「…っ、お前!」

「あ、少尉」


無我夢中だった。なんで走ってるのか、自分でも分からなかった。
多分、僕がいることに気付かれて逃げられるのが、嫌だったのかもしれない。

だけど、僕の予想は外れて、あいつは逃げることもなく、クマを抱いてベンチに座ったまま僕を見ると、呑気に返事をした。


「……っ…、こ、こんな時間に、そんなもん抱えて…何やってんだよ」


時刻は、とうに夜の9時を過ぎていた。

走ったせいで切れた息を整えながら、戸惑いと驚きと、今まで逃げられていた分の怒りがない交ぜになったようなぐるぐるした気持ちで、話し掛ける。
ねっとりと湿気を帯びた夜風が、上気した僕の頬を撫でていく。ぬるくて、なかなか冷えそうにない。

そいつは、抱えたまま立ち上がると、クマを持ち直して僕に突き出した。


「はい、少尉」

「…は…?」

「誕生日、おめでと」




え、




「用意したはいいけど、いつ渡そうかなって思って。長官との食事より先に渡しちゃったら、楽しみが薄れちゃうかなと思って、明日にしようかと思ったんだけど。
なるべく、今日のうちに渡したいと思ったら、レストランがここの近くだって聞いたから、出てきたら渡そうかなって、だから、待ってたの」

「………待って、た?」

「うん」


クマの脇から、ひょこりと顔を覗かせたそいつは、にっこりと微笑う。


「なかなかね、何あげようか思いつかなくて…昨日、やっと決められたんだ」

「………まさか、ここ1ヶ月…」

「うん。秘密にしたくて、ばれないようにって少尉から逃げてた。びっくりした?」

「………びっくりも、何も…」


なんで、クマなんだよ。そう言ったはずの声は、掠れていて。


「このクマね、目が紫のガラス玉なんだよ。少尉みたいだなと思ったら、買わずにいられなくて。
可愛いでしょ?昨日教えてもらったんだけど、いま人気なブランドの……


少尉?」


頬が、熱い。
熱のかたまりみたいな滴が、眦からこぼれ落ちて、頬を伝って、顎から落ちていく。
次から次へと溢れて、止まらない。両手で顔を覆っても、指の隙間から溢れだしてくるそれ。
次第に、堪えきれなくなった嗚咽が洩れ出して、暗く静かな海辺の波の音に混ざって、掻き消されていく。


「……少尉…?」

「……っ、…っく……、ひ、」

「…ごめんね、クマ、嫌いだった…?」


違う。そうじゃないよ、ばか。

悪態もつけない。代わりに出てくるのは、弱虫みたいな泣き声だけ。


さっき内側で膨らんでいた暗く重たい水溜まりが、ろ過されて透明になって、目から溢れてくるようだった。
どんどんどんどん溢れて、止まらない。


たった一人。


ひとりだけ、僕を待っていた、ばかなやつ。


クマを渡して、おめでとうの一言を言うためだけに、1ヶ月も奔走して、こんな暗いなか待っていたばかなやつ。



ばかなやつ、だけど。



「少尉、泣かないで」



クマをベンチに置いて、そうっと僕の顔を覗き込んでくる。



「えっと……、泣かないで…、」

「それしかっ言うことないのかよっ」

「ごめ、ごめん…泣いちゃうと、思わなくて…」



珍しく、慌てた様子のそいつ。
すこし、落ち込んでいるように聞こえた。



「少尉、私にいろんなものをくれたでしょ?だから、私も、何かあげたかったんだけど…

やっぱりお菓子とか無難なものにすれば良かったかな…あ、少尉に何がほしいか、聞けば良かったのか…でもそれじゃ、びっくりじゃなくなっちゃうし…えっと…えっと…、……わっ」


「うるさい……ばか……っ」



ひどく、あたたかくて。

かちこちに冷え固まっていた、胸の内側が、ぬるま湯で溶かしほぐされていくような。
溺れてしまうんじゃないかって、怖くて遠ざけてたそれが、僕の内側を、ひどくあたためていく。


腕の中のぬくもりは、たしかにひとの体温、そのもので。


「……あのね、少尉に、喜んでほしかったの……

嬉しい?」


抱き寄せたぬくもり。あやすように、ぎこちなく背中を撫でてくる。
細っこい肩に顔を埋めて、ひたすらそのぬくもりを感じた。


嬉しくって、胸の奥が張り裂けてしまいそうだった。


苦しくて、苦しくて、息ができない。
こんなに嬉しいのに、息苦しくて、つらくて、涙が止まらない。


ねぇ、


「サーシェ」


ぴくり、体が震えた。

離したくなくて、ぎゅうと更に力を込めて抱きしめる。


「ねぇ、サーシェ」

「……なぁに、」

「……おまえ、おまえさ、


僕のこと、すき…?」


だいすきだよ、と返ってきた言葉に、またあたたかい何かが溢れていく。
満たされていく。


空っぽだったのは、僕の方だ。



「……君は、私のこと、

すき?」



すき。すきだ。だいすきだよ、



認めてしまったら、今まで築き上げてきた自分が崩れてしまうような、そんな予感がしていたのかもしれない。

だけど、それはすこし、違っていた。

崩れたんじゃない。
僕が今まで、知らないうちに纏っていた鎧を剥がしてくれたんだ。

固い固い鎧の内側で、ひとりぼっちでうずくまっていた僕のそばに、来てくれたんだ。


「サーシェ、ねぇ、サーシェ」

「うん」

「ねぇ…だいすきだよ、一緒にいてよ、」

「うん」

「ずっと…ずっとだよ、一緒にいて」

「一緒にいるよ」

「絶対、絶対だからね」

「うん、ずっと、一緒にいる」

「約束、だからね…っ」


うん、



ちいさく、単調な声で告げられた、返事。
僕らの約束=B

冷えきっていたそこに、ひだまりが差すように。

あたたかい羊水の中で、揺られているような。
幼い、幼い頃に感じたことのあるような、懐かしいぬくもりに、僕はただただ、嗚咽を洩らしながら泣いていた。



「私は、君のそばに、


ここに、いるよ」



ママが死んでから、10年。


僕は、たったひとりのぬくもりに包まれながら、
17歳の誕生日を迎えた。

プレゼントは、大きなクマと、祝いの言葉と、
たったひとつの約束だった。



こうふくの
(それは、ずっと僕がほしかったもの)



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