私は昔から難しいことを考えるのが苦手だった。
それは単に頭が悪いとかそういったものではなくて、例えるなら愛の定義や生きる意味や存在理由やそういったあやふやで誰も答えに辿り着かないようなそんなものについて考えるのが苦手だった。
だから私は今日もいつものように特に考えもせず、会いたいから一緒にいたいからその温もりを感じると安心するからといったある意味己の欲望に忠実に従って見慣れた大きな木製の扉をノックした。
中に入ろうとしてやめた。ノックする前に気づけば良かった。扉越しに喘ぐ知らない女の声がした。一瞬頭が真っ白になって、途端に気分が悪くなって頭がくらくらしてきて、私はふらふらよたよたと覚束ない足取りで自分の部屋に戻った。
別にベルは私の恋人って訳でもないし、ベルがどんな女と体を繋げていようが関係ないし、ベルがその女を性欲処理として使っていようが本当に愛していようが私には興味も何もないのに、どうしてこんなに気持ち悪いんだろう。頭が痛いんだろう。おかしいな、私さっきまで談話室でルッスーリアお手製の焼きたてクッキーつまみながら美味しい紅茶を飲んで、任務から帰ってきたマーモンと少し雑談をして部屋に戻って来る前にスクアーロに貸りてた本返して、部屋戻ったらなんかつまんなくてそうだいつもみたいにベルとゴロゴロしながらどうでもいい中身のないただの会話をして暇潰しをしてこようって思い立って元気に戻ってきたばかりの私室を飛び出した筈なのに。
「クッキー食べ過ぎたのかな…」
嘘。クッキーは8枚しか頬張らなかった。ベルにあんま食ってっとデブんなるぜってからかわれたから少しは控えようといつもは17枚食べるところを頑張って8枚に抑えたんだ。目の前の香しい誘惑に紅茶で我慢しながらもきゅうとお腹が鳴っていたのも覚えてる。
それにこの気持ち悪いのは胃のもう少し下辺り?上辺り?とにかく胃袋とは違うところから来てる。そんな気がする。
お腹がぐるぐるしてる、そんな感じの気持ち悪さ。こめかみ辺りから鈍痛はするし、息をするのもつらい。
じゃあなんだ、あれか、クッキーに毒盛られたのか。いや、ルッスーリアはそんなことしない。いつも私とのティータイムを楽しみにしててくれるもん。私が美味しいって頬張るお手製のお菓子に、次は何が食べたい?って聞いてくれるくらい機嫌を良くしてくれる。考えてみたって毒盛る動機なんて見当たらない。
部屋に戻って真っ先に飛び込んだふかふかのベッド。その真ん中で小さく小さく蹲る。
あれ?今度は息苦しさに加えて胸が痛くなってきた。なんでだ?苦しい、痛い苦しい、なにこれ、なんだこれ。
私はおかしな病気にでもなってしまったのだろうか。気持ち悪い、頭痛い、息できない。当然声も出せなくて、嗚呼明日任務あるのに。ペアは久しぶりにスクアーロだったからちょっと楽しみだったのに。ベッドで冷たくなってる私に気づいたらなんて怒られるんだろう。怒るかな、それとも、それとも。今度は体だけじゃなくて頭の中もおかしくなってしまったらしい。
苦しくて苦しくて、眠ったら良くなるかなと思ったけど眠ったが最後二度と瞼を開けないようなそんな気がして怖くなって、自分を抱き締めるようにしながら縮こまってただただ襲い来るこの得体の知れない不快感に耐えた。
なんで、なんで。こんな風に色々考えるのはやっぱりどうも苦手だ。殺し屋になったのも、単純作業で済むしテクニックも体が自然と覚えていくからっていういかにも短絡的な単純なそれだけの、考えなくて済むってそれだけの理由。
いつになったら治るかな、これ、一回吐いたりしたら良くなるかな。あまり上品ではないけれど、でもこの感じが今すぐ消えるならそれでもいいと思うの。だって、だってすごく苦しい。いつも私が殺してる相手はこんなふうに、ううんもっと苦しい思いをして死んでいくのかな。嫌だな。殺し屋だけど、死ぬのはいやだな。
誰かそばにいてくれたら少しは気が楽になるかな。携帯がちょうど枕元にあって、手を伸ばした。だるくて重い腕に必死に力を込めて、発着信履歴の一番上の番号にリダイヤル。誰でもいい、今すぐそばにいてくれる人がほしい。
ぷるるるる、少し長く呼び出し音が続くから、かけ直そうかと思ったけどそんな余力ない。出て、誰か分からないけど出て。声を聞かせて。
今更だけどもしこれボスだったりしたら私どうすればよかったんだろう。素直に部屋来てくださいって?言えるわけないじゃん!!
すると、長い長い呼び出し音が鳴りやんで、電話越しに向こうの呼吸音がして、ほんの少しほっとする。
『もしもーし』
「っ!!!?」
泣きたくなった。よりにもよって、繋いだ先は、件の王子の携帯で。
だけど、耳を済ましたらベルの呼吸音しかしない。誰かの呼吸音も、衣擦れの音もしない。ベルの存在を示す音以外、無音だった。
『ンだよ掛けといて黙ってるとかマジありえねー。何?イタ電?切っていい?』
「…っ、…ま、…って…」
『…何だよ。ししっ、名前泣いてンの?』
「…ぃて、ない…。……あ、のね…ベル、」
『んー?』
おかしいな。
ベルの声を聞いたら、気持ち悪いのがすぅって引いていった。頭はまだ少し痛いけど、逆に息苦しさが強くなって、一度深呼吸をしようと思ったらじんわりと視界が歪んで、やばい、そう思った。
「………っのね、」
『うん』
「…あいたいっ、なぁ…」
『じゃあ王子の部屋来れば?』
「むり…、いま、くるし…うごけな、」
『あっそー。王子呼び出すとかお前何様ー?』
「………ぅ、」
『ま、別にいいけど?』
「もう来ちゃったし」
つー、つー。
通話が切断された音がして、クリアになったベルの声がして、あれ?あれ?
「何?今度は食い過ぎて腹イタ起こしてんの?」
「……っ、…ちが、…ぅー」
「しししっ、ばーか泣いてる」
「ふ…ぅえぇ…」
「何それ?何語?地球上に存在する言語?」
信じらんない。泣いてる乙女にそれはないでしょ!?
でもついに瞳に膜として張っていた涙がぽろぽろと溢れ零れていくものだから見られたくなくてシーツに顔を押し付ける。
ふんわり、優しい感触で頭を撫でてくるその手のひらにとうとう息が詰まって酸素を補給することが不可能になった。
なんで私は泣いてるのかな。私よりもきっとずっと頭がいい貴方になら分かるのかな。
「擦ると腫れんぞ」
「…っ」
「何?お前なんで泣いてんだよマジ意味わかんね」
「……っ、く、…るし、の」
掠れた声でそう呟いたら、はぁーって長いため息が耳元でして、その距離感に吃驚していたら急に視界がぐりんと反転した。
涙の膜でぼんやり映る視界にはきらきらのきんきらきんしか見えなくて、それから息が苦しくて噛み締めてた唇に何か柔らかいものが触れてて、それが段々触れるだけじゃなくてくわえこむみたいに深く深く私の唇に組み合わさってきて、あぁそうちょうど人工呼吸をする、あんな感じ。
唇と唇の間を伝うように流れ込んでくる吐息を吸う。酸素なんてこれっぽっちも含まれてない筈なのに、呼吸を拒絶してた気道が開いて途端にそれが肺の奥の奥まできれいにすっかり入ってくる。
なんだか安心して、でもどうして安心してるのか分からなくて暫く目を閉じてその呼吸を続けていた。過呼吸になっていた私の呼吸が正常に近づいてくると、パズルのピースみたいにしっかりきっちりはまっていたその唇が離れていって、少し寂しくなった。
ほぅ、と息をついてゆっくり瞼を開いた。見ればベルはまみれてさえいないものの、頬に返り血をつけたまま私に覆い被さるようにしてそこにいて、ぼんやり私は嗚呼、さっきヤってた女は殺されちゃったのかな、なんて冷静に考えた。
「少しは楽んなった?」
「…んー、…たぶん」
「じゃあさ、」
「うん」
「なんでノックしたあと入って来なかった訳?」
わかんない。
わかんないよ、ベル。気づいたら、もう気持ち悪くて立ってらんなかったの。
正直にそう伝えた。今度は、私が質問した。
「さっきの女はどうしたの?」
「ん?抱けってうるせーし暇だったからヤってたけど、つまんなくて殺しちゃった。うしし♪」
「そっか」
「名前もしかして妬いた?」
「さぁ。少なくとも、ベルの恋人になった覚えはないなぁ」
「のわりには随分安心した顔してんじゃん」
うん。そうなの。あたしも、よくわからない、けど。
安心したくて誰かを呼ぼうと思った。だけど、もしかしたらベルじゃなかったらこんなに安心してなかったかもしれない。
そんな私の気持ちを見透かしたようにまたししっ、と笑えば、そのままぎゅうと抱きついてきた。
ベルと体がぴったりくっつく。ベルの温もりが肌に直に伝わる。甘えるように肩口に顎を乗せて頬擦りしてくる。ベルの何もかもが、私を安心させる。
「王子も名前からじゃなかったら電話取ってなかったかも」
「そう」
「だって知らねー女抱いてるよりお前と一緒のが楽しいし」
この、日向ぼっこしてるみたいなあったかさはなんなんだろう。
耳元でベルが囁いた。
「なぁ、これなんでだと思う?」
わからない。首を横に小さく振ったら、ちゅ、と可愛らしく頬に口付けされた。
呼求
「好きなんじゃね?俺とお前」
そっか。好きってこんな感じなんだ。
考えても考えても分からないことって、案外感じる方が早かったりするんだね。
納得して、もう一度優しくキスを交わした。
fin.
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bkm