最近また喉がおかしいことは、なんとなく分かっていた。
でも、気が付かないフリをした。

もうすぐ話せるようになる、その希望を自らかき消すなんて、
あたしには出来なかったから。





12:さよならをげよう





朝起きると、喉がからからになっていた。
一週間と少し前くらいから、毎朝そうなってる気がする。

ベッドからおりてスリッパをつっかけ、台所へ急ぐ。
冷蔵庫の中で冷やされたペットボトルの飲料水を少しずつ喉に流しこむ。
一時的に渇きは癒えるものの、しばらくすると今度はそれが痛みに変わった。


そして今日もあたしは、病院へ行かずに登校する。















「ここのところ、発声練習しないよね羽無」


ふと、会話の途中に京子の口から出された話題に、びくり、肩が跳ねる。

【ちゃんと治ってからいっぱいやろうと思って】

「そういえばあんた最近挨拶も声でしないよね。なんかあったの?」

【なんにもないよ】

花が心配そうにあたしの顔を覗き込んでくるけれど、スケッチブックを見せて笑って見せれば、
そう?なんて言ってもとの姿勢に戻った。

筆談の便利なところは、動揺している時、不安な時、怖い時、
相手に察することをさせないところだ。

声が震えることも無ければ、何度も噛んだりしないし、さらさらといつも通りに
ペンを滑らせればいつも通りの自分でいられる。


「何かあったら、すぐ言ってね?」


二人には、もうこれ以上心配をかけたくない。













「君、最近声出さないよね」

会計処理を進めていた右手がぴくりと跳ねて、そのあと静止する。
必然的にその右手に握られていた鉛筆も自らの鉛を削ることをやめる。

ああ、計算してたのに。全部吹っ飛んじゃったじゃないか。
また何万という桁の数字と睨み合いをしなければならない。

「必要最低限しかスケッチブックも書かないし。何かあったの」

疑問系ではなくて、確信しているかのような強い声音。
顔だけそちらへ向ければ、攣り目の真っ直ぐな漆黒の瞳が、あたしをじっと見ていた。

【何もないですよ】


朝も京子と花に同じこと質問されたなあ。
思い出しつつ偽りの返答を書いたページを見せれば、「そう」とだけ言って、
彼はまた自分の仕事へ意識を戻した。

並盛の秩序にして並中風紀委員長、最強の不良である彼・雲雀恭弥に
嘘をつくというのは、あたしにとって大変な重労働である。
彼と過ごす間で分かったことなのだが、あたしは顔に出やすいタイプらしく、
余計に難題科目なのだ。
字体が震えて弱弱しいものにならないよう、表情に歪みが出ないよう、最大限に注意を払って、
それでも知られたくないがために嘘をつく。


本当に、あたしは弱くて醜悪な人間だ。










夏祭りの日から、自分の精神状態が不安定になっていることには気付いている。

死ぬまでトラウマになるであろうあの事件≠引き起こした元凶の二人に再会したことで、
恐怖が、痛みが、フラッシュバックするのだ。

毎夜毎夜、あの時≠フ夢を見る。

靴を隠されることに始まり、仲間外れにされ、教科書への落書きは日に日に増えるばかりか、
大切なスケッチブックにまで暴言を書かれる始末。

先生に見つかることのないようにひっそりと行われるいじめ。
あたしが基本誰にも告げ口しないのをいいことに、日を経るごとにヒートアップしていくソレ。
何度も泣いた。目を腫らして、京子や、まだ僅かにいた友達に心配をかけることのないように
学校を休んだことも、たくさんあった。

お母さんも、お父さんも、海外でいっしょうけんめい仕事をしている。
あたしの医療費のために、生活のために。

幸いにも二人はお金さえあげていれば問題はないなどという冷たい親ではなかったので、
時間さえ出来れば必ず連絡を寄越してくれる。手紙も3ヶ月に一通、出してくれる。
でも電話では応答できないあたしのことを考えて、8000KBを越えるメールを送ってくれるのだ。
だけど仕事で疲れている両親にそんな些細なことで頭を使わせたくない。
仕事の合間を縫って送ってくれるメールを読むだけで満足だ。

何の仕事をしているのかなど、もう何年も前からそんな疑問すら頭の片隅に追いやっていた。
それは、あたしが気にするべきことではないのだから。






羽無


毎夜毎夜繰り返されるあの夢に、度々顔を覗かせる記憶の彼。


羽無


今彼はどこで何をしているんだろう。

また会えるだろうか。



必ず、迎えに行きますよ、羽無


あれは、本当なんだろうか。







そして時を刻み続けていた記憶の時計は、突然狂い始める。








「元気羽無?」

「こないだ振りね」


性懲りもなく現れた二人。誰かとは、言わずとも分かるだろう。

委員会の仕事を終え帰宅途中のあたしの前に現れた人影。
どうやら、待ち伏せしていたらしい。


【学校は?】

「あら、私たちの心配してくれるの?やっさし」

「今日は開校記念日で休みだよ」


スケッチブックを両腕で抱きなおす。
武器…、になるようなもの、は、今のところ確認できない、か。


「怯えなくていいんだよ、今日はちょっと話をしに来ただけだから」


有香ちゃんが笑って言う。
後ずさりしないように、足に力を込めた。震えているのには、とうに気付いている。


「こないだの男…、ヒバリキョウヤだっけ」

「随分あんたにご執心みたいね」

二人が近付いてくる。抱きしめたスケブが、みしりと音を立てた。


「この腕章も…なんか目につくよね」

「赤地に金糸でだもんねぇ」

腕章に葵ちゃんの手が触れる。
背筋を寒気に似たものが駆け下りた。

「大丈夫よ、私たちだって昔みたいになんでもかんでもすぐ武力行使で済ませるような人間じゃないから」

「成長したんですー」

足が地に縫い付けられたよう、とはこんなことを言うのか。
腕章の字をなぞる葵ちゃんの指に不快感を覚えて、振り払った。


「ん…、何、あんたもあいつにご執心?」

「ま、理由なんて別にどうでもいいけど」


その時だった。


ブチッ

「……っぁ!!!」


声が、洩れた。


あったはずの場所に腕章はなく、そこにあるのはあたしの血でどんどん紅くそまっていく、
破れたシャツの袖だけ。
血の滴る安全ピンが曲がって引っかかっている糸のほつれたぼろぼろの腕章は、
葵ちゃんの手の中にあった。


「いったそー、肉抉れてない?だいじょーぶ?」

「このくらい序の口よね?だってあんた、もっと痛いことされたもんね?」


スケブまでもが紅く染まり始めて、ばさりと地面に落とした。
右手は左腕の傷口を止血しようとさっきから懸命に傷口に押し当てているのに、
激痛しか走らない。止まるどころか血は溢れてくるばかりだ。


「どうしてか知らないけど、あんたに関してだけは力で痛めつけないと気が済まないのよ」


背中に鈍痛。

有香ちゃんの容赦ない蹴り、だ。


そのままよろめいて、膝をつく。
けれど貧血からか頭がくらりと揺れて、あっという間に倒れてしまった。

ローファーのヒールが何度も何度も衝撃と共に押し付けられて、
意識が飛んでしまいそうだ。


手が血でべとべとする。
視界がぼやけていく。


「ふふっ、あんたが死んだらこれもいらないよね」



葵ちゃんの声。
彼女の足元に落ちたのは、さっきまで有るべきところに有った風紀の腕章。
ぐしゃり、踏み潰される。


「葵やめときなよ、こいつ泣いてる」

「あっはは、もう意識は飛んでるんじゃない?目も虚ろだし」


二人の笑う、声。




ああ、ああ、わんしょ、う





風紀委員になって初めてパシリをやらされた時雲雀サンがつけてくれたもの。
一時退会させられた時も、あたしが風紀委員だった証としていつも持っていたもの。
仕事をする時以外も、つけていた大切な大切なあたしの、腕章。


彼とあたしを繋ぎとめてくれていたわんしょうが




「…………め、て」

「ん?」

「今なんか言ったこいつ?」

「やめて!!!!!」




腕を、血にまみれた腕を伸ばした。

腕章の端に触れた。握った。引っ張った。

葵ちゃんの足は、腕章でなくあたしの手の上に乗った。
踏み潰された。ミシミシと嫌な音がする。

それでもやめなかった。

音は聞こえなかった。
ただ腕章を引き寄せた。

取り戻した。曲がった安全ピンが刺さって痛かったけれど、もう離さないように握り締めた。



意識は、そこまでだった。





殴られて、蹴られて、骨が、内臓が、
悲鳴を上げる音が、いつまでもきこえた。


空は、真っ赤な血の色をした夕焼けだった。






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