自覚してからは早かった。
「…………」
手を止めて、それをベッドの上に置くと、素早く水場に駆け込んだ。
便器の縁に手をついて、込み上げる悪寒をぶちまけた。今朝はまだ何も口にしていないのにこれだ。嫌になる。
「ぅ……、けほっ」
吐瀉物の臭いが更なる吐き気を催す。気分が悪くて、口の中も気持ちが悪い。
水を流すと、洗面台について蛇口を捻る。口をすすいでうがいをするけれど、頭の奥がガンガンと痛んでくらくらする。
鏡を見て、少し痩せたと気付く。
頬が痩けたかもしれない。また最近眠れなくなって、昼寝の時間が延びるようになった。かといって深い眠りにはつけていない。
こんなの、ダリルくんに見せられないや。
「……続きやんないと」
部屋に戻って、分解途中の銃を手に取る。
こんなの、毎日やってたんだ。時間をかけてやる作業じゃない。
そう思うのに、銃器そのものから臭う硝煙の匂いだとか、染み付いた血の匂いだとかが、逐一作業を中断させる要因になって仕方なかった。
ひとが撃てなくなった。
「サーシェ、起きてるか?」
ノックのあと、自室の扉が開かれる音がして、顔をあげるとそこにはローワンが立っていた。
「ローワン、おはよ」
「おはよう…って、その様子だと、また眠れなかったんだろう、隈がひどいぞ」
「あ、やっぱり目立つ?」
「顔色が悪い。朝食は摂ったのか?」
「まだ。でも、食べれそうにない」
「駄目だぞ、こういう時ほど食べないと。
……もしかして、また吐いたのか?」
「ん…」
「どのくらい、」
「ゆうべは一睡も出来なかった。それから今の今までで、4回かな」
「全く…それなら呼べってあれほど、」
「ローワン、いま忙しいの知ってるから。休めるときには、休んでてほしいの」
「馬鹿、」
ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜるように撫ぜられて、ぽか、と心が温かくなる。
私は、心配をかけてばっかりだ。歩兵だから怪我が絶えないのは仕方無いにしても、鉄骨の下敷きになりかけたり、感染して利き手をキャンサー化させられたり、今はこんな体調で余計心配をかけている。
まだ誰にも、撃てないことは言っていなかった。
撃てないと言ったことで、居場所を見失うのがひどく怖かったからだ。
嘘界さんに切り捨てられたら。ローワンに呆れられたら。
撃つことが出来たから、今の地位を築いてこれたようなもの。人を殺すことに躊躇いがなかったから、死神の異名がつくほど私は手柄を得ることができた。
それが今は、殺すどころか銃に触れることも難しくなってしまった。
「結晶化は?してないか?」
「大丈夫…」
ローワンには、変異したアポカリプスウイルスが身体の内で暴れまわっているせいだと言ってある。
実際変異後のウイルスには感染していないのだけど。ウイルスに対してワクチンの効きが悪くなったのかも、と、そう言ってある。
ごめんなさい、ローワン。
嘘をついて。一生懸命、私のこと気遣って、なんとかしてくれようとしてるの、分かってるよ。
でも、これだけは素直に言えない。言ったら、私たちの関係に歪みが出来てしまう。
疑似とはいえ、家族だったあなたたちとの関係に、ひびなんて入れたくないの。
「じゃあ、ほら、一緒に朝食にいこう」
「うん、」
「スープだけでも食べような、胃が空のままは良くないからさ」
「ありがとう、ローワン」
「気にするな」
漸く一丁手入れが終わったところで、ローワンが私の手をとった。
温かくて大きな男のひとの手のひらは、私の痩せ細った手のひらなんてすっぽり包んでしまえた。
私が本部に戻ってから、一週間と少しが経っていた。
最初は、まだ撃てたんだ。
「サーシェ、仕事です」
「はい、嘘界さん」
「葬儀社の残党が溜まっている廃ビルが確認できました。殲滅してきてください」
「わかりました」
アジトがあった六本木が消失してからというもの、葬儀社の残党たちは廃ビルなどを転々と移動して生き延びていた。
リーダーの死、幹部の逮捕、行方が分からないひともいる。そんな中で、何も考えずにこちらに仕掛けてくるような馬鹿はいなかった。じっと、息を潜めて機会をうかがっているように思えた。
手を出してこないのをいいことに、私たちはそれを追い回して殲滅する。それが歩兵の最近の仕事。他は見回りや、ウォールの外側の見張り程度だ。
ウォールが大きく広範囲なため、見張りに人を回すことが多かった。そのため、そのときの仕事は私一人だった。
直前まで訓練場で射撃練習を何度もした。ひとが死ぬところを想像した。大丈夫、私は撃てる。そう自分に言い聞かせながら。
そこに潜伏していたのは、10もいない程度の人間たち。
わざわざビルの中に入る必要もない。正面の廃ビルから直接建物に攻撃をして、息を潜める人間の気配に目を凝らす。
あとはスナイパーで遠くから一人一人確実に撃ち抜く。それだけ。
全員殺って、確実に息の根を止めるため確認にビルの中へ入った。
死臭が充満するそこで、ふらりと傾いた体を押さえつけながら階段を上る。部屋に入れば、虫の息の人間が3人。
一人一人の頭に一発ずつぶちこんで、生者は私だけになった。足元に広がる血の海を見て、生暖かい部屋の空気を肺一杯に吸い込んで、
泣いた。涙は出なかったけど、心が震えて、咆哮した。
その日はもう何も口に出来なかった。
次の日。昨夜使った銃を手入れしようとして手に取った。
硝煙の匂いであの光景を思い起こしたら、手が震えて作業が出来なかった。
その次の日。なんとか慣らそうと思って訓練場に行った。
だけど駄目だった。銃が握れなかった。他のひとの発砲音を聞いただけで視界がぐずぐずと歪んで綻んで、私は倒れた。
運ばれた医務室で目を覚ました。ローワンがそばについていてくれて、何があったんだと聞かれて、全部思い出して、気分が悪くなって、トイレに駆け込んだ。その時初めて吐いた。
駄目だった。何もかも。
私はもう、死神ですらない。
軍のお荷物だ。
「…どう、しよう…」
「ん?」
スープの入ったカップを手にしてぽつりと呟いた私に、ローワンが顔を上げた。
「こんなじゃ、お仕事出来ない…」
「誰にだって、万全じゃない時期があるものだよ。
特に、君くらいの年齢はホルモンバランスが崩れやすいから、体調不良になりやすいし」
「そうじゃ、ないの…」
「ん?どうした?
まだ何か、困ったことでもあるのか?」
「…………ううん、何でもない」
「そうか?」
そう言って、ローワンはベーグルサンドにかじりついた。
ちびちびとコーンポタージュを啜る私を見る視線は、優しくて、そして心配そうで。
「何かあったら、ちゃんと言うんだぞ?」
「うん、…ありがとう、」
「もういいのか?」
「ん…お腹いっぱい」
「そうか」
こと、とカップを置いて立ち上がる。
着込むようにして黒のニットパーカーを羽織る私に、ローワンが小首を傾げた。
「今日はこのあとどうするんだ?」
「ん…、トレーニング。鈍っちゃったら本当に何も出来なくなっちゃうから」
「あんまり無理するなよ?」
「うん」
食堂を出て、通路を歩きながらほぅとひとつため息をつく。
これから、どうすればいいんだろう。
こんなの、此処にいる人にはまず話せない。話せないからこそ、どうすればいいのかわからない。
生で殺せないなら、画面越しは?
そう思ったけど、駄目だ。シュミレーションで撃てなかった私が前線に出してもらえるとは思えない。
何をするにしたって、もうこのままじゃお荷物にしかならない。
かといっても、私の居場所は此処だけだ。里帰りしようにも、帰る里なんてない。
気が付くと、施設内のロビーのような休憩所まで来ていた。この少し先の角を曲がったところに、いつも昼寝する休憩室がある。
ガラス張りの壁に手をついて、東京の町並みを見下ろした。すぐ向こうに、ウォールが見える。ついこの間まで私はあの中にいて、そしてダリルくんはまだお仕事であそこにいる。
「どうすればいいの」
絞り出すように漏れた声音は、ひどく弱々しくて、自分のものとは思い難かった。
いく宛のない不安を抱え込んだまま、私はガラスに額を押し当てた。
こんなときでさえ、涸れた涙腺から溢れるものはない。
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