僕が僕≠セと自覚した頃、僕はもうおよそ肉体と呼べるものを有してはいなかった。

自分が埋葬された場所を見下ろして、嗚呼そうか、と気が付いた。
僕は自由になったんだ。もう、獄中で死を待つこともない。死ぬのは、案外呆気なかったように思う。
地面に立っているようで重力の感覚がない妙な浮遊感。歩み出せば、滑るように宙を移動出来た。そこらじゅうの墓石をすり抜けて真っ直ぐ進む体に、幽体とやらを実感して不思議な気持ちになる。


嗚呼そうだ、あの子に会いに行こう。
元気にしているだろうか。きっと彼女は僕の死なんて知るはずもないのだけど、もしも健気に待っていてくれたなら、獄中で幾度となく思い出したあの顔をもう一度見たいから。


サーシェ


彼女はいた。寮室と比べたら少し広い程度の1Kで暮らしていた。
変わっていない夕焼け色の赤毛が懐かしくて、眩しく感じて、ぎゅっと胸を締め付けられるような思いがした。
僕は、そっと彼女の名前を呼ぶ。驚いたことに、聞こえたのか周囲を窺うように振り仰ぐその姿に、その目に映ることのない自分の体を見下ろして……僕は、暫し絶望していた。



それからの僕は、彼女の傍を離れることなく昼夜を共に過ごした。


すこし鈍ったんじゃないの?


まさか、あの寝坊助で鈍いサーシェが教職に就いているとは思わなかったから、初めこそ新鮮で吃驚したものだ。
見た目が大人びて、すこし女らしくなって、先生をしているなんて、僕の知ったサーシェではないような気もしたけれど。拳銃の構え方や、独特の重心の置き方なんかを見て、やっぱりあの頃のままなんだと安心したものだ。

鳴り響く銃声に耳をすまして心地よく思う僕は、不自然だろうか。いや、幽体の時点で、不自然も何もあったもんじゃない。
ちょっとした出来心でからかいを口にしてみれば、はっとしたように僕の姿を探す彼女が愛しくて、声には出さずに笑ってみせた。


サーシェ、ねぇサーシェ


僕が繰り返し名を呼ぶと、困ったような、期待したような面持ちで彼女はキョロキョロと周囲を見回す。
段々と慣れはじめて、誰?と返事をしてくれなくなってしまったのは非常に残念だったけれど、それでも僕は彼女を呼び続けた。
僕は此処にいるよと、いつだって独りの時にはどことなく寂しそうな表情を浮かべている彼女に教えてやるために。


また寝るの?


サーシェはいつからか耳を塞ぐようになった。僕の声など聞きたくない、とでも言うように。
あの頃から昼寝が大好きな奴ではあったけれど、ここのところは職務中やなんでもない日中にも具合が悪そうに俯くことが多くなっていた。
元気付けてやりたいのに、僕には君に触れるための手も、腕も、表情も、何もかもがない。傍にいながらにして、僕は後悔の毎日を送った。


ねぇ、どこか悪いの?


僕は、しきりに声をかけることをやめなかった。
大丈夫だよ、僕が傍にいるから。つらいの?苦しい?教えてごらんよ、どうにも出来なくたって、話くらいなら聞いてやれるのに。


サーシェ


心のなかで、彼女がやつれていくのは僕自身が原因であることには薄々気付いていた。だけど、やめられなかった。
傍に居続けることで、彼女に認識されないことに苦痛を覚え始めていた。触れられる距離にいるのに、触れられない。苦しいのは僕だけでないのに、一方通行だって彼女との関わりを絶ってしまうのだけは、どうしても恐ろしくてたまらなかった。


サーシェ、ごめん


弱いままの僕で、ごめんね。
ただ、君の傍にいたいだけなんだ。

まだ、まだもう少し、傍にいさせてよ。



***



サーシェがここ最近、十分に睡眠を摂れていないことは、顔色を窺うまでもなく僕には分かりきったことだった。


うなされてたけど、水でも飲んだほうがいいんじゃない?


耳を塞ぐことさえしなくなった彼女は、何も聞こえないふりをして、額を押さえるような格好のままずるずるとベッドから這い出した。
酒と水と、ゼリー飲料のような軽食しか入っていないようながらんどうの冷蔵庫の前で涼む彼女。噴き出している冷や汗のせいかひどい顔色をしていた。風邪をひくよ、と一言付け足せば、彼女は眉根を寄せてため息をひとつついた。

覚束無い足取りで彼女がたどり着いたのは、ベランダのある大窓の間際。カーテンを細く開いて、空を見上げている。
今日は見事な満月だ。星だなんだとありきたりの風景に関心を持ったのは、いつも僕じゃなく彼女だった。死んだいまさえ、改めて眺めてみる気にはならない。


「……もう、やめてよ」


掠れた声が漏れ出した。彼女のものだった。
不意に思い出したように、呟かれた言葉。さらりと夜風にさらわれて、今まで必死に見ないふりをしてきた僕の心の傷をえぐり出していく。


「結局、嘘をついたんでしょ」

嘘じゃない

「だっておかしいじゃない」

なにが

「見えないし触れもしないなんて、そんなの、そんなのって、」


悪あがきを言ったところで、所詮彼女の言う通りなのは明白だった。
一緒にいたところで、この姿では、僕はなにもしてやれない。それどころか、彼女をつらいめにさせるだけだった。


…………ごめん


しゃくりあげて、肩を震わせながらぱたたと雫を溢す彼女の背に寄り添う。

寄り添って、そして、背を撫でる指先がないことに、また歯噛みする。
嗚呼、また僕は、空回りしてばかりだ。


「ダリルくんの、うそつき」



ごめんを繰り返す虚しさを知って、僕は何も言えぬまま、ただじっと彼女の隣に一緒になって膝をついていた。

つまるところ、僕には何もできなかったのだ。



***



もう、呼ばない。

呼べば、君が泣くから。
泣いてしまうから。

泣き出しそうな顔をして、ねぇと呼ばれると、思わず喉をかきむしりたくなるけれど。
でも、それでももう、君の名を呼ぶのはやめたんだ。


僕を忘れて幸せに、とは言えない。
まだ、そんなに大人にはなれなかった。

でも、僕が傍にいると知ったところで、君が到底笑顔になれないことも、わかってしまったんだ。


ただ、まだ、一緒にいたかった。
だから僕は、ここにいるよ。

君に見えなくて、聞こえなくても。
僕は、ただひとりの僕は、ここで───
君の隣で、いつまでも見守っているから。







傍にいさせてよ。
それだけでいいんだから。

もう、それしかないんだから。





結局誰一人として報われない。
サーシェは新しい出会いに恵まれたところで、幸せな人生は選ばないでしょう。彼と生きるために、と繋いだ命だったのだから。


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