その時だった。


ぴくり、握っていた手のひらが震えた。
僕は驚いて、顔を上げた。うっすらと瞼が持ち上げられていく様が焦れったくて、込み上げる何かがもどかしくて。
月明かりを反射させて煌めく海色が、僕を見つけて微笑う。

ゆっくりと身体を起こしていく姿に、呆然としてしまって、暫く身動きが取れなかった。


深夜であることは重々承知の上だけれど、そんなの、構ってられなかった。

がたん、と椅子を蹴倒して立ち上がる。


強く、強くこの腕で、抱きすくめた。


「………ダリ、」

「ちょっと黙って…っ」


どくどく、激しく鳴り響く鼓動。胸に押し当てるようにして抱きしめたおまえには、聞こえているだろうか。


「う、移っちゃうかも…」

「移るなら移せばいい、こんなの…っ!」

「え、」

「だって、僕の…っ僕のせいで、」


ごめん、かすれた声で、絞り出した謝罪の言葉。
そんなのじゃ足りなくて、何度も、何度も、ごめんを繰り返す。


「ごめん…っ、サーシェ…っ!」

「……ダリルくんの、せいじゃないよ……」

「ごめん……!」


そっと、優しく触れた、サーシェの右腕。
包み込むように抱き返してくるそのあたたかな感触に、堪えていた涙が溢れて止まらない。


「ダリルくん、泣き虫だねぇ」

「……っ、…ふ、」

「よし、よし」


背中をとん、とんと手のひらで叩き、そこをゆるゆると撫でられる。
結晶のきしむ音がして、左腕も添えられる。


「……なんで、戻ってきたんだよ…っ」


涙声で怒っても、全然威力はなくて。
少しだけ身体を離して、サーシェの顔を見ると、柔らかく微笑っていた。

嗚呼、そんな顔も出来るようになったんだ。


「ダリルくんの、そばにいたかったから」

「…っ!」

「……お疲れさま、」


それが、何に対する労りなのか、すぐにわかって。

さっきよりも、ずっと深く腕を回して、身体を縮こまらせて、サーシェの首筋に頬を押し付けるように肩に頭をうずめた。
堪えなくていいよ、とでも言うように、優しくあたたかく抱きしめてくれる、僕の大切なひと。


僕は、ずっと、こうやってそばにいてほしかった。

ただ、それだけだったんだ。

抱きしめて、頭を撫でて、そうやって、ひとのぬくもりを、僕にも分け与えて、教えてほしかった。


「よく、頑張ったね」


頑張った僕を認めて、
誉めてほしくて、


ただ、それだけで、


それだけで良かったのに、



「アァ、──────」



叫ぶように泣く僕を、抱きしめて、撫でてくれるひとがいる。

失わなくて良かった。
この手で、守れて良かった。

傷付けて、遠ざけて、それでもこうやって、そばにいてくれた。
それが嬉しくて、少しだけ照れくさくて、素直に受け止めてくれることが、こんなにもあたたかいものだって、初めて知ったんだ。


だから、ねぇ、

もう少しだけ、甘えさせて。

僕だけのお前でいて。



声がかすれて、出なくなってきたころ。

サーシェは、僕を抱きしめる腕をそのままに、ぽつりと言った。


「やっと、さわれた」


身体そのものにこういう形で触れられることも初めてではあったけど、それよりも、もっと近くて深い何か…
心に、ふれてくれた気がした。


「おまえ…、ガリガリのくせに、思ったよりやわらかかった」

「……ダリルくんも、線細いからひょろひょろかと思ったら、案外筋肉質で引き締まってた」

「ひょろひょろって…」

「ふふ、……でも、あったかいね」


ん、と短く返して、温もりを肌で感じる。
背を撫でる手のひらが心地好くて、目を細めた。


あたたかな首筋に唇を這わせると、くすぐったそうに身を捩るサーシェ。それを、腰元を引き寄せるように抱きしめて、逃げられないようにする。


「なーに、」

「ん…」


少し腕を緩めて、蹴倒した椅子を起こし引き寄せると、腰掛けてからもう一度サーシェを抱きしめた。
鼻をかすめる消毒薬のにおいだとか、埃っぽい戦場のにおいだとか、そういうものが混ざって、いつものサーシェの匂いになっている。
いつになく落ち着くにも関わらず、いつになくどくどくと忙しない僕の心臓。安心するのに、落ち着かない。

ふと思って、肩口から顔を上げ、そのまま滑るように胸元に頭を置き、耳をすませた。ぴくりと跳ねた身体の真ん中で、とくとくと確かに響いている鼓動。


「ん?」

「……どきどき、してる」

「……?」

「…あったかい…」


懐かしく感じる、ひとの鼓動。
最後に聞いたのはいつだったろう。ママの心臓の音は、どんなだった?
パパの心臓の音は、どんなだったんだろう。知らないまま、もう聞けなくなってしまったけど。

髪の間をすり抜けていく指の感触に瞼を閉じる。
もうおぼろ気になって思い出せなくなってしまった、ママの顔を思い浮かべる。

あの人は、僕の唯一であってそうでなかった。

ロストクリスマスの日、ステイツに研修に来ていた日本人の男とデキていたママは、クリスマスに僕を置いて男の母国へ男と一緒に帰国した。
そのまま男と一緒になって塵に消えたママ。僕に向けられた愛情は、本来のあたたかくて無償で与えられるような形ではなかった。


ダリル、もっと頑張らなくては駄目よ

それではあの人に認めて頂けないわ

私とあの人の子なのだから、出来るでしょう?



ママは、僕をパパに認めてもらうための道具としてしか見ていなかった。
パパとママは、ちゃんとした&v婦じゃなかったらしいことは、今思い出してみれば分からないことでもない事実だった。

でも、でもそれでも良かったよ。
僕にとってのパパもママも、あの人たちだけなんだから。

もう、二度と戻れないけれど。


もっと、ちゃんとした家族になれていたら。
今頃、二人にサーシェを紹介していたかもしれない。

僕の、──友達?
うまく言えないけど…──そう、僕の、大切なひと。


「ダリルくん……?」


優しい声が降ってくる。
僕をぬくもりで包んでくれて、ずっとそばにいるって約束を守りに、こんなになりながら戻ってきてくれたひとが、いてくれる。


「……っく、…う、」


僕の話を、黙って聞いて、微笑ってくれるひとが、いる。


あのね、聞いて。

パパとママと、したいことがあったんだ。

一緒にディナーを食べたり、一緒にテーマパークに遊びに行ったり、読んだ本の話や、好きな音楽の話もしてみたかった。
一緒にいるだけでも良かった。3人で、家族みんな揃って、一緒に何かしてみたかった。


もう、すべて叶わないけど。



一度止まったはずの涙も、嗚咽も、溢れ出したら止まらない。

それを受け止めてくれるひとがいることが、
受け止めてほしかったひとがもういないことが、
胸に痛くて、つらくて、苦しくて、
僕はまた声をあげて泣いた。




(ばいばい、)


あの頃、あの日あのとき出来なかったことを、君とやり直すことは許されますか。
もう、無い物ねだりなんかじゃ、なくなりますか。

この手を、離さないでいてくれますか。


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