「サーシェ?いるの?」


部屋に入って声をかけても、返事がなかった。そのまま室内に踏み込んで、その姿を探す。
本来ならば寝に戻る為だけに支給される部屋だけれど、今の僕らにとってはあの休憩室に代わるひとつの居場所となっていた。

僕は、もう1ヶ月以上、家に戻っていない。



「サーシェ…?
なんだ、居るんなら返事しろよ」



ベッドに腰掛けたまま俯いて微動だにしないサーシェを見つけた僕は、真っ直ぐに歩み寄って、その華奢な肩に手をかける。
触れて初めて僕が居たことに気がついたかのように、ぴくりと身体を震わせると、そろりと僕を見上げてくる青海色。

初めは空っぽで透明で、すかすかで何処か無機質にも思えたその色が、今じゃぐるぐるぐちゃぐちゃした感情に侵されて、少し暗い翳った色に変わっている。


「ダリルく…?」

「ん?」

「ダリル、くん……」

「なんだよ、言わなきゃ分かんないだろ」


恐る恐ると伸ばしてくるその手を、なるべく優しい手つきで取ってやると、そのまま首の後ろに回された。立ったままの状態から、サーシェの高さに合わせて少し腰を屈める。


「ちょ…っと、この姿勢つらい」

「…………」

「分かった、から。一回離して、」


ふわりと緩められた腕にほうと息をついて、僕は一度身体を起こした。
するとサーシェは、ぱたりと呆気なくベッドに倒れ込み、そのままじりじり這うようにしてベッドにきちんと仰向けになると、幼い赤子のようにまた手を伸ばした。


「眠いの?」


返事はなく、ただ宙を掴むように腕が泳ぐだけ。
ベッドに膝をついてのしあがると、サーシェの手が力なく僕の襟脇を掴んだ。
覆い被さるようにして隣に横になると、擦り寄ってきて、すっぽりと僕の腕の中に収まる。


「マカロンあるけど」

「……いまは、いい…」


小さく息をついて、そっと瞼を閉じるその姿に、僕は少し重たいものを胸の内に感じて、気付かれないように僅かに嘆息した。
蒼白い頬をつ、と人差し指の背でなぞると、くすぐったそうに眉を寄せる。まだ小さく僕のシャツを掴む手のひらを見て、安心させるように背に腕を回した。


サーシェは、弱くなった。


肉体的にも、精神的にも。僕の隣でないと眠れないらしく、僕がやって来るまでいつも小さく膝を抱えて待っている。
眠るときだって、前よりずっとつらそうだ。苦しげに息をしながら、たまに魘されるように寝言を呟く。
食事はおろか、前なら何よりも先に手をつけていたキャンディや菓子類さえ口をつけなくなったし、ここ2〜3週間近くはずっと僕と部屋で寝転んでいる。


僕は長期任務の休暇として最初2〜3日は一日中一緒にいてやっていたけど、士官である僕がそう長いこと休めるはずもなく。
トレーニング、シュミレーションテスト、ウォール縮小時に立ち会って臨場。それだけを、ただ淡々と、淡々と繰り返している。

サーシェは、嘘界の命令を受けたときだけ働く私兵だから、本来は日常的にトレーニング程度しかやることはない。だけど、もうずっと何もせず部屋に閉じ籠ったままだ。
サーシェの体調を心配したローワンに頼まれて、食事の世話も一応してやってる、けど。食べない。食べれない。体内に取り込んだ筈のそれは、拒絶されて食道を介して体外に排出される。
スープのような流動食なら消化出来てるみたいだけど、それだけじゃ栄養不足は免れない。だから、一日一回か二回のペースで、こいつに点滴をする。それも僕の仕事だった。


「ねぇ、寝るの?」


返事はない。どうやら、もう眠りについてしまったらしい。
そうっとサーシェの髪を撫でる。少し息苦しそうだった呼吸が、ふと和らいだような気がした。


僕らの愛してるは、信じてると同義語だ。


例えば、それは視認できない愛情であったり、例えば、それはお互いの存在であったり。
愛だの恋だの、友情だとか絆だとかそういう不確かで信用しがたい何かを越えたところにある僕らの繋がりを、ただひとつ形にしてくれる確かな言葉。

関係なんて、双方またはどちらかの心が少しでも揺らいで、裏返ってしまえばそれまでで、呆気なく崩れて消えてしまう。
僕らを縛り付ける柵がない代わりに、自分たちで絡ませた言の葉という鎖。

同じ、欠けたもの同士。
傷を舐め合って、必死で欠けたものを繕おうとして。
周囲からしたら惨めにも見えるそれが、いま僕らにできる、精一杯のことで。


「(あのときの、逆だな)」


最初は、欠けていることにすら気付かなかったんだ。
ずっと持ってると思ってた。他人の当たり前なら、僕にだってあると思ってた。
でも、違った。僕が、ずっとずっと大切に守ろうとしていたそれは、空っぽで中身のない所詮偶像で。

本当は、この手のひらの中は空っぽだって気付いてて、目をそらして、本当に何もないんだって空虚を知ることを恐れて、怖れて。


その手のひらに手のひらを重ねて、包んでくれたのがサーシェだった。
空っぽの拳の中から伝わる筈のない温もりは、外側から与えられたそれが、初めてのような気がした。


サーシェは、見なくていいよって、言ってくれた。
あいつ、ニセモノは大嫌いなくせに、この手の中のニセモノはホンモノだよ≠チて信じてくれた。
上っ面だとしても、僕はその言葉にひどく安堵した。安堵して、縋って、甘えて、手のひらの中を見ることを忘れようとして、外側を包む温もりにばかりうつつを抜かして。
内側から抉じ開けられた手のひらは、やっぱり空っぽで、これ見よがしに僕を裏切って。だから、僕はこれをホンモノ≠セと言ったサーシェのことも、嫌になって傷付けて、失いかけて、そのくせ振り払ったその手のひらが恋しくてまた泣いて。
もう一度差し出してくれた手のひらを、今度は離すまいと握ったら、サーシェはね、ホンモノでしょ≠チて微笑った。

見ないようにしていた醜さは、手のひらの中のものも、僕の内側にあるものも、どちらも確かにホンモノだった。
そして、そこに確かに感じた悲しみも、包んでくれた温もりを愛しく思えたことだって、紛れもないホンモノだった。


サーシェは、僕が空っぽを怖れて泣けば、その涙を掬ってくれた。
寂しさに手を伸ばせば、いつだって手を繋いでくれた。寄り添って、僕をあたためてくれた。


サーシェは、気付かない間に、人間みたいになっていた。
なかったはずのものが生まれたことに怯えて、持ってるものが消えてしまうんじゃないかって肩を震わせて。
はじめは、あまりに虚空を映したような瞳をしているものだから、ひとなのか疑っていたほどだった。
殺すこと、魂を奪うこと。それしか持っていなくて、ひとりぼっちで、休憩室のベッドで膝を抱えていて。


生きたエンドレイヴを思わせた死神は、もう鎌を振るえない。
サーシェは、もう、ひとだから。感情を、表情を持った、ひとりの人間だから。


だから僕は、今度は僕が、サーシェを守ってあげようと思うんだ。
その手を強く握って、温もりの内に閉じこめて、出来る限り外を見て怖がることがないように。


僕が、サーシェを守る籠になってやるんだ。



「……僕が…、そばにいるから、ね……」



弱々しく震える身体を、壊れることがないようにと祈りを込めて、柔らかく抱きしめた。



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