「───……、……サーシェ」


名前を呼ばれた気がして、うっすらと瞼を開くと、ぼやけてよく見えなかった。ぱちぱち、と数回瞬くと、まだ輪郭ははっきりしないけれど、そこにいるのが誰なのかが分かった。


「………ロー、ワ、」

「まだ喋らなくていい。麻酔が抜けたばかりだろ?」

「……ん……」


そっと頭を撫でられて、目を細める。きもちいい。
まだ、瞼の裏には暗闇に眩しい炎の赤がちかちかとするのだけど、銃撃兵として出撃したときほどの目の疲れはない。暫くすればはっきりと見えるようになるはずだ。


「医師によれば、出血が酷いだけで骨にはそこまで損傷はなかったらしい。運が良かったな」


こくりと頷くと、「一週間もすれば完治するそうだ」と微笑むローワン。一週間か、長いな。まさかこんなところで怪我するはめになるとは思ってなかった。
あの一瞬の出来事が脳裏を過る。駆け出すのでは間に合わないと思った私は、火の中に飛び込む勢いで転がり込んだ。ぺしゃんこになるよりかは助かる確率があると思ったから。結果、ぺしゃんこになるのは避けられたけど、利き腕を鉄屑に一瞬挟まれ、引っ掛けた。
そうしてふらふらで建物を出た私は、嘘界さんが回してきてくれた車に乗って、転がった拍子に抜け落ちて無くした通信機の代わりに嘘界さんの通信機を借りて、本部に連絡をしたのだ。あのあと、通信を切った直後に意識をなくしてしまったので、どうやって運ばれたのかは覚えていないけれど。
麻酔が抜けたばかりとはいえ、まだ微妙に感覚が戻っていない。身体の所々に違和感は感じるものの、痛くはない。多分、怪我と、火傷。これ、あとで痛くなるのかな。…やだな。


ふと、意識をとばす直前に心配そうに名前を呼んでくれたひとを、ぼやけた視界に探す。ゆるゆると瞳を四方にやるけど、どうやらいないようだった。


「少尉か?」

「………ん、」

「……来ない、って」

「…………」


苦笑を浮かべて、また頭をくしゃりと撫でてくれるローワンを見上げる。

それを聞いてまず思ったのは、なんで、だ。
なんで、ダリルくんは来てくれなかったんだろう。そんなに、眠かったのかな。エンドレイヴを操縦した後は、精神的疲労が強くて、すごくだるく、そして眠くなるんだって言ってた。
エンドレイヴで、ふつと思い浮かんだ光景。耳の奥にまだ残る、彼の叫び声。


「………ダリル、くん…けがは?」

「ん?無いよ?ただ、ヘルメットがデータ処理に追い付かなくてオーバーヒートして、火を吹いたんだ。頭を冷やしておくように、一応保冷剤は渡しておいたけど」

「………よか、た…」


ほ、と息をつくと、口に嵌められたマスクが白く曇った。
ローワンが目を細める。優しい眼差し。お兄ちゃんがいたら、こんな感じなのかな。ダリルくんは兄弟がいないから、こういうことは聞けなかった。


「サーシェは、よく笑うようになったな」

「……?」


ローワンが、突然そんなことを言った。なんの話だろう?変わった、って言いたいのかな。そういえば、本部を出る前に嘘界さんにも言われたっけ。


「ここ最近は、よく表情が出せるようになったよな」

「………そ、う?」

「うん。前はうっすらと、ちょっとぎこちないくらいだったけど…いまは、綺麗に出せるようになった」

「…………ん」

「良かったな」

「…………ん、」

「ずっと、欲しがってたもんな…表情」


ローワンの笑う顔は、私、すき。あったかくて、優しさがじんわりと伝わってくるから。
ローワンはいつも、私に笑った顔を向けてくれる。今までの私は、それを無表情で見つめ返すしか出来なかったけど、もう違う。笑い合う≠アとが出来るようになった。


右手首には点滴が刺さっているので、包帯でぐるぐる巻きになったまだ動かせない反対の手を伸ばす。そっと手をとって、やんわりと握ってくれた。

ぬくもりを感じる。ダリルくんのそばでは、感じることのないぬくもり。


「サーシェは、少尉が好きか?」

「………うん」

「……そうか。最近、仲良いもんな」

「…………」


そう言われて、目を附せた。ほんとうの、仲良しとは違う。私は、彼に心から必要とされて一緒にいるわけじゃないから。
私は、彼が大切で、彼が必要で。彼のそばにいるから、心も豊かになるし、表情だって出せるようになれた。
でも、彼とはすれ違ってばっかりだ。彼が、ダリルくんがほんとうに見ているのは、私じゃない。私の向こうにいる、ホンモノの特別>氛沐゙のお父さんだ。


「サーシェは、誰が好き?」

「………ダリルくん、ローワン…嘘界さん。あと、ちょっと、ダンさん」

「ふ、あの人も?」

「ん。なんで、みんな…そう言うと、笑うのかな」

「君は本当にいい子だよ、サーシェ」


手をついて、身体を起こそうとすると、ローワンが背中に手を差し入れて手伝ってくれた。
ふう、と息をついた。少し苦しくなって、マスクを外す。呼吸はもう、安定していた。


「………サーシェ」

「ん…?」

「今から、大事な話をする。よく聞いて」


急に真剣味を帯びた彼の声色。聞き逃してはいけないと、しっかり目を合わせて耳を傾ける。


「明後日の任務についてだけど────君は参加しない。いいね」

「え、」

「任務については聞いた?」

「ううん」

「明後日、ヤン少将が緊急帰国する。あるアイテムを持ってね」

「アイテムを…?」

「そのアイテムを、葬儀社が狙ってやって来る。その守衛及び撃退だ」

「…、なら、私も、」

「君は参加しない。怪我があるだろう」

「撃てるっ、」

「片手じゃ無理だ」

「無理じゃない」

「駄目だ。認めない」


こんな頑ななローワンは、初めて見た。
私が常識の欠片も覚えていなくて、小さなことから教えてくれた彼。私が失敗して間違えたときは、叱ったりしたけど、ここまできつく、強く言葉を発したりしなかった。

しょぼくれて俯いていると、少し柔らかくなった声がそうっと続きを話す。


「でも、じっとしているのは苦手だろう?」

「………うん」

「当日は、少尉のサポートに当たってくれ」

「……ダリルくん、の?」

「あぁ」


やることはいつもよりずっとおとなしいものになるだろうけど、病室でじっとしていろと言われるよりましだと思い、頷いた。
ローワンはそれを見ると、優しい眼差しに何処か陰りのある鋭さを添えて、すぅと感情を押し殺した表情になる。まるで、仮面をつけたように。



「明後日、すべてが変わるだろう」



私は、その言葉の真意が掴めなくて、小首を傾げて見せる。

ローワンは、聖書の文を読み上げるような厳かな声音で続けた。


「この国も、俺達も。みんな、変わるだろうから」

「……変わる…?」

「だから、君は、そのままでいてくれ」


私は、気付いた。このひとは、仮面を被るのが下手だ。
はらはらと仮面が崩れ、剥がれていくのが見えるようだった。先程までの鋭さは、その瞳にもうなくて、そこにあるのは、切望するような、懇願するような、必死な、優しさ。



「サーシェは…優しいままの、サーシェでいてくれ」



握られたままだった手。彼のもう片方の手が重ねられて、そうして、包み込むように握られる。
彼はその手を額に押し当てるようにして、顔を伏せた。いま、どんな表情でいるのか、私の瞳には映らない。



「どうか、」



その言葉の続きは聞けなかった。聞こえなかった。唇が動くだけで、空気は震えない。

私は、右腕をほんの少しだけ動かして、彼がいつも私にそうするように、くしゃりと頭を撫ぜた。
私はいつも、これをされると落ち着く。安心できる。だから、彼も、安心できるように。




***




朝が来て、次の日になった。

寝るのは好きだけれど、一日中眠ることは出来なかった。幼い頃の環境が、そうさせた。
何日も眠れない日が続くこともあった。眠れても、銃を握りしめたまま、震えていた。眠りは、恐怖だった。



「………暇だなー…」



ぼやいてみても、私以外誰もいない病室じゃあ相手をしてくれる人はいない。せめて今日一日はおとなしく療養していろとローワンに言われたのだ。
肘から先を包帯で白く染めた左腕を見る。怪我の上から火傷を負ったこともあって、まだうまく感覚が戻らない。力もちゃんと入らなくて、引き金を引くどころかこれでは銃を握ることすらできそうにない。


「キャンディ…」


ローワンが置いていってくれた個包装のキャンディの袋をごそごそとまさぐり、ひとつ右手で手繰り寄せる。なんとか片手でセロハンを外し、口に放り込んだ。
これじゃキャンディひとつ食べるのも苦労してしまう。利き手が使えないとは、予想以上に不便だ。

最近はダリルくんがくれた棒のついてるキャンディばかり食べていたから、口の中だけで転がるキャンディは少し懐かしいと思わせた。

ダリルくん、今は何してるかな。トレーニング?模擬戦?
何もできないならせめて、ダリルくんの模擬戦見たかったな。彼がエンドレイヴを操る様は本当に清々しいほど一体感があって、見ていて楽しくなるのだ。それは、シュタイナーを奪われゴーチェに機体が変わっても変わらない。さすがはエースパイロットである。


「……………、」


怪我をして、少し心が弱っているのかもしれない。さみしい、と感じているような気がする。
ダリルくんに会いたいなあ。彼が横にいるときに眠ると、とても心地好い睡眠が取れるのだ。

あの時、ダリルくんが私の名前を呼んでくれていなかったら、身体が動かずそのままつぶれていたかもしれない。すごく独りよがりではあるけど、お礼が言いたかった。


掛け布団を被って横になる。暇ならしょうがない。寝よう。
病院だから、暇潰しに端末をいじるのも出来ないし。つまらないなあ。
枕に顔を埋めるようにして、瞼を閉じた。



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