「少尉ー」
間延びした抜けた声がして、それが誰なのかも分かって、敢えて返事しなかった。僕にこんなふうに話し掛けてくるのはこいつくらいだ。
通路から、海を眺めていた僕の横にやって来た死神。あのあと、一応施設に戻って検査を受けると言っていた。そこまで着いていくつもりもなかったので別れたけれど、いつもの私服姿でいるってことは退院になったんだろう。僕と同じ、異常なし、だ。
さっきまでの変な様子もどこへやら、いつも通りのふにゃふにゃした眠そうな目をした無表情のそいつがいた。呑気に「海?」と単調な声音で問うてくる。見てわかんないの、と素っ気なく返した。
「もう夕方だね」
「退屈ったらないよ。謹慎は解けないしさ」
「遊びにも行けないね」
「別に…」
「海…行きたいの?」
「行くもなにもすぐそこだし。ていうかさっき行ったし」
「そっか」
「何か用?」
「んー」
「無いなら消えて。毎度ながら鬱陶しい、お前」
用もないのに、ひたすらついて回るのだ、こいつは。下手なストーカーより質が悪い。
まあ、最近それに慣れて許してしまっていた僕も、ちょっとおかしかったけど。
「あのね、少尉」
そう言うと、突き出された手。いつも食べてるくせに、今日は食べてないロリポップキャンディ。
なんだよ、と返せば、あげる、と言われた。それ、もとは僕があげたものなんだから、あげるという言葉はおかしいだろ。返す、が正しいはずだ。でも、死神はそんなのお構い無しに、手出して、とまたそれを突き出してくる。
仕方無く手を出せば、ころんと手の上に落とされたそれ。レモン味。
「少尉は、レモン味」
はた、として、死神を見やる。
微笑っていた。
私はまだ、少尉のことを知らない。だから、何味かわからない
知りたいんだ、君のこと「癖が強くって、皆に好かれなくて、ひとりぼっち。フルーツなのに、酸っぱくて仲間外れなレモンと一緒」
「っおま」
「でも。キャンディのレモンはほんのり甘い。そっと優しい少尉と、おんなじ」
「…………、」
「色も、少尉のブロンドと似てる」
ね、当たってるでしょ?
そう言って首を傾げた死神。右目を隠していた前髪がさらりと落ちて、海色が覗いた。
「………これが?」
「うん」
そう言って、オーバーオールのポケットから、またひとつレモン味のロリポップキャンディを取り出すと、パッケージを剥がしてぱくりと口に含む。
にんまり唇を弧に描いて、微笑う。「美味しい」と。
目の前で、僕だと言ったキャンディを食べている。不思議な気分になった。なんとなく、気恥ずかしい。
無造作に軍服のポケットに飴を突っ込むと、死神から目を逸らして、また海を見た。
夕陽の光を受けて、蒼暗く光る波。きらきらと光の粉を散らすように、波の其処此処が煌めいている。
「私、少尉、好きだよ」
ぎょっとして死神を見た。
いきなり何を言うかと思えば。
けど、死神も、ガラスに手をついて海を見てるから、僕の驚愕の表情には気付いていないようだった。
「は?お前が?僕を?」
「うん」
「…好きなの?」
「好き」
初めてだった。好きだと言われたのは。
僕を、僕自身を見て、好きだと言ってくれるやつは、初めてだった。
いつも、皆、僕のパパのことで頭がいっぱいで、僕に見向きなんてしなかったから。でも、別にそれでも良かった。だって、パパは立派だから。尊敬するのも訳ないよ。
僕を、面倒だって言って遠巻きに見るやつらより、ずっといい。
でも、やっぱり、心の何処かで寂しく思っていたのは、間違いないんだ。
「私、ずうっとレモン味食べてるの、気付いた?」
「え、そうなの?」
「そうなの」
「うわ、それはそれでなんか嫌だな」
「だって、美味しいよ。好きな味」
そう言って、ふんわり微笑う死神の顔が、ガラスに写る。
こいつは、気付いているだろうか。いま、自分は自然と感情を表情に出せていることに。
「……お前の味は、分かったの」
あまり意識せず、口に出していた。
すると、きょとんとした顔で死神が僕を振り返った。
「……あ…」
「?」
「………わかんなかった」
ふ、と無表情に戻って、俯きながらそう呟いた死神。
自分の味を探す参考とかで人の味決めてたんじゃなかったのか。
「少尉は、私って何味だと思う?」
「知らないよそんなの」
「えー」
からころ、からころ。死神が言葉を紡ぐと、キャンディが歯にあたるくぐもった音もリズミカルに響く。
かと思えば、今まで舐めていて少し小振りになったそれを取り出して、じっと眺めている。
「……レモンは、すき≠フ味」
「え?」
それをまた口に入れると、オーバーオールのポケットを漁り出して、わしづかみにすると手を出して、広げた。ロリポップキャンディとそうでないセロハンのキャンディがごちゃごちゃ混ざっている。
ひとつひとつつまみ上げながら、示すように小さな声で味≠言っていく。
「メロンは、やさしい≠フ味。グレープは、不思議≠フ味…アップルは、あったかい≠フ味、ストロベリーはすてき≠フ味」
「……何それ」
「皆、私が持ってる味…」
どういうこと?
怪訝な顔をしてみせた僕に、死神は見向きもせず淡々と言う。
「この味の人たちの、個性。私が、その人に感じた味」
「………」
「味の数だけ、私の中に心があるって、こと」
もう片方の手を沿えて優しく包み込むように握る。胸の奥に、心に溶かすように、抱きしめた。
「私の味はわからないけど、私を表現できる味なら、たくさんあった」
綻ぶ、表情。
知ってる?お前、そんなのなくったって、もう…
「私にも、あったよ。ホンモノ」
僕は、僕に笑いかける死神から視線を外して、あたたかい色に変わった海をまた眺めた。
ひとり、部屋に戻って、また窓辺に寄って、さっきより少し薄暗く、つめたい色になった海を見た。
死神、だと。
表情も、体温もない、ただ命を狩るだけの、生きたエンドレイヴみたいな奴だと、思っていた。
だけど、さっきあいつは、笑った。僕に話し掛けて、キャンディを押し付けて、どうしようもなくくっついてきて、かと思えば、ひとり休憩室で眠ってる。
過ごす時間を共有するようになって、それが増えていけば増えていくほど、あいつは、思ったようなやつじゃなくて、ちゃんと生きた人間なんだって、思うようになる。
人間が、僕のそばにいるんだって、思うように、なる。
煩わしかったはずのそれは、いつの間にか突然なくなると調子が狂うほどに、僕の中に居座り始めていて、よく知らない気持ちになる。
すき、だなんて、言ってやらないけど。
僕も、段々と、あいつの存在に、ほんの少しずつだけど、心を許しているような気になってきて。
まだそれは、あいつには教えてやりたくない。教えてやるつもりは、ない。
ポケットから取り出した、僕の味だというロリポップキャンディ。
包みを剥がして、ぺろりと一口、舌で撫ぜた。
「…………あっま、」
柑橘類の、爽やかな香りが鼻を霞める。
これが、僕の味。
ちょっとの間見つめて、思い切って口に入れてみる。
甘いと思ったそれは、少しの酸味が舌を刺すように刺激して、それをじんわり溶かすように甘さが広がっていく。
すん、と鼻から抜けるような匂いに、ぼんやりと瞬いた。
眼下に広がるのは、あいつの瞳みたいな色をしたたゆたう大地。
僕は思わず、あいつが変わらず下手なまま口ずさむ鼻唄を、正しい旋律で歌った。
あのあと、何回か聞いてみたんだ。やっぱり思い出す旋律は、要所要所の音を外していて、格好悪いけど、そうやって抜けてるところが、あいつらしいな、なんて。
今度、嫌がらせに目の前で正しい方で歌ってやろうかな。
悪戯をひとつ。それをしたときの、あいつの表情を思い浮かべながら、また揺らぐ蒼を見た。
君の好きな歌を口ずさむ(すき、だなんて。言うもんか)
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