沢田綱吉が死んだ。 パフィオペディラムじゅうが湧いたその報せをもってしても、南羽無の表情を変えるには至らなかった。 ある日を境に殆ど口を利かなくなってしまった彼女の私室の扉をノックする、白髪に頬の三叉痣の目立つ男がいる。 「羽無〜ただいま!寂しい思いさせてごめんね〜これでもやることやってすぐさまジェット機乗って帰って来たんだよ?羽無に会いたくて会いたくて、僕もう胸が張り裂けそうだった」 流れる川のごとくすらすらと言葉を並べ立てるこの男こそ、かの沢田綱吉が打ち倒さんとしていた白蘭その人であった。 キングサイズのベッドの真ん中で、ネグリジェ1枚で座り込む羽無の傍にぼふりと腰を落とし、熱いハグとキスをひとつ。白蘭は彼女の長く伸びた髪の一房を手に取り口付けながら、紫陽花色の瞳を細めて唇を尖らせた。 「……確かにね、僕がいない間は極力部屋から出ちゃダメって言ったけど、鍵開けたままなのにこんな薄着でくつろいでちゃダメだよ?何処ぞの術師が僕のフリして羽無を襲わないとも限らないんだから」 露わになっている細い肩の曲線を左手の指の背でなぞりながら、彼女の瞳を覗き込む白蘭。べっこう飴にも似たヘーゼルの瞳は彼を見透かし、どこか遠い虚空を見つめている。焦点が合わないのを分かっていながらにっこりと微笑む彼を気味悪がる者は、今この部屋にはいない。 「みてみて、ジャジャーン!はい!お土産だよ」 白蘭は後ろに隠した右手に持っているものを羽無に手渡した。それは茜の花束だった。淡い白と黄緑の小さな五弁花のかたまりを手渡されたところで、彼女の瞳はきらりとも輝かない。 「ジャッポーネは今秋なんだね〜涼しくて過ごしやすかったよ。羽無もそろそろ故郷が恋しくなるかと思ってさ、日本の花にしたんだ!僕ってば気の使えるいい男だよね〜」 羽無は軽口を叩く白蘭の言葉を聞いているのかいないのか、暫し花束を見つめてからすっくと立ち上がり、部屋中央のテーブルに積まれた本の中から一冊を手にとった。表紙には、「世界の花言葉図鑑」と書かれている。 「そうそう羽無、綱吉クン死んだよ」 テーブルの上で図鑑を広げる羽無の背中に、からりと白蘭が笑いかけた。笑顔とは裏腹に残酷な言葉。ページを捲る音が止まる。 「そしてね、なーんと葵チャンがミルフィオーレに加入したよ!綱吉クンの命を手土産にね。いやーいい腕してるねあの子。腕っていうより度胸?」 ぱちぱち。ただ一人拍手する乾いた音が部屋に響く。 「また何か企んでるんだろうね。これから忙しくなっちゃうなあ。まったく、早いとこトゥリニセッテを手にいれて世界まるごと僕のものにして、羽無とまばゆいイチャイチャラブラブライフを送りたいだけなのにな〜」 白蘭はそう言うとベッドから立ち上がり、壊れ物に触れるように羽無を腕の中に閉じ込めた。彼女のつむじに口付けて、頬を擦り寄せながらぽつりとこぼす。 「邪魔なものは早く消さないと」 羽無は動かない。動けない。 彼女の耳裏にキスを落として、ひらひらと手を振りながら「お茶の用意するから、着替えて僕の部屋おいで」と出ていく白蘭を見つめるので精一杯だった。 彼女の心には空洞がある。ぽっかり空いた大きな穴が。彼女の心は、最早その穴を形作る輪郭を保つことしかできない。 喜びも悲しみも感動も激情も何も呼び起こらない。時折あったはずの感情が震えるのを感じるけれど、錯覚でしかないそれに追従する四肢の動きはない。 表情筋は衰え頬が痩けた、白蘭はそれを誤魔化すように彼女に甘味を含ませる。 何より心を豊かに表現するはずの声は、もう仮初のものしか自分には出せない。それが、一番の自分の枷になっているようだった。 白蘭の温かい手が触れる度、以前何か生ぬるい温度に触れられた感触が蘇る。むしろ白蘭はそれを分かっていて、自身の温もりで上塗りしようとしているように羽無は感じた。 抱きしめられたときの腕の絡み方も、膝に乗せられた時の太腿の肉づきも、自分は白蘭のそれではない何かを知っているようだった。 ただ、そう感じるだけで、その正体がなんなのかを探りたいと思う好奇心や不安感は、今の彼女には持てない感情だ。 「“わたしを思って”」 以前もらった花束は、ワスレナグサとシロツメクサだった。 その前はパンジーとクローバー。桔梗とリンドウ。 ナズナに藤。ハナミズキと赤いアネモネ。満開の胡蝶蘭。 “わたしを忘れないで、わたしを思って” “わたしのものになって、わたしを思って” “悲しんでいるあなたを永遠に愛する” “あなたにわたしのすべてを捧げます、決して離れない” “君を愛すわたしの思いを受けて” “あなたを愛しています” 繰り返される愛の言葉は、呪いのように羽無の心を蝕んだ。 本当の自分も記憶も求めてはならない、ただ傍に寄り添い愛を受け続けろ、そう耳元で囁かれるようだ。 そして彼女は今日も、鍵の空いた牢から出られない。 [prev] [next] back ×
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