ほぅ、息を吐く。
真っ白な吐息が空気へと溶けていった。
あー、チョコまた渡せなかったなー。
「なにしてんの」
ビクリ。肩が跳ね上がる。
振り向けば、この寒い冬にもかかわらずYシャツに学ランのあの人。高校生なのになー。なんで学ランなのかな。
「何って…今から帰るんですけど」
「今日は仕事があるから残れって言っておいたはずでしょ」
「一昨日今日の分も合わせて全部片付けたはずです」
「今日は今日で仕事がある」
「そんなの聞いてませーん」
困ったようにして両肩を寄せて両手のひらは天へと向ける。
ふざけたように間延びした声を出せば、彼の眉間には皺が。口はへの字だ。
「とにかく帰らせないよ。残ってもらう」
「やですよ。帰らせてもらいます」
「拒否権はない」
「先輩にね!」
くるり、180度身体の向きを変える。そのまま猛ダッシュ。ざくざくと雪を踏む音が耳に新鮮だ。
「待ちなよ」
「待てといわれて待つような人間じゃないってー、先輩が一番知ってるでしょー!!」
走ることには自信がある。
なんてったって、幾度も彼からこうして逃亡して成功した経験があるのだから。
最強最凶の雲雀先輩から逃げられたら、それは誇りに思ってもいいと思う。
先輩に出会ったのは、高校入学の時。
中学校は全然別の地域で、両親の仕事の関係で引っ越してきた。
で、わざわざ遠くまで通いたい学校に受験したわけでもないし、どうせなら寝坊しても走れば間に合う距離のこの平々凡々な並盛高校に通ったほうが得だということになったわけである。
中学時代陸上部のキャプテンを任されていた私は、当然足も速く持久力だって充分に兼ね備えていた。
高校の入学式を終えて、清々しい気持ちで正門をくぐった私を待っていたのは不良の軍団だった。
なんともタイミングの悪いことに周りには誰一人として私を助けてくれるようなたくましい人はいなかったし、それに私は飽くまでただの陸上部。喧嘩に強いわけがない。
逃げるしかないなーと直感した私は不良と不良の隙間からなんとか逃げ切れないものかと周囲を見回したが、あっという間に囲まれてしまった。
あーあ、ボコされんのかな。それともレイプかしら。終わったなー私。
でもまあそれなりにしぶといというか神経がずぶとく出来ている私は、じりじりと寄ってくる不良たちの間に抜けられそうな隙間が出来ると、強く地を蹴って走り出した。
腕を掴まれたりしても振り払ったし、とにかく道に迷うことを覚悟で走るのが限界になるまでひたすら逃げた。
おかげで学校の前の不良たちからは逃げることが出来たものの、準備体操も何もなしで急に全力疾走したから足首は捻るわ掴まれた腕には痣が残ってるわで、勿論思ったとおり道に迷うしここはどこ?な状況だったわけだ。
逃げてもなー、迷ってたらあかんよなー。
途方に暮れて、とりあえず道路の脇のベンチまで移動して座って、また歩けるようになるまで休憩をしていたところで、それは起きた。
「君だね、さっき不良たちから逃げ切ったの」
声をかけられると思っていなかった私は物凄く驚いて、首が千切れそうになるほど辺りを見回したけどそれらしき人物が見当たらなくて、空耳かなと呟いた時、首にひやりと冷たい何かが触れる感触に気が付いた。ああ、真後ろか。
「面白いね…、まさか女一人であの人数から逃げ切れるなんて」
ぐ、硬く冷たいそれが喉を圧迫する。
視界の端に映る銀色に、ああこれは武器なのかとぼんやり考えた。
「咬み殺したい…ところだけど、君、並高の新入生だね?それも引っ越してきた」
「へ、なんで…」
「僕も並高の生徒だからさ。君の事は資料で見た」
「はあ。どうも…先輩ですかね」
「そうなるんじゃない?」
「ところで見ず知らずの先輩、そろそろ自由にしてくれません?よろしければ道案内なんかもしてくださると助かります」
「……この僕にそんな口聞く女子は初めてだよ」
いいよ、気に入った。そう言った先輩は銀色の武器を私から離して、後ろでなく前へと回り込んできた。
黒髪で吊り目の先輩だった。何故かその頃から学ランだった。
綺麗な顔してるなー、とぼーっとしていた時、足首に激痛が走って、痛みにはっとしてみれば彼は跪いて下を向いていて。
私の足首をそっと触って「ここかい?」と問うてくる先輩は、会ったばかりでまだいまいちわからなかったけど少し真剣な顔をしていたと思う。
「捻ったんだろう?座るとき引きずってたからね」
「いっ!……、いつから居たんですか」
「あの群れをグチャグチャに咬み殺した後君を探してたんだ。そしたら壁に凭れてたのを見つけた」
「ああそうですかー…っていったいな!!!わざと触って遊んでるでしょう!」
「結構酷く捻ったね…」
「いたーい!!!!やめて待って触んないでアキレス腱とこ持って足首を持ち上げないでえええええ」
「うるさいな分かったよ」
静かに足首を下ろした先輩は立ち上がって今度は私の左腕を持ち上げる。
シャツの袖を捲くると、指の形についた痣を細い指でなぞって眉間に皺を寄せる先輩。
「住所は」
「は?」
「君んちの住所」
「あ、はい、えっと…」
ぼんやり憶えている数字の羅列を言葉にすれば、「分かった」と言ってまたしゃがみ込む先輩。
「おぶってあげる」
「ええっ」
「文句あるなら歩けば?」
「すんません失礼します」
先輩の背中はあったかくて、揺られるたび眠ってしまいそうになったのを覚えている。
その度に足首を触られて泣きそうな思いをしたことも、苦々しい思い出として記憶に残っている。
それが、私と先輩の出会いだった。
それから「興味がある」とか「面白い」とか「君は僕のお気に入りだからね」とか言ってなんか知らないうちに風紀委員に入らされていた。
彼がどういう人物なのかも、副委員長の草壁さん(予想外すぎにも同学年だった)から聞いた。
それで、まあ、彼とは色々な事件等々を乗り越えつつお世話になって、私はそんな彼に知らず知らずのうちに恋をしていたというわけだ。
今日はバレンタインデーだ。恋人の日。
それに便乗して告白しようとしたのに、去年も一昨年も失敗しちゃったし。
彼とももうすぐお別れ。来月には日本からいなくなってしてしまう。
同学年の沢田君が言っていたけど…、雲雀先輩はイタリアに行ってしまうらしい。
最後のバレンタインなのにな。もう、足が速いだけの意気地なし。
今もこうして、彼から、彼への想いから、逃げている。
べしゃっ。
考え事をしながら走ったせいで、雪に足をとられて転んでしまった。
うー、雪に顔から突っ込んだよ。冷たいなーもー。
立ち上がって再び逃げる気も起こらず、そのまま座り込んでいた。
すると後ろから彼の足音がして、振り向くのも億劫になって、肩に引っ掛けているだけだった鞄も放り投げた。
もう、やだ。
「………、やっと、止まったね…」
先輩は肩で息をしていて、さくさくと雪を踏み分けて、私の隣に座った。
彼の熱い呼気が白濁色になってまた空気に溶ける。
それから先輩は、
「捕まえた、」
冷たくなった私の右手を、そっと握った。
あの日と同じ。また吃驚した私は隣の彼を振り向く。
彼は、今まで見たことないくらいに綺麗に、優しく笑って、
「もう、逃がさないよ」
君は、僕から逃げる最後のチャンスを逃したんだ。
先輩の大きな手が私の小さな頼りない手を包む。
嗚呼、ああもう、
「捕まっちゃったじゃないですか…っ」
じわり染み出してくる涙が雪に落ちて、灰色の跡を作る。
それはもう止まらなくなってしまって、目を瞑っても睫毛と睫毛の隙間からあふれ出してくる。
そっと抱きしめてくれる先輩の腕の中は、最初で最後おぶってくれたあの日感じた背中のあったかさよりも、もっとずっとあったかかくて、また涙が溢れてしまった。
「ねえ、今日の仕事何か分かる?」
「ふ、ふぇ…」
「…、なんて声出してるのさ」
「知りませんよそんなことぉ…!」
「馬鹿だね、教えてあげるよ」
君が僕に捕まること、だよ
ラストチャンス
(あの鞄の中のチョコ、僕が貰っていいんだよね?)
彼と私が国を越えても繋がっていられるようになったこと。
それが、彼の私への、チョコの代わりのプレゼント。
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