目を覚ますと、そこは見慣れた白い個室。 長い間眠っていたようで、そうでもないような、ぐっすりとお昼寝をしたときのような感覚でぼんやりする頭。暫くぼーっとして、首を動かすこともままならない。 そうっと体を起こした。窓からの景色は変わっていない。脱走した病室と同じ部屋に入れられたんだ。 後ろ髪が短いせいで、頭がやけに軽く感じられた。よくよく見ると、おさげのとこも含めて適度に切り揃えられて整えられていた。 ショートヘアなんていつぶりだろう。イタリアにいたとき以来かな。 ガラリと病室の引き戸を引く音がして、そちらを振り返ると、目を真ん丸に見開いている京子と花がいた。 「……っ羽無!!」 「………あんた…っ、」 駆け寄ってきた京子に、きゅうと抱きしめられる。いつもはぽかぽかの太陽みたく微笑うその顔が、今はくしゃくしゃになっていて、ぽろぽろと涙の粒が眦からこぼれ落ちていた。 花も寄ってきて、頭を小突かれた。いつもクールな彼女が、珍しく顔を赤くして目に涙を溜めていた。 「っばかじゃないの、今までどこにいたのよ…っ」 「羽無、怪我だらけだよ…!?どうしたの、何があったの…!?」 「…………ごめ、……」 掠れた声が、ちらちらと降り積もる雪のように洩れる。 もうさっきまでのようにスラスラとは声は出なかったけれど、それでも十分だった。 声が出せた。改めてその事実を確認して、安堵する。肩が小刻みに震えて、また涙が込み上げてくる。 まだ、まだ。約束は、守れる。 歌だって、きっと歌えるようになる。 ごめん、ごめんね。 たくさん心配かけたよね。 いっぱい困らせたよね。 あたし、あたしね、 もう逃げないよ。 そこに、かたり、小さく小さく物音が響いて。 扉に手をかけた、有香ちゃんが、立っていて。 条件反射だ。彼女の姿を見ただけで、身体はぶるりと震え上がる。 京子が、優しく抱きしめてくれる。怖くないよ、って背中を擦ってくれる。 無意識に毛布を握るあたしの手に、花の細い指先が重ねられる。 大丈夫、大丈夫。 あたしはいま、ひとりなんかじゃない。 ふ、と顔を上げた有香ちゃんは、しかし何度か躊躇うように視線を彷徨わせて、そうして漸く、けれど自信なさげな弱々しい瞳をして、あたしに焦点を合わせた。 あたしは、親友たちの温もりに包まれてなお冷えていく体温に気づかないふりをして、真っ直ぐ彼女と目を合わせた。 「………ぼろぼろ、だね」 初めて聞いた声音だった。 有香ちゃんは、こんなか細い声を出す人だっただろうか。 「怪我……増えた、よね」 ゆっくりと、瞬いて。 己のしてきたことを、見つめ直すように。 眉間を寄らせて、つらそうにあたしを見る彼女。 「……どれが、私のつけた傷か、わからないけど……」 大きく深呼吸をして、恐る恐るといった足取りで病室に踏み込んでくる有香ちゃん。 縮められた距離に、更に全身が強張るのを感じる。 そうしてあたしのベッドの足元まで来ると、向かい合う形になった彼女が、今まで見たことのない表情であたしを見下ろしてくる。 「ごめんなさい」 有香ちゃんは、腰から折るように頭を下げて。その口からは、期待すらしていなかった謝罪の言葉が。 思ってもみなかった彼女の行動に、あたしは目を見張る。 「………ど、ゆ……こと、」 「ごめんなさい。…っごめんなさい……」 なんで謝るの。今更、なんで。 ふつふつと沸き上がる怒りに、あたしは奥歯を噛み締める。 面を上げた有香ちゃんは、目に涙を溜めて、こう言う。 「今更すぎるよね。もう遅いよね。でも、謝っておきたかった。私の、自己満足でも良かった。羽無には、謝らなきゃって、本当に、そう思ったんだよ」 ごめん。その言葉が、ささくれみたいに心に引っ掛かる。 最初は少しでも仲良くお話出来てたはずなのに、どうして今はこんなにも遠いんだろう。ごめんの言葉が、遠いよ。 【はじめまして、南羽無です。日本語はまだむずかしくてじょうずに話せないけど、みんなと仲良くなれたらうれしいです、よろしくおねがいします】 トントン 【青島さん。隣の席だね!よろしくね】 「南さん…、よろしく…。あ、えっと、わからないことがあったら聞いてね?」 【 「いいよ。あ、…じゃあ、私は日本のこと教えるから、羽無ちゃんはイタリアのこと教えてくれない?」 【Hm!…今のは、イタリア語でうん≠チて意味】 「ふふ、なんとなくわかった」 【じゃあ、イタリアって言ったらなに思いつく?】 「えっとー…ピザ。ピザとか、スパゲッティ?」 【pizzaはねー、トマトのが美味しいよ!あとトマトっていったらamatricianoっていうのがあって…】─── なんでこうなっちゃったのかな。 「多分、私、寂しかったんだ。一番に友達になれたと思ってたのに、羽無は皆と仲良く出来るから。 私ね、あんまりお喋り得意じゃなくて、初めて話し掛けてくれたのが羽無で、すごく嬉しくて。でも、羽無は私じゃなくても話せるから。それが、寂しくて、悔しかったんだと…思う。 私ね、羽無とお喋り出来るようになったら、友達が出来た。羽無がいたから友達を作れた。なのに…なのにごめん。 皆に羽無の悪口言って、皆でいじめたりして…葵がね、羽無が他の子と話したりするようになってから、ずっと一緒にいてくれて…学校移ってからも、葵とこうして謝りに行こうって、そう話してて…でもいまここにいるのは私だけで…」 どんどん涙声になっていく有香ちゃん。 その顔はくしゃくしゃになっていって、ぼろぼろと溢れた涙が彼女の頬を濡らした。 「ずっとね、また最初みたいに、お話したかったんだ。また、他愛もないことで笑い合えると思って。 違うよね、私は、自分からその可能性を断ち切ってたんだ…傷付けて、傷付けて、それでこっちを向いてくれるわけないのにさ…」 あ、と思った。 こっちを向いてくれる 怖いと怯えるあたし自身から目を逸らすのと同じように、有香ちゃんはずっと、傷付けてしまう自分から逃げていたのかな、なんて。 向き合うつらさは、あたしがよく知ってるから。ずっと背中を向けて、見ないようにして、気付かないふりをしていた。 全部許したわけじゃない。 だけど、あたしも、その気持ちは分かるから。 「……きょ、こ…」 「ん?なぁに羽無」 「も、だいじょ、ぶ」 「……うん」 花も、と言えば、二人はそうっと離れて、あたしはゆっくりとベッドを降りる。 そうして、ひたりと音を立てながら裸足で有香ちゃんの前まで行くと、 そうっと、抱きしめた。 「…………ぇ、」 有香ちゃんの戸惑った声。 うまく、言葉に出来なくて、抱きしめる腕を少し強くする。 有香ちゃんも、力無く抱き返してきて、あたしの肩口に額を押し当てた。 「………っ、……ごめん…… ごめんね………羽無……っ」 見ないようにして、気付かないふりをして、ずっと遠ざけていた自分自身。 だけどそれも大切な自分自身に変わりはなくて、居てくれたから自分はここに在るんだってこと。 気付けた。振り向けた。歩み寄れた。 知らない自分だけど、知っていけば必ず力になってくれるよね。 だからもう、怖くないよ。 仲直りをしよう。 有香ちゃんは、そうやって、暫くずうっと泣いていた。 [prev] [next] back ×
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