なんだこれ。なんなんだこれ。


トイレの手洗い場で、手を洗い続ける。冷たい流水が僕の手をすすいでいく。
擦っても擦っても、触れた感触が消えなかった。包帯から染みてきた水が手のひらの傷口にふれてずくりと痛む。
へたくそ。緩んできた包帯が煩わしくなってわざと取ってやった。赤い線が手のひらにいくつも走っている。直接ふれる水が痛かったけれど、そのままにした。塞がりきっていない傷口から血が滲んで、赤い水が指を伝う。
痛い。痛いけど、この程度エンドレイヴを操縦しているときのフィードバックに比べたら何でもない。それに、痛みを感じていれば、感触を忘れられる気がした。


女に触ってしまった。


感染しているか否かによらず、僕は女との接触は特に嫌いだった。
まじまじと見つめてしまった死神の容姿を思い浮かべて、ぶるりと背筋が震えたのを感じ頭を振ってそれを掻き消す。

……あいつ、女だったんだ。

血が止まったのを見て、蛇口から手を離す。自動センサー付きのそれは水を流すのをやめて、沈黙が支配する。
ぼんやりと正面の鏡を見つめれば、いつもの僕の顔が、また僕を見つめ返してくる。…いや、違う。なんだか、弱気な顔をしていた。
なんで?どうして、僕がこんな顔しなくちゃならないのさ。こんなの、僕じゃない!

勢いよく鏡を殴り付けた。みきり、と亀裂が入って、また僕の手から血が滴る。
気付いていたから、認めたくなかった。少し、ほんの少し、がっかりしている自分を。


サーシェって、コードネームだと思ってた。女の名前だったんだ。

自分の中が、どうしようもなく気持ち悪くて仕方無かった。
心は、女に触ってしまったことを酷く拒絶しているのに、身体はその感触を受け入れて馴染んでいくようで。

冗談じゃない。穢らわしい、女の皮膚なんて。気持ち悪いだけじゃないか。拒絶する理由はただひとつ、嫌悪感しか抱かないからだよ。


──────でも、


(女っぽく、なかった)


死神だから、だろうか。
そりゃあ、歩兵としての訓練を受けてれば筋肉だってつくし、一般的な女より皮膚の感触が引き締まって感じるのは当たり前だろう。
嗚呼だけど、違う。そうじゃなくて…───

は、と考えるのをやめた。
女の皮膚の感触について考えを巡らせるなんて、不愉快極まりないじゃないか。
やっぱり、やっぱりだ。なんだか、おかしい。前はこんな風に、いちいち考えたりしなかった。
…前は?今も、のはずだ。どうして?なんで、考えてるんだ、僕は。

堂々巡りする思考を無理矢理ぶっちぎって部屋に向かう。まだ応急措置道具類は片付けていなかったはず、早いところ包帯を巻き直さないと。

そういえばベッドに倒れ込んだ死神を放置したまま出てきたことを思い出した。あいつ、まだいるのかな。
……目が、とか…言ってた、ような。普段両目を使うと、疲れるとか…、よくわかんないけど、もしまだあのままだったら追い出そう。女がいつまでも僕の部屋にいるなんて考えたくもない。


ガラリと病室の引き戸を開くと、そこに死神の姿はなかった。期待外れのような、別に期待なんてしてなかったけど、ああまただ。ぐるぐると内側を掻き乱される。
割れた窓ガラスからすうすうと風が吹き抜けてくる。海辺にある施設だから、ねっとり絡み付くような、鬱陶しい潮風だ。
僕はそれを振り払うように部屋に踏み込むと、ベッドの上にやりっ放しにされている応急措置セットのケースから包帯を取り出して巻き直す。

きつく巻き付けて、結び付けようとして、手を止める。うまく結べなくて、あいつにやらせたんだった。
はぁ、と息が洩れた。包帯に微かに血が滲む。面倒になって、包帯を剥ぎ捨てた。
投げた包帯が転がった先に、安っぽいセロハンに包まれたキャンディが落ちているのに気付いて、なんとなく拾い上げた。

葡萄を彷彿とさせる、紫色のそれを見つめる。
ふと、思い出した。


ちょっとくすんだ淡い紫。綺麗な色をしてる


初めて、ちゃんと正面から見たあいつの顔。
深い、底のような海色。夕陽色の髪の毛と対照的な瞳。

前髪で顔の右半分覆い隠して、残った左目がじっと僕の内側を探るように見つめてくる。
自分にはないものを見付けるように。自分と同じものを見付けるように。

さっきから、胸のうちを焦がされるような不快感が止まない。
ペースを乱されるような。この場にあいつはいないのに、変な話だ。
むしゃくしゃして、苛立ちをぶつけるように、手のひらの上の紫色をゴミ箱に向かって投げ付けた。



***



変な時間に目が覚めた。

なかなか検査が長引いていて、僕自身はなんとも思っていないのに退院できずにいる。
早いとこ、シュタイナーを奪い返しに行きたいのに。僕の、僕がパパにもらったシュタイナーなのに。虫けら共に使われてると思うと虫酸が走る。

枕元に置いた端末を見れば、まだ夜中の3時過ぎだった。あと数時間もすれば朝が来る。
朝は嫌いだった。暗闇に隠れていたものを、全て浮かび上がらせていくようで。汚いものが鮮明に映し出されるようで。

もう一度眠ろうとしたけれど、なんだか冴えてしまって眠くない。
仕方ないから、何か飲み物でも飲もう。自動販売機がロビーにあったはずだ。

端末片手に、病室を出た。
暗闇に月明かり、所々から響く空調装置のモーター音。通路一面に貼られたガラス窓からは、ボーンクリスマスツリーの夜警の光が漏れている。


通路の途中に、だだっ広いスペースがあって、ソファーと小さなテレビ、自動販売機だけがある簡素なそこがロビーだった。
そこに踏み込んではた、と気付く。一人、窓際のソファーに座っていた。

月明かりに照らされた、黄金混じりの夕陽色。死神だった。


「………なんでお前がいるんだよ」

「…あ。少尉」

「お前の病室と階違うだろ」

「ここ、眩しすぎなくてちょうどいいんだ」


一度こちらを振り返ると、またすぐ窓の外に視線を戻す死神。
僕はなんだか面白くなくて、真向かいの席に座ってやった。死神は、暫くじっと外を見ていたけれど、そっとこっちを覗くように視線を寄越した。


「……寝ないの」

「起きちゃったんだよ。お前こそ、なんでこんなとこに」

「少尉と一緒。起きちゃったから」


裸足に支給された薄い検査服1枚の姿は寒そうで、実際死神はソファーの上で膝を抱えていた。足元には、綺麗に脱ぎ揃えられたスリッパ。
虚ろな瞳は、眠たげなものとは少し違った色を滲ませていて。…特に話題が出てこなかった僕は、ふぅんと相槌をひとつ、死神と同じように窓の外を眺めた。


「……食べた?」

「…え?何が」

「キャンディ」

「……あぁ。捨てたよ、床に落ちてたから」

「そっか」


すると、またもぞもぞとポケットを漁り出して、ソファーとソファーの間のローテーブルに、何か取り出したものをひとつずつ並べていく。
月光と夜警の光に照らされたそれは、艶やかに光るキャンディだった。それも、みんな色違い。
並べ終わった死神は、最初に並べたものから指差して、小さな声を出した。


「ストロベリー」

「……」

「メロン」

「………」

「ブルーベリー、…レモン、…アップル、…グレープ、…ピーチ」

「………」


死神は、じっとそれらを眺めたあと、徐に僕をじっと見つめた。
居心地が悪くて、所在無さげに視線を彷徨わせると、死神はそろりとまたキャンディを見る。


「少尉は、この中に、いないね」

「……は?」


私とおんなじだ。呟く死神。
意味がわからない。僕はキャンディじゃない、当然だ。

右から二番目、メロン味のキャンディを摘まんで、また呟く。


「これは、ローワン」

「…え」

「こっちは、嘘界さん」


今度は、グレープ味を摘まみ上げる。
けれど、違うとでも言うようにゆるゆると頭を振る死神。
僕にはまるでさっぱりだ。


「ローワンは、優しい。みんなに。滅多に目立つことをしないけど、一番後ろからみんなを見てて、他の人じゃだめなときは、甘えさせてくれる。だから、メロン」

「……」

「嘘界さんは、色んな自分を持ってる。子供みたいに無邪気なときもあれば、計算ずくでなんでもやれる大人なときもある」

「それが、なんでグレープなんだよ」

「グレープは、こどもたちのおやつ。でも、大人たちのお酒にもなる」

「………」


今日はこっち、とグレープ味のをテーブルに戻すと、メロン味のセロハンを剥がしていく。
人間に例えたそれを口の中に放り込む姿が、魂を喰らう死神そのもののようで、ぞわりと背筋が粟立つ。


「…ひとにはみんな、味がある」

「…は?味?」

「色んな味があって、色んなひとがいる」

「………」

「私はまだ、少尉のことを知らない。だから、何味かわからない」

「………、」

「知りたいんだ、君のこと」


鼓動が跳ねた。

相変わらずの無表情だったけれど、僕に向けられたその蒼の瞳は、なんだか柔らかく微笑っているように見えた。
からり、飴玉が歯に当たる音が、静かなロビーに響く。


「君を知れば、私が何なのかもわかるかもしれない」

「…やだよ、味に例えられるなんて。食べられちゃうんだろ」

「うん、食べる。食べて、味を知ったら、もっとすきになる」


目を細める死神。瞳から伝わる、感情。
好奇心と、探求心がない交ぜになったような色が、僕を射抜く。


「私は、ひとの味を見つけることで、自分の味も見つけたい」

「……お前の味?」

「もうずっと私≠やってきてる。なのに、私は私≠ェなんなのか、まだよくわからない」

「………」

「少尉はきっと、自分をちゃんと知ってる人だから。そばにいて、君を知れば、私も何かわかるのかもしれない」


一緒にいてもいい?

そう問われたとき、いつもの僕ならはねのけただろう。女が、一緒にいたいなんて言ってきたら。
だけど、何か違った。このときこの瞬間は、よくわからなかったけれど、嫌じゃなかった。だから、僕はこう答えた。


「………好きにしたら」


ありがとう、と小さな声でまた言う。からり、また鳴り響く。


多分、僕はこいつを、女だとか男だとか、そういう意味で見ていなかったんだと思う。
死神と呼ぶ存在は、異質で、異色で、けれどどこか肌に馴染む違和感で。
自分の中の、知らないところが疼く。それを、不愉快だと思う自分もいれば、その正体が気になる自分もいて。


とりあえず、なんだか奴のペースに乗せられている感じが気にくわなかったので、最後にこう付け足した。



「でも、僕の邪魔したら、ぶっ飛ばすからね」



うん、と頷く死神。
やっぱり、ものすごく、変な奴だ。


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