時は遡って一週間前。
彼が独房のダリルの元を訪れるより前のこと。
「懐かしいですねぇ」
彼は、手元のセロハンを見つめながら、左目の義眼をぎょろりと回転させた。
「あの子に日本語を教えたのは…3年前でしたか」
桜満春夏博士の追跡に当たっていた嘘界は、葬儀社のセーフハウス──隠れ家を探して地域を点々と移動していた。
トレーラーの中の固いベンチに腰掛けながら、そこに書かれた文字を目でゆっくり追いかける。
そこにあるのは英語だったけれど、彼は、思い出していた。少女との懐かしい日々を。
「嘘界さんがいつも出先で話している言葉って、なんですか」
「ん?日本語ですよ」
「ニホンゴ?」
「この国の言葉です」
3年と少し前。嘘界は日本の臨時政府に派遣されることになった。
飛行機にはしゃいで目を輝かせるサーシェを横に座らせながら、サーシェの大好きなキャンディーを与えつつ到着した日本。
サーシェはその頃まだ表情など無いに等しかったが、微かな瞳の煌めきの変化で彼女の感情を読み取る術を、嘘界は会得していた。
自分の護衛として行く先々に連れていくサーシェは、まだ覚束ない英語で話すのが精一杯だった。
栄養不足で小さいままだった身体は、きちんと食事を取れるようになると、急激に成長を始めた。拾った当初は123pだった身長も、今では146pまで伸びた。
成長痛で動けなくなったこともありはしたが、最近は順調に大きくなっているようだ。まだまだ伸びるだろう。
骨と皮のような細すぎる体型を隠すためか、サイズの大きい男物の服をだぼつかせながら着るサーシェ。
眼鏡はいやだと言うので片目を隠すように前髪を伸ばし、少年のような髪に散髪した姿は、大きな瞳を縁取る睫毛以外にあまり女性らしさを思わせない。
毎日毎日、眠るか訓練、休憩に自分とスウィーツを食べたり。そんな生活をしていた彼女が、ふと思い付きで声を漏らしたのが始まり。
「ニホンゴ、話せたら…この国の人と、仲良くなれますか?」
「そうですねぇ、ですが難しいですよ?日本語」
「話してみたいです」
「いいですね、じゃあ僕が直々に教えてあげましょう」
「ほんとう!?」
「えぇ、いいですよ」
使えて損はない、と思って暇潰しに教えてやることにした。
この少女の成長ぶりは、案外見ていて退屈しない。退屈しのぎに拾っただけのつもりが、いつの間にか自分から構ってしまうほどに気に入っていた。
ただ、ひとつ計算外だったのは、
「なみぬねも」
「はい、ブッブー。間違いです」
「あれ…?」
「よく間違えますねぇここ」
「な…な…」
「なにぬねのですよ」
「なみぬねも?」
「なにぬねの」
少女は、予想以上に物覚えが悪かった。
暗記は勿論、読み書きも覚えが遅い。2年間付きっきりで彼女に英語を教えたローワンの根気の良さに、改めて感心したものだった。
まぁ、嘘界は自分で言うのも変な話真面目に仕事をするタイプでもなかったので、空き時間は山程あった。
彼が携帯片手に教えても文句を言わないものだから、彼は飽きることなく指導を続けた。有意義なひとときだった。
「はい、あなたのお名前は?」
「サーシェです」
「挨拶は?」
「おはようございます、こんにちは、こんばんは」
「お礼は?」
「ありがとうございます、どういたしまして」
「良いでしょう、上出来です」
物覚えが悪いことを自覚している少女は、人一倍努力を怠らない子だった。
(体で覚える実技科目については特待生レベルなんですけどねぇ)
2年近く時間をかけて漸く習得した日本語を、時々得意そうに使ってローワンを困らせたりもしていた。
それから、日本語が使えるようになるとお使いを頼めるようになった。甘いケーキやプディング、買ってきてもらったものはどれも美味しかった。
そんなふうに過ごした時間も、いま思えば案外短く感じてしまうというもの。
疑似家族とはいえ、あの子と過ごした日々は意外と面白かったと記憶している。
次はどんな成長ぶりを見せてくれるのだろうか。興味深いものに対し、ワクワクして目が離せないのは昔からだ。
(親元を離れた雛鳥の行く先、とくと楽しませて頂きますよ)
嘘界は、セロハンを丁寧に4つ折りにしてコートのポケットに仕舞うと、3つ目のセーフハウスの中を探索するため、停められたトレーラーから降りた。
***
「報告しなさい」
翁は、自室の椅子に深く腰掛けて、何やらネット通信を介して誰かと対話しているようだった。
供奉院の屋敷に戻ってきた私は、真っ直ぐ翁を訪ねた。彼は私に待ての意を込めた手のひらを向けて、会話を済ませると厳かに口を開いた。
「アリサは…ご令嬢は、GHQのトレーラーに乗っていきました」
「………」
「他の逃げ遅れた生徒も、一緒に捕獲されたようでしたが…彼女は、恙神涯を守ったり、また学園を取り仕切っていたオウマシュウに反旗を翻し、GHQが介入する隙を作ったりなど…荷担している様子が見られました」
「………やはりそうか…」
「上層部には数日後生徒たちが行動を起こすという情報が内通されていました。
おそらく、ご令嬢が上層部と学内のパイプになっていたと思われます」
翁は、瞼を閉じて私の言葉を聞いた。それは、事実をゆっくりと飲み下すことにやや困難しているようにも思えた。
ようやく瞼を開けた翁は、紫の瞳で私を射抜く。
「ご苦労だった」
「いえ…このくらい、」
「顔色が優れないな、部屋で休んでいなさい」
頭がキレるひとほど周囲に気が配れるというもので、嘘界さんもそうだったけど、このひともやはり人の様子に気が付くのは早かった。
「………あの、おじいさん」
「………何かね」
急に呼び方を変えたことで、彼はほんの少しだけ目を見開くと、表情を変えることなく応えた。
「池の鯉の、餌やり。このあと、するでしょう?」
「………それがどうかしたか」
「一緒にやってもいいですか。……ううん、お手伝いさせてください」
私の言いたいことがなんとなく分かったのか、翁はにやりと口角を上げると、ゆっくり立ち上がって近くに立て掛けてあった杖を手に取った。
「ついてきなさい」
「ありがとうございます」
「おじいさん、ひとつ、聞いていいですか」
「なんだ」
翁と一緒にぱらぱらと池に餌を撒くと、水面に浮かぶそれを目掛けて口をぱくぱくさせた鯉が集まってくる。
視線は水面下の鯉に向けたままそう言えば、翁は変わらず声を返してくれた。
「おじいさんは、アリサを殺すんでしょう」
「………身内の恥は身内が灌がねばならん」
「なら、おじいさんは…躊躇いなく、彼女を殺せる?」
こんなこと聞いて、なんになるんだろうって、自分でも思う。だけど、少し聞きたくなってしまった。
また変わらず答えが返ってくるのかと思ったら、違った。暫くの沈黙を置いてから、翁は口を開く。
「何故そんなことを聞くのかね」
「………わかりません」
「………」
「わからないけど、少し、聞きたくなって」
「…………それは、君が独りで組織を抜けてきた罪悪感か?それとも、敵と見なされ消されることへの恐怖か?」
「………多分、どっちも。
いっぱい考えて、悩んだ末に信じて決めた道だったのに、本当によかったのかなって」
反逆したオペレーターは、私のだいすきなひとだった。
感情のままに弾を叩き込んで、暴れまわって、ついには味方に一斉射撃されてベイルアウトして。
フィードバックはどれくらいだったろうか。
ローワンのことだから、きっと早いうちにベイルアウトの命令を出しただろうけど、上がった悲鳴は接続が断たれていなかったことを示す。
火傷で済んでるといいな。
痛かっただろうな。
そばにいて、あげたかったな。
思わず彼の名を呼び掛けた声は、必死の思いで飲み下した。
いかないでと泣く彼を置いて、勝手に彼処を出てきた私が、今更彼を思いやるなんて、卑怯なんじゃないか、って。
あんなお別れの仕方じゃ、キャンディーも見つけてくれてないだろう。もう部屋には戻ってきていないかもしれない。
独り善がりの気持ちで固めたはずの心は綻びがちで、手にしたぬくもりを自ら放ってきたことに後悔している。
また次拾うとき、それはそこにあるのかなって。ちゃんと、変わらないまま私をあたためてくれるのかな、って。
私、自分勝手だ。
「そんなものだよ、人間なんて」
ため息をつくように言い放った翁。
水面から視線を上げて彼を見ると、翁は柔らかく笑んでいた。
「何故だろうな、年齢が近しいからか、君には亞里沙を重ねてしまう」
「……え、」
「似ても似つかぬ。
だがな、サーシェくん。あれと君は、よく似ているよ」
優しくて、けど何処か寂しそうな目が、水面に向けられた。鯉が啄み波紋がいくつも広がるみなもは落ち着きがない。
「大切だと思えるもののために、真っ直ぐに行動出来ること。
真っ直ぐすぎるところが、君たちはよく似ている」
「…………、」
「若いからこそ躊躇いなく出来る純真さだ。
けれども、それだけではいけない。もっと周りをよく見なければ、その大切なものまで失ってしまう」
「……………」
「君は、無くしてはいかん。守ると決めたのなら、その志に誓って守り抜け」
さぁ、もう休みなさい。そう言って私を庭から追いやったのは、オオグモを連れた倉知さんがやって来るからか、それとも私を気遣ってか。
どちらにせよ、これが彼と最後の会話になるとは、私はまだ考えてすらいなかった。
翁はそのまま、帰って来なかった。
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