いい加減耳障りだと思った。


「♪〜」

「うるさいな!」

「!…危ないじゃん」


手元にあったミネラルウォーターのペットボトルを、苛立ちの原因に向かって投げ付けた。
まだ中身が入って重たかったそれを、奴は寸でのところで受け止める。


「さっきからおんなじ歌ばっかりで聞いてるこっちがうんざりだよ!!ていうか下手すぎ!!音外しまくってるじゃん!!歌うならもう少しうまく歌えよ!!」

「少尉わがままー」

「お前が悪いんだろ!!」

「歌は歌ってるうちにうまくなるんだって、」

「なんでも嘘界の言うこと聞くなよ!」

「……ローワンが言った。」


あのヘタレ眼鏡。何吹き込んでくれてんだよ。

第4隔離施設が葬儀社に襲撃された翌日、僕は漸く退院許可が降りて、次のミッションには必ず参加出来るようにと休まされていた間の分もトレーニングに励んでいた。
機嫌の良さそうな死神は、通路で僕を見つけるなり鼻唄を歌いながらついてきた。相変わらずの自由っぷり。いつもの黒いタンクトップに灰色のパーカーを羽織っていて、下は男物の半ズボン。あからさまに私服だ。

オペレータースーツに身を包み、模擬戦を終えて休憩室のソファーに座った僕の向かいで、窓ガラスを覗き込みながら眼下の海を見下ろす死神。飽きることなくまだ同じ歌を歌っている。


「…何の歌だよ、それ?」

「EGOIST」

「エゴイスト?」

「最近日本で流行ってる地下バンド。知らない?」

「知らない」

「そっか。私も一昨日知ったばっかりだし」


そう言いつつ、受け止めたペットボトルをテーブルに置くと、ポケットをがさごそと漁って「はい」と手にしたそれを僕に突き出してくる。
いつもの、安っぽいセロハンに包まれたキャンディだ。今日は、オレンジ。
目だけで確認するなりいらない、と素っ気なく返した僕に、不満を述べるでもなく、「そう」と短く言って、死神はセロハンを剥がし自分で食べた。


「そのヴォーカルの楪いのりが葬儀社の幹部なんだ」

「…はぁ?」

「彼女のことを調べてたらこの曲を知った」

「ふぅん」


特にそこまで興味があるわけでもない。聞き流していると、死神がまた同じメロディを、今度は日本語の歌詞で口ずさみ始める。呆れてため息をついた。
僕は人並み程度の簡単な日本語なら分かるけど、こいつほどはっきりと話せるほど理解している訳じゃない。日本語は無駄に文法がぐちゃぐちゃしてて面倒だ。
だから、その歌詞の意味までは分からなかったけれど、なんだかとても寂しい曲のように聞こえた。

そこで僕は、ふと思った疑問をそのままに口を開いた。


「お前さ、両親が日系人だったりするの?」

「♪〜…、え?」

「時々、日本語話すじゃん。それも、結構ペラペラと」

「………」


すると、数回瞬きをして、死神の蒼の瞳はぼんやり僕から視線を逸らした。
似て非なる、明るい空の青を見上げながら、ぽつりと呟く。


「言葉は、二人に教わった」

「二人?」

「英語はローワン、日本語は嘘界さん。5年前までは、私は無学で、言葉も話せなければ文字だって読めなかった。今も、普通の人が学校で習うような知識は、持ってない」


僕は、予想だにしなかった返答に、目を見開いて瞬くことを忘れた。


「文字の読み書き、話し言葉…それと、拳銃や重火器の扱い方。それ以外は、日常生活を過ごすのに必要な最低限の常識しか、知らない」

「……え、なんだよそれ。
じゃあ、親は…」

「いない」


知らない、と、ぽつり。
飴玉を床に転がすような、響きもしなければそれまでのような感触で、死神は言の葉を紡ぐ。

拾われて軍人養成所に放り込まれた奴なんて珍しくない。寧ろ、こいつに親が居たとして、どんなやつなのかなんて想像もつかない。
なのに、何故か僕はその事実に、衝撃を受けずにはいられなかった。


「私にとって、親は嘘界さん。兄弟はローワン。二人は大切だから、何があっても守るの」


死神≠フ唇から、守るという、一見不釣り合いな言葉が漏れて。
感情の読み取れない、淡々とした声を聞きながら、奴の瞳を見た。
暗い、暗い海の底を思わせる蒼が、固く誓うような煌めきを伴って細められる。


「少尉、お母さんは?」


そう不意に問われて、僕は息を止めた。
僕が7歳の頃のことだ。ステイツの屋敷で、今年のクリスマスは久しぶりに家族揃って食事をしようとパパが言って。
ママは私用で日本に用事があるからと言って、でもクリスマスには必ず帰ってくるからねと僕の額にキスをして、出ていって。

それきり、ママが帰ってくることはなかった。

それまでのクリスマスも、家族揃うことなんて滅多になかったけど、ロストクリスマスで軍が忙しくなって、パパは勿論その年のクリスマスは帰ってこれなくて、僕は一人屋敷で使用人の出すローストチキンを頬張った。


2029年12月24日。ママの、命日。


骨も残らず塵になって消えてしまったママの葬式にも、パパは忙しくて来れなかった。しょうがなかったんだ。その時、パパは臨時政府として日本に派遣されて、大混乱の日本を統治しなくちゃいけなくて、それはもう大忙しだったんだろうから。


止めていた呼吸を、そっと漏らすようにして、僕は言う。


「ロストクリスマスで死んだよ」


死神は、いつものように「そう」と答えた。
いつもは素っ気なく聞こえるはずのそれは、同情もせずありのままを受け入れるように僕の吐息に寄り添って、どこか切なくて優しい気持ちにさせた。

ペットボトルの水の向こう、光が屈折して少し歪んで見えた世界が、どうしようもなく寂しくて、何故か懐かしく思えた。



***



今日はなんだか、不調だった。

射撃場を出て、硝煙の匂いが移ったパーカーを脱ぎ、いつもの休憩室の簡易ベッドに腰掛けた。横になると、毛布のようにして被る。
嗅ぎ慣れた、昔からの匂いに包まれる。昔は、この匂いと、血の鉄臭さしか知らなかった。

少尉に聞かれるまで、自分がそういう場所の出であることを忘れていた。いや、覚えているからこそ、目をそらしていたのかもしれない。


銃だけじゃない。
ナイフで、己の手で命を摘み取る感触だって、まだ覚えている。


私は死神の名に相応しいだけのことをしてきた。他人の屍の上に立って、その魂を吸い取るようにして生きてきた。
命を奪い、武器を奪い、金品を奪い、食料を奪う。そうしなければ、生きていけなかった世界。

だからもう、命が損なわれるときの喪失感に慣れてしまった。本来一般人は慣れるはずもない、慣れてはいけない感覚を、私は持ってしまった。


そっと瞼を閉じる。
いま、休憩室には私しかいない。少尉はトレーニングルームに行くと言って別れてから見ていない。
本当は、もっとずっとそばで彼の観察をしたかったけれど、そんな気分でもなくなってしまった。


改めて、自分という存在と向き合った。


静かな空間に、私の呼吸音だけが聞こえる。
安心する、無音の孤独。気配なき孤独。気を張る必要もない、ただ安らぎだけが、ここにはあって。

自分のものではない匂いに、気配に、安心出来るようになるまで長い時間がかかった。
自分しか信用出来なかったあの頃とは違って、今は大切に思える他者も出来た。

薄々気付いてはいる自分の中身に、ホンモノ≠フ汚さから目を逸らしたくて、私は意識を微睡みの縁に追いやった。
少尉は、こんな私を知ったら、嫌いになるのかな。汚いから寄るなって、遠ざけられちゃうのかな。

私の中は、空っぽなようでいて、実質濁った水面のように、濾過されることなくずうっと揺らいでいる。
表面は透明なその奥底深くに、汚い私は眠っているのだ。

せっかく、顔を会わせて話せる人が増えたのに、またいなくなっちゃうのは、やだな。
少尉の、綺麗な横顔を暗闇に描いたら、心臓の上辺りがきゅっとなって、苦しくなった。



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