席に座った彼女に、なにも言わずにダリルさんがカップに注いだ珈琲を出す。
あ、この香り───
「えー、ブラック」
「文句は飲んでから言え」
「………」
遠くに聞こえる会話が、短く終わる。
私のときよりも粗雑な言葉遣い。
けれどその女性は、気分を悪くするでもなく、むしろやや頬を緩めた横顔でカップに手をつけた。
「……!おいしい」
彼女が、目を丸くして瞬いたのが見えた。
その瞬間、
(あ、だめだ)
手元の雑誌のページに勢いよく視線を移した。誌面で顔を隠しながら、知らず知らずのうちに噛みしめていたくちびるが痛い。
瞠目した瞳に映るのは、目の前の記事でもなく、ましてや絵になるような小窓の中の二人でもない。
じんわりと滲んでいく視界が、夕陽にきらきら輝く二人の艶やかな髪の燐光をぼやかす。
窓枠で縁取られた彼らは、まるで紙芝居のなかのおとぎ話を見るみたいに綺麗で、輝いていて、なのに私の目にはその煌めきがくすんで映るみたいだ。
あんまりに舞台が近すぎて、錯覚していた。
私は、あくまでただの観客の一人にすぎなかった。
王子様に選ばれるのは、私なんかじゃなくて……ううん、私が入る隙間もない。とっくに、彼のなかに思い描かれるひとは、決まってたんだ。
あんなにきれいに笑うダリルさん、見たことない。
私の知らないダリルさん。
とっても、幸せそうだ。
ダリルさんが彼女に向ける瞳も、表情も、すごく優しくて、あまい。
私の胸の内が、突き刺すような苦みで張り裂けてしまいそうなことなんて、あなたはきっと知らない。
嗚呼、美しいおとぎ話のなかの王子様。
あなたの隣で、あなたの珈琲を片手に微笑むことが許されないのなら。
せめて、その窓枠を彩る花にでもなれたらよかったのに。
花にもなれないからん、ころん。
懐かしいベルの音を聞きながら、2年ぶりにその扉を開いた。
ここ数ヶ月、彼がこの喫茶店に姿を見せていないのを分かって、なのに今さら、あのきりりと締まった苦みとほどけるような香りが懐かしくなってしまった。
「いらっしゃい。……おや、懐かしいお客さんだね」
出迎えてくれたのは、何度かお会いしたことのあるこの店のマスターだった。私の特等席を知ってか知らずか、以前の定位置だったカウンター奥から一つ目の席へと促してくれる。
店内はあの頃に比べて、少し人が多くなったように思えた。彼の愛想の悪さからか、この時間はほとんど、私と彼の二人きりだったのに。まばらにひとの話し声のする店内が、むしろ私には寂しく、そして居心地悪く感じさせた。
「あの、ダリルさんて……」
「あぁ、彼ならね、2か月前に就職が決まったといってね。海に近い郊外の町に引っ越すからと、つい最近辞めたところなんだ」
「……そうですか」
「少し不愛想だったけど、根は真面目で働き者のいい子だったね」
マスターは少ない口数で、それだけを話すと、挽きたての豆で一杯の珈琲を淹れてくれた。
一度きりしか味わったことの無い香りが、鼻腔をくすぐった。思い出を刺激して、私の瞳に、あの日と同じ薄ぼやけたスクリーンが下りる。
「これね、正規のメニューになったんだ。彼の、置き土産としてね」
優しい飲み口。ふうわり柔らかい香りに紐解かれるみたいに、棘なく広がる香ばしさ。さらりとした苦みは後を引きすぎることなく、香りを残してすうと消えてしまう。
あの日、飲んでみてと言われて飲んだ、裏メニューの彼オリジナルブレンドだった。
「……とても、美味しいです」
何度も何度も飲んだ、彼が淹れる珈琲の味。
夢まぼろしかと思えたあのガラス玉みたいな私の青春は、たしかに存在した。
わたしは、主人公のヒロインにはなれなかったけれど。
あの頃に比べたら、この喫茶が似合うくらいには大人になれたんじゃないかしら。
この珈琲を飲んで、美味しいと笑顔ほころばせるくらいなら、今の私でもできるかしら。
でも、彼の淹れるきつい苦みの珈琲を、苦笑いでごまかしながら飲み干したあの頃のほうが、わたしきっと輝いていた。
窓の外を、つやと煌めくブロンドが一瞬横切ったような気がした。
気がしただけだったけれど、もうそれだけで十分、幸せだった。
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