『ワクチンが足りない?』

「1つ、紛失してしまいました。すみません」


ずるずると、重たい体を引きずるようにオペレート室に向かって行ったダリルくんを見届けると、ポケットの端末を取り出して、嘘界さんに連絡した。
足元で無惨にもただのプラスチックの残骸と粉だけになってしまったワクチンを見下ろしながら、自分の責任だと口にする。
嘘界さんは、少し考えるような間をおいて、ふぅと息をつくと、そっと口を開いた。


『…………。分かりました…でしたら、ダリル少尉のサポートは他の者にやらせます。今すぐ、ここを離れなさい』

「え、」

『遠くに…そうですね、距離的には天王洲第一高校あたりですか』

「何故ですか」

『いいから、早く。貴方は、先日の怪我で直接血中にウィルスを取り込んだ可能性があります。ワクチンがない以上、安全の保証はありません。さぁ、今すぐに』

「……分かりました」


電話を切って、これから何が起こるのか分からない不安を恐怖に思いながらも、また走って空港の出口へ向かう。
駐車場から軍のバギーを1台拝借して、座席に乗り込む。シートベルトをすると、エンジンをかけてアクセルを勢いよく踏んだ。
バリケードの敷かれているそこの脇をすり抜けて、長い橋を走り抜ける。

運転技術は一応一通り身体に染み付いている。軍に来てから学び直しはしたものの、昔は車を襲ってはそのまま運転して走り逃げしたものだ。
まさか、こんなところで活かされるとは思いもしなかったけど。

その時だった。

調子外れな、心に違和感を…不快感を残す音が耳に流れ込んでくる。
遠くにうっすらと聞こえるそれは、方角的には東京タワーのほうだろうか。

なに、これ。心臓の裏側が、ざわつく。気持ちの悪い感触が、内側を這い回る感じ。
空を見ると、快晴だった空模様はどんよりと暗く、渦を描くような鉛色の雲が空を覆い尽くしていた。
いやだ。この陰りは、彼の暗い瞳を思い出す。

「!」

ちく、と頬に痛みがさして、ミラーを見ると右頬に結晶が這うように張り付いていた。キャンサー化だ。

動揺しながらも、あまり一般車の通らない公道を走りながら高校を目指した。目安がそこなのだから、とりあえず向かうしかない。
到着すると、立ち入り禁止区域ではあったものの、侵入してもバレそうになかったので旧天王洲大学の敷地内の一角に適当に駐車し、連絡指示を待った。


すぅすぅ、心の奥が冷え込むようだ。
仮初めの特別が、どんなに無力でちっとも重みの無いものなのかが思い知らされた気分だった。

それでもいい。私は、私だけは、彼を本当に特別に思っているから。


レモン味のキャンディを口に含む。棒つきのそれは、歪な優しさの形。
いびつでも、それが私の中のダリルくんそのものだ。本当に、嬉しかったのだ。

運転席で、キャンディを舐めながらひとり、膝を抱える。


ダリルくんを、思った。
近付きすぎたんだ。命を奪わない代わりに、私は彼の表情を、魂を吸いとってしまった。


大切な人には、笑っていてほしい。


すうすう寒い心の隙間に、感情を押し込める。寂しくない、悲しくない。私は、感情なき死神。簡単だ、今までずっと、そうやってやって来たんだから。

なのに。なのに、どうしてだろう。
瞼の裏に焼き付いた、優しさが消えない。舌に広がる甘みが、いつもなら心を落ち着かせてくれるのに。彼を思い出して、ちくちく胸が痛かった。


キャンディをくれた。

遠回しに、銃捌きがうまいって誉めてくれたこともあった。

怪我を心配してくれた。

必死で、名前を叫んでくれた。


誕生日のクマは、気に入ってくれたかな。

明日は何のゲームで対戦をしようか。

ねぇ、模擬戦また見に行ってもいい?


「………っ、」


じくじく、血が溢れるみたいに痛む胸の奥の奥。

だめだ、心を閉じ込めなくちゃ。そう、思うのに。
開いた腕の傷が、訴えてくるのだ。彼が、あんなにも私を思って叫んでくれたことを。


彼と過ごした時間のひとつひとつが、思い出が、忘れないでって、そう訴えてくる。
思い出せば思い出すほど、気持ちが、心が溢れて、押さえきれないよ。

不器用で、口が悪くて、喧嘩っ早くて、そのくせ寂しがり屋で、時々優しくて、きらきら笑う。
君と一緒に歩いてきた日々が、私の心をあたたかくしてしまう。

だめだ、だめだよ、これじゃ。


「わたしは、しにがみサーシェ……しにがみサーシェ…」


呪文のように唱えなくちゃならなかった。

消えて。私の心、消えて。
お願い、お願いだから。


消えてしまってよ────


ふと、端末が震えているのに気付き、手に取ると特級防疫警報発令中、というインフォメーションのメールだった。
特級防疫警報。車を降りて、外に出る。端末を開いて詳細を見れば、羽田で葬儀社がウィルスを用いてテロを行ったとかなんとか。なに、それ。葬儀社と聞いて、いくつか戦いで顔を合わせたメンバーが思い浮かんだ。
彼らは、そんなことをするくらいなら、シュウの力を使ってくるはず。おかしい。なんで、そんなことを。

そこで気が付いた、GHQ側の違和感。どうして、あのタイミングで新しいワクチンが配布された?嘘界さんは、これに私を巻き込まないよう逃げろと指示をした?
ワクチンは、人数ぴったりにしか用意されていないと聞いた。それに、旧アンチボディズのメンバー以外には配られた様子もない。

様子がおかしい。

その時、不意に耳元の通信機からざわりと、音が入ってきた。
こんなに遠く離れた場所から無線通信が入るなんて。GHQ管理下の通信回線が解放されでもしない限り、音が入るはずないのに。普段からこんな駄々漏れでは、機密まで漏らしかねないのだから。


『──……機体番号823』


ぴくり、肩が跳ねた。
ダリルくんの声。

お前は、来年も祝ってくれるでしょ

その数字の並びには、覚えがあった。


『何の番号だかわかる?パパ』


彼らしくない、落ち着いた、どこまでも感情の色を見せない声音が、通信機から直接耳に流れ込んでくる。
長官のところにいるというなら、管制塔だろうか。


『わからないの?…そう、わからないのかよ…!

8月23日は、僕の…僕の誕生日だよ、パパァァァァァァァ!
パパが!パパが一度も一緒に祝ってくれなかった、僕の誕生日だ!』


悲痛な、切り裂かれるような叫び声が、耳に痛くて、胸の奥に刃を突き立てられたみたくずきずきして。

いけない。そう直感した。
だめだよ、それだけはしちゃいけない。

ゴーチェのアームを操作する機械音がする。
がしゃん、とライフルを突き入れる音。


「だめ…やめて、ダリルくん、」

『汚ならしいんだよ、あんたたちはあああああああああああ!!!』

「っ、」


絶叫。
それは、彼の銃撃を受けた長官や、秘書のものではなく、
彼自身の、心からの叫び。

愛して、愛して。
僕を見て、僕を愛して。
そうやって、泣いている声。


銃声が、止まない。


『ひとつになりたかったんだろっ!?これで望みはかなったってわけだよなあっ!?』


通信機を、耳から外す。

しゃがみこんで、膝に顔を伏せた。
目頭が熱くなって、それを落とさないよう必死に目を瞑った。


泣くもんか。泣いてやるもんか。
私はいま、死神だから。泣く心なんて、持ってないんだから。


通信機から漏れていた銃声は、いつの間にか止んでいた。



ぼんやりとした頭で、私が今何をするべきなのかを考えた。
じくじくと痛む左腕を抱きしめながら、何が最善なのか、足りない頭で必死に考えた。


ぱたぱた、足音がして、そちらを見る。
天王洲高の生徒らしき人が三人、大学敷地内の古びた建物に入っていく。髪を二つ結びにした女の子と、くすみがかった金髪の長身の女の子、何やら鞄を肩にかけた黒い短髪の男の子。
こんな状況で、避難もせずに何をしに来たんだろう。

私の反対側から、また建物に入っていく長身の男の子。私服姿だ。

気配を消すようにして近付いた。


建物内から、見覚えのある白い光が放たれる。
これは…シュウが、ここにいる!

近付くと、声が聞こえた。

「だけど、僕が涯やいのりを助けたいのは、そんな立派な理由じゃないんだ」

「……どういうことだ?」

「僕が涯たちを助けたいのは、彼らが僕を信じてくれたからだよ、谷尋。葬儀社の皆がいなかったら僕はいなくていい人間だった」

シュウが、さっきの生徒たちに、羽田にいる仲間を助ける手伝いをしてほしいと頭を下げた。

「みんなの力を、僕に貸してください!」

いなくていい人間だった。その言葉が、やけにしっくりと心に響いてくる。


「……私、行く」


一番弱そうな、華奢な二つ結びの女の子が、小さな声で大きな意思を伝えた。
次々と、全員が賛同していく。
シュウの顔が、綻んだ。ありがとう、と微笑う。

私は、心を決めて、その中に割って入るように声をだした。



「待って」

「「「!!!」」」

「サーシェ!…さん、」

「呼び捨てでいいって、言ったよね。シュウ」



全員が、ばっ、と私を振り返る。
私は、やんわり笑んで、また一歩足を進め近付いた。

そこに、丸っこい白いロボットが滑り込んできた。


『っあんた、GHQの人間だよね!?』

「えっ!?」

「嘘だろっ」

『何か用?…それとも、今の、聞いてたの?』


見るからに威嚇してくるロボット。シュウが、仲裁に入るようにして声を上げた。

「この人は、サーシェ。確かに、GHQの人間だけど…違う。
…なんだか、変わったね。サーシェ」

「わかる?」

「笑えるように、なったんだ」

「うん。…大切な、ひとのおかげでね」

いま、誰よりも遠くに行ってしまったひとを思い浮かべながら、目を細めた。
二つ結びの女の子が、びっくりした顔で高い声を出す。

「待って!この人、怪我してる…!」

『ばか、敵だよ!』

「ツグミ、敵じゃないよ。…多分。そうだよね、サーシェ」

左手から滴る血を見て、救急箱を探し始めた女の子。優しいんだなあ。また、微笑みが漏れた。シュウの言葉に、頷く。


「君たち、羽田に行くんでしょう」

「!あなた、やはり今のを…」

「と、止めても無駄だからな!俺たちは行くったら行くんだ!!」

「止めないよ。

私も、一緒に行かせて」


ぴくりと反応した金髪の女の子、怯えながらも叫ぶように言う黒髪の男の子。
私の言葉に、一番驚いた顔をしたのは、シュウだった。


「私も、羽田に、大切なひとがいる。今の私じゃ、無力で…なにもできなくて、ここまで逃げろって言われて、来たの」

「………つまり、あんたの目的はなんだ」


私服姿の男の子に睨み付けられて、私は、そっと口を開いた。



「会って、話したい人がいるの。一緒に行かせてほしい」

「……サーシェ」

「なに、シュウ」

「…その、大切な人は…君に、表情をくれた人?」


「そうだよ。私は、彼と話して…また、一緒に笑い合いたい。


心の底から、あの頃のままで時間を止めたいと思うほどに」



たとえ、すれ違いばかりのいびつな関係だったとしても。
私にとっては、彼と過ごしてきた時間が、なにものにも代えがたい、大切で大好きなものだから。




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